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声のする方、自転車置き場の入口に目をやる。
そこに高校生くらいの男女が、だれの目にもカップルだとわかるくらい身体を寄せ合って立っていた。ふたりとも目立つ茶髪で服装もオシャレを越えてただただけばけばしい印象。顔は笑っているがどこか人をバカにするような調子だ。
「あんた、今日家で顔見ないと思ったら、男と会ってたんだぁ。そいつだれ? 紹介しなよ」
ふたりが近づいてくる。その言葉にフクショーの話を思い出した。たしか美和には中学生の姉がいて不良と親しいってことだった。この女の人がそうなのか。それにしては年がずっと上に見えるけど。服装も言葉づかいもとても美和の姉妹だとは思えないし――。そう思い回していると、
「こちら、同じクラスの森田くん。いっしょに図書館で勉強していたの」
美和がぼくを簡潔に紹介した。続けてぼくを向いて、
「こっちはわたしの姉ちゃん、とそのカレシ」
とつけ足した。美和の顔からいつもの愛嬌が消えてこわばって見える。
「初めましてー、もぉりたくんかぁ。図書館でお勉強って、いかにもまっじめーって顔だよね。そんな勉強ばっかしてると頭に虫がわくよ。なに美和、コイツとつき合ってるの?」
粘着質な視線をぼくらに向けて、いっそう下卑た調子で美和の姉がからんできた。美和はその問いには答えず、サッとぼくの腕をつかむと、
「もういいでしょ。さぁモリハル、行こう」
どんどんその場を離れていく。ぼくも引っぱられるままついていった。
「おいっみわぁ、そんな逃げ出さなくてもいいだろぉ」
とはやし立てるカレシと、続くふたりの「ギャァッハハ――」と哄笑する声が日曜日の夕暮れを汚すように響いた。
美和は姉とそのカレシの存在から何万光年も離れないと安心できないとでもいうように一心不乱に歩き続けたので、郵便局のそばまできたとき、
「もう大丈夫だよ」
しかたなくぼくから足をとめた。美和の家からまるで反対の方角にきていたから。
それで美和もやっと足をとめた。
「モリハル、気分を害してごめんね……」
彼女の気落ちした表情が尋常じゃなく暗い。まるで生気がなかった。
「ぼくは平気だけど……。美和は顔色悪いよ」
「ううん、大丈夫。でも恥ずかしいとこ見せちゃったな。あんな人でもわたしの姉ちゃんなんだ。どうしようもなさすぎて引いたでしょ」
ぼくはなんて答えていいかわからず黙りこんだ。
「あのカレシもしょっちゅうウチに入りびたっていて――、やたらなれなれしいから好きじゃないんだ。その友だちもみんなおんなじような調子で……って、ご、ごめん、わたしったらなに言ってんだろ。こんなことモリハルにグチることじゃないね」
「そんなことないよ。それでなにか困ったことになってるの? 力になれるかどうかわからないけど、ぼくなら話を聞くよ」
「モリハルありがと。でもそんな心配しないでも大丈夫。ただの家族の恥ってだけでどうってことないんだ。そ、それより今日は楽しかったよ。――じゃぁまた明日、学校でね」
美和の顔に少し笑顔がもどる。無理に気持ちを切り替えたみたいで痛々しい。
「あ、……うん。また明日」
美和は頼りなく手をふり、きた道をもどっていった。ぼくはその姿を少し見送ってから歩き出した。
あんなふうに言うのが精いっぱいだった。あれ以上踏みこむのは、ぼくにはハードルが高すぎる。それをおいて、あんなにとり乱した美和は初めて見た。いや、一見気丈にふるまっているようで内心の乱れがたやすく伝わってきた。
たしかに自分が恥ずかしいと思っているなら不良の姉とカレシを同級生に見られたことは動揺に値するかもしれない。それでも、それだけじゃないと思わせる不可解な信号が美和からは発せられていた。今回ばかりはぼくの思いすごしだとも思えない。
つまり、これがあの影の原因なんだろうか?
