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しかし運動会も迫ったころ、思わぬところからその影の手がかりを聞知することになった。
その日の放課後は新聞係の用事もなく、ぼくは四組のフクショーといっしょに下校していた。
フクショーは三年と五年のとき同じクラスだった生徒だ。家もわりあい近所だったこともあって、クラスが違っても親しくしている、ぼくの数少ない友だちだ。
昔っから食いしん坊で身体が大きく、そのくせ気の弱いところがあり、人まえでもすぐ泣くことから、揶揄する男子たちに〝ナミダくん〟という不名誉なあだ名をつけられている。
そのことですぐ思い浮かぶのは、去年、夏の自然学校でのできごと。
フクショーは昼食のおかわり自由のカレーライスをふつうの生徒の倍以上平らげたあげく、腹痛になって午後のレクレーションに参加できなかった。そのあと、彼だけ引率の先生から三時のおやつをとめられたのだ。これは当然といえば当然もっともな話で、先生の適切な判断だと思うし、しかたない。でも食いしん坊のフクショーには酷だったらしく、ほかの生徒たちが和気あいあいとアイスクリームを食べる横で、彼はシクシク泣いてしまった。フクショーには気の毒だけど、少し笑える、彼らしいエピソードだ。
そんな彼も読書好きで、その日の帰り道もふたりで、最近読んだアガサ・クリスティのABC殺人事件について感想を交換していた。
ひとしきり話し終えて、少しまがあいてから、
「モリヤン、最近、藤崎姉といっしょの係をしてたよね?」
フクショーはなんの脈絡もなくそんなふうに切り出した。新聞係のことは少しまえに話したことがあったけど、唐突に彼の口から美和の名まえが挙がったことで、なぜか後ろめたくなる。やましいことなんかないのに。
「うん。それが、なんで?」
「いや、こないだクラスの子たちが話しているのをたまたま聞いたんだけどさ。藤崎くんちって、今、けっこう大変なんだって」
「大変って?」
ぼくはなんとなく気持ちのよくない話を聞かされそうで身がまえた。
美和には洋介という双子の弟がいてフクショーと同じクラスだった。それが藤崎くん。その洋介を知る男子は美和のことを〝藤崎姉〟と呼んだ。ただフクショーと洋介はそれほど親密だと聞いてなかったから、ぼくが最近美和と近しいので世間話でもするノリで――それ以上の他意はなく――そんな話をふってきたんだと思う。
ぼくは洋介とは一度も同じクラスになったことがなく、話をしたこともなかった。
「もともと藤崎くんち、お母さんとお父さんの仲があんまりよくなかったらしくって、――ってこれは藤崎くんの親友のアンジンが言ってたんだけど。それが最近、お父さんが仕事を辞めてずっと家にいるようになって、ますますふたりが険悪なムードになっているみたいなんだ。それにさ、藤崎くんが学校から帰るとお父さんはもうお酒を飲んで酔っぱらってるんだって」
胸を杭で穿たれたみたいにズキンときた。
「だからアンジンが藤崎くんちに遊びに行こうって言い出すまえに、逆に藤崎くんからアンジンの家で遊ぼうって提案してくるんだって。これって、やっぱり家に帰りづらいってことだよね」
ぼくは歩きながらフクショーのほうを見ないで足下にばかり視線を落としていた。
なにも返さないぼくにフクショーは、
「藤崎姉はそれについて、なにか言ってる?」と訊く。
「ううん、ぼくはおんなじ係ってだけで、あの子とそんな親しいわけでもないから……」
自分でも知らずそんなセリフが口をついた。事実に違いないけど自分にウソをついているって感覚、そんな自己嫌悪がすぐに心をおおう。それをごまかすように続けてぼくは、
「藤崎くんのお父さんは、そのぉ……仕事を探してないの?」
どこか焦点のずれたことを訊く。
「それは知らない。藤崎くんも、さすがにアンジンにだって、そんなことペラペラしゃべらないんじゃないかな」
あたりまえだ。訊いたぼくがどうかしている。頭の中をドロッとしたヘドロが渦を巻いているようで気分が悪く、胸が押しつぶされそうだ。それなのに続けてフクショーは、
「それにね、一週間くらいまえに藤崎くんが頬っぺたを腫らして登校してきたことがあって、理由を訊いたら、転んで顔を打ったって説明していたけど、どうしてもそう見えなくって。あとからみんな、お父さんに殴られたんじゃないかって、勝手に噂してた」
「あとお姉さんが――あ、これは双子の藤崎姉のことじゃなくて、中学生のほうのお姉さんのことだけど――ヤンキーっていうのかな、不良の人たちと仲がいいみたいで、藤崎くんも仲間にされそうになってるって話なんだ」
とたたみかけた。ぼくはそれを気もそぞろに半分うわの空で聞いていた。
これで美和の影がぼくの思いすごしでなかったのと、その原因が彼女の家庭にありそうだということが、ぼくの中で充分なたしかさを帯びてきた。
でもそれを知っても、ますますぼくにはなんの手助けもできないということがはっきりしただけだった。
サッシに相談してみようかとも考えたけど、そこまで彼女と親しくなったわけでもなければ、相変わらず彼女の壁を越えるのは容易じゃなかった。
そのまま秋の大運動会当日を迎えた。
ぼくはただ自分がクラスに迷惑をかけないように無難にやりすごすことだけを心がけて、どうにか大きな失敗をしでかすことなく終えることができた。