月曜日に顔を合わせた美和はもういつも通りの彼女で、昨夕のことがウソのようだった。しかしこの日、ぼくには予想もしなかった展開が待っていた。
四時間目が終わって給食の準備が始まり、机を合わせたぼくと美和はいつものお約束を始めた。腕相撲だ。それもものの数秒で決着する。
「はーい、今日もモリハルの負けだね。もぅ、ぜんぜん進歩がないなぁ」
そうは言ってもこれもいつものお約束。勝負がついてもぼくの手を握ったまま、コンコンと机に何度も押しつける美和。そこへたまたま――トイレにでも行っていたのか――外からもどってきた岡村たちが通りかかった。
「あれっ、なに? 美和って森田とそんな関係だったわけ?」
机の横に立ちどまった岡村がぼくらの手を注視して言った。ナータンやクマキチものぞきこむ。ぼくらはどちらからともなく手をはなした。
「なによ、関係って。わたしとモリハルは毎日給食のまえに腕相撲で勝負をしてるの。それがなにか悪いの?」
それでもまったく物おじせずに返す美和。
「なんだよ? モリハルって」
とクマキチが胡散くさそうにぼくをにらみつける。
「このふたり、二学期に席替えしてからずっとやってるよ。毎日森田が負けてるけど」
同じ班の青木がよけいな口をはさんだ。
「なぁんだ、それじゃぁやっぱりできてんじゃん」とナータン。
「んなのウソだろぉ」とクマキチ。
そうやって場が浮き立つ中、
「こんなことで関係とかできてるとか、あんたたち、ホント、ばっかじゃないのっ」
美和が冷たく言い放った。これしきのことではまったくペースを崩さない。これこそ美和の本領だ。
ぼくはといえば顔が沸騰したヤカンくらい熱くなるのを感じながら小さくなっていた。この事態がどう収拾するのかと――。すると、
「そうか、これはオレの発言が少々軽率だったよ。悪かったな、美和。そのかわりってわけじゃないけど、オレとも勝負してみようぜ。森田よりちょっとは手ごたえがあるはずだから、な、いいだろ?」
さすが岡村は罵倒されても表情を変えることなく切り返した。
「……別にかまわないけど」
逆に珍しく美和の歯切れが悪い。
「じゃぁその次、オレな」「オレも」とクマキチにナータンが次々とそれに乗っかる。
「さぁ森田、ちょっと席替われよ」
岡村に言われるままにぼくは席を立った。
ぼくの席に着いた岡村が腕を差し出す。ゆっくりと美和もその手を握る。極力平静を装う彼女も――ぼくにはそう映った――岡村の手を握ったとき、なにかを我慢するような表情を浮かべた。きわめて一瞬でだれも気づいてないけど。
結果をいえば、三十秒ほど拮抗したうえ岡村の勝ち。クマキチには簡単に勝利し、体格のいいナータンにも少し時間がかかったけどやはり美和が勝った。
「オマエら、情けないなぁ。森田と変わんないじゃん」
岡村が言うと、そのあと三人はあっさり自分たちの席にもどっていった。
美和のほうもなにごともなかったような顔で配膳を待った。けれど給食を食べているあいだ、心なし言葉数がいつもより多かったように思う。それであの三人との腕相撲が彼女の本意でなかったとあらためて感じさせられた。
その証拠に次の日から、ぼくと美和のあいだで二カ月近く続いた〝お約束〟がなくなったのだから。
給食のまえの腕相撲。わずか数秒の日課。
それでもぼくには、美和のいちばんニュートラルな部分に触れている、知らずそんな特別な思いがあった。それが突然終わりを告げた。
それについて美和はなにも説明や弁明はしなかった。ただその時間になっても――ほんの一瞬迷うような表情を見せただけ――手を差し出してこなかった。
ぼくも昨日のうちからうすうすこうなる予感はあった。
ぼくらがこれからも腕相撲を続けていると、また岡村たちがわりこんでくる可能性が大いにあるから。昨日のようすから美和はそれをよしとしないだろうということはたやすくしれた。
ふたりでずっと続けると決めていたわけでもなく、しょうがないとはいえ、毎日の給食が空気を飲みこむくらい無味で、それほどぼくは淋しかった。
美和はどうだろう? そもそも彼女から始めたことだったけど、ぼくと同じ気持ちだといいのにと思うのは思い上がりかな。
それでも日々はすぎていく。音楽会の練習は着々とまとまりができてきたし、北校門の木々は少しずつ葉を落とし始め、放課後の新聞係の活動も変わらず続いた。そう、美和との繋がりが切れたわけじゃない。給食まえのいっときがなくなっただけ。
ただ、それだけ。
それなのに、この冬のジャングルジムみたいな空虚さったらなんだろう。