美和はもちろんそんなぼくとは対照的に、みんなの期待にたがわぬ活躍ぶりだった。
組体操では三段タワーのてっぺんに悠々と立ち、騎馬戦では一騎打ちに残って四人抜きをして優勝。運動会のトリを飾る選抜リレーではわがクラスのアンカーを務め、まえを走る男子生徒ふたりを抜いて一着でゴールし、熱狂したクラスの歓声と拍手を惜しみなく浴びていた。
そんな美和の華々しい活躍で幕を閉じた運動会も、ただ一点、空気が冷やりとした場面があった。けっしてぼく個人の所感でなく、その場にいた全員にとって。
その事件は午前の部が終わって、昼食のために生徒が雑談をしながら各々の教室に引き上げている最中に起こった。
ぼくらが三組の教室に近づいたとき、
「おい美和、騎馬戦、オマエやっぱすごかったな。最後の今井ブーをやった瞬間なんか速すぎて見えなかったもん。ブーは帽子をとられたこと、気づいてなかったもんね。旗が上がってあわてて自分の頭に手をあててやんの」
クマキチが美和の背後から声をかけた。ぼくはそれをさらに後ろから見ていた。
彼は岡村にコバンザメみたくいつもくっついている典型的なクラスのお調子もので、それも調子に乗りすぎてみんなから煙たがられるタイプ。ふだんから美和にちょっかいをかけては、わかりやすく彼女への好意をクラスメイトに知られていた。
このときも、だからいつものざれごとだった。美和はふり向きもしないで、
「ありがと。でもわたしのまえで二度と今井さんをブーなんて呼ばないで」
と素っ気なく、けれど語尾だけは力強く返した。
「今井ブーは今井ブーだろぉ。デブにブーって言ってなにが悪い。あ、うそうそ、もう言わない。ちょっ、ちょっと美和、こんなことくらいで怒るなよ。なぁ」
言いながらクマキチは、美和のトレードマークである後ろで束ねた髪をつかんで引っぱった。
そのあとは一瞬だった。
てっきり美和はクマキチを軽くあしらうだろうとばかり思っていた。たぶん周囲にいただれもがそう思ったはず。でもそれは違った。
美和は騎馬戦の一騎打ちさながら、ふり向きざまに素早くクマキチの頬をビンタした。
心地よいくらいの音が響いて、
「さわるなっ」
いつもの美和からは想像もできない怒声。みんなの足がとまり、廊下が静まった。
彼女は本気で怒っていた。
髪をさわられたことがそんなに嫌だったんだろうか。女子はみんなそうなのか、ぼくにはそういう女心のデリケートな事情はよくわからなかった。
それにしたって、いつもの美和ならその場の空気を壊すことなくスマートに抗議したところじゃないかと想像するにかたくない。それなのに、このとき彼女が放つ空気はあの影と少し近いような気がした。
沈殿したような空気を破ったのはクマキチだった。
「わ、悪かったよ。今井をブーって呼んだのも、髪を引っぱったのも、ぜぇんぶオレが悪い。うん、ぜったい悪い。だから許してよ。このとおりだからさ、な、美和さまぁ」
彼は顔のまえで手を合わせコミカルな動きでおどけてみせて、生来のお調子ものの感覚でその場の空気を緩和させた。
美和は真っ赤な顔でクマキチをひとにらみすると、きびすを返してさっさと教室に入っていった。あとを彼女のグループの女子たちが追っていって、クマキチの無神経さをあげつらいながら美和をなぐさめているようだった。
ぼくはその一部始終に驚いていた。驚いていたけれど、たしかにこれも美和に違いないと、心のどこかで納得もしていた。きっちりとした根拠があったわけではないけど――。
ただこのあとの給食の時間、彼女と向かい合っての食事は気まずくなるだろうなと思いながら教室に入った。
席にもどって美和の顔を盗み見ると、外見はもうふだん通りの彼女にもどっていた。いつものように班で机を合わせ給食の準備をする。早川さんが美和に気をつかってか、
「美和ちゃん、午後からすぐ組体操だから、あんまり食べちゃダメだねぇ」
とわざとさっきのできごとなど知らないふりであっけらかんと話す。
「わたしはいくら食べても、ぜんぜん平気。バシバシ動けるよ」
美和もなにごともなかったような口調で返した。
ぼくもなにかふつうのことを話さなきゃと思い、頭をフル回転させながら美和を見る。もちろんふだんからできないことがこんなときにできるわけもなく、結果、不自然な挙動に映っていたかもしれない。
しかし美和はそんなぼくをどう思ったのか、目が合うなり、体操着からのびた細い腕をサッとまえに差し出すと、
「さぁモリハル、今日も勝負だよ。運動会スペシャルってことで特別に三回挑戦させてあげる。嬉しいでしょ?」
クマキチとの一件はなんだったんだろうというくらい明るい表情でにっこりする。
「ん、うん……」
どう答えたらいいものか考えながらぼくも手をのばし、彼女の手を握った。今日は少しあったかい。いつものようにふたりをやわらかい電流が繋いでいるような特別な気持ちになって、ギュッと握る手に力をこめた。
「やっぱり、モリハルはモリハルだね」
「えっ?」
その意味のわからないうちに彼女はさらににっこりと微笑むと、
「よぉーい、スタートッ!」
ぼくの手は瞬くまに倒された。容赦なく三回連続で。
運動会のエアポケットに起きた、クマキチへのビンタとスペシャル腕相撲。これにはどういう意味があったんだろう。考えてもさっぱりわからない。
それでも単純にいつもの三倍の時間、美和と手を握れたことは嬉しかった。