1
なんというか、美和はちょっとばかし変わった女の子だった。
でもそれは本当に〝ちょっとばかし〟であって、もしかすると、ぼく以外の生徒のだれひとり、ちっともそんなふうに感じてなかったのかもしれないけど。
いわゆる変わりものってことではなく、むしろはたから見ていると明朗闊達に映っていたし、六年三組にあって女子のリーダー的存在だったはずだ。
じゃぁぼくがどこにその〝ちょっとばかし〟を感じていたのか説明しようとすると、それがどうにも難しい。うまい言葉が見あたらない。
それは、たとえば彼女の笑顔が消えたあとの空気にまじった残滓だったり、放課後、教室を出ていくときの後ろ姿だったり、そういうものにぼくがふとかぎとる微香のようなものだった。
美和とは六年になって初めて同じクラスになった。
彼女はいつも背中の真ん中あたりまでのばした髪をぎゅっとひとつに結わえて、そのイメージ通り快活な女の子。
愛嬌のある猫目に笑うとできるエクボがチャーミングな美少女で、明るく嫌味もなく勉強もできて、走ると男子にひけをとらないし、ドッジボールでも遠慮なしでバシバシ男子を負かした。
また学校の規定で一学期ごとに選ぶ学級委員では、一年を通してずっと副委員長に選ばれていた。
言わば、美和は男女問わずどちらからも慕われる生徒で、それはつまり、ぼくとはかなり縁遠い存在だった。
きっかけは夏休み明けの始業日、二学期の席替えのこと。
ぼくらのクラスは一学期ごとに席替えをするルールがあって、くじ引きで決まったぼくの隣の席が美和だった。
一学期は数えるくらいしか話したことがなかった美少女が、これから四カ月間毎日ぼくの隣にいるんだと思うと、わずかな緊張と心臓のあたりがくすぐったくなるような甘い気持ちがこみ上げてきたのを憶えている。
ただし、それまでほかの生徒同様好感は持っていたものの、彼女を特別意識していたわけではなく、その日より、雨が地面に浸みこみ、それを植物の根が吸い上げるようにゆっくりと、美和がぼくにとって特別な存在になっていったんだと思う。
生徒たちがいっせいに新しい席に移動し、無駄口をきく声や机に持ち物を移す音で教室がざわつく中、美和はぼくに身体と笑顔を向けて、
「森田くん、これから二学期のあいだお隣さんだね。ヨロシクね」
と気軽に声をかけてきた。それがだれにも分けへだてなく接する彼女の社交辞令だとしても、ぼくはその簡単な挨拶のトーンのどこかに、なにかしら自分にだけ向けられた機微を感じとった気になって心中浮ついた。
「う、うん」とうなずくだけのぼくに続けて美和は、
「ねぇねぇ、森田くん、夏休みはどこか行った?」
とまるでこれまでもずっとそうしてきたような気安さで訊いてくる。
「どこかって――あっ、えぇっと、家族で淡路島に行った」
「それってお泊り? 海水浴?」
「うん。一泊二日で。海で泳いだよ。それとイングランドの丘にも行った」
「いいなぁ。イングランドの丘って、たしかコアラがいっぱいいるんでしょ?」
「うん」
またしてもうなずくだけで終わるぼく。訊かれたことに答えるのが精いっぱいで話を膨らませることができない。
その日、家に帰ってから、どうして同じことを彼女にも訊き返さなかったんだろうと後悔した。話の続かないつまんないヤツと思われ、明日からもう相手にされないだろうと。
でもそれは杞憂であって、翌日も美和は変わらず、どちらかというと積極的にぼくに話しかけてきた。
授業のまえ、ノートの裏表紙に記されたぼくの名まえを見て、
「森田くんって遥樹っていうんだね。森田遥樹かぁ――。そうだ、縮めてモリハル。ねぇ、森田くんのこと、これからモリハルって呼んでもいい?」
「えっ、うん、別にかまわないけど――」
「よし、モリハルだ。ホント言うとわたしさ、まえからモリハルのこと、どんな子かちょっと気になっていろいろ話してみたかったんだ。だから隣になってラッキーって感じ」
勢いよくたたみかける美和の言葉に気圧されて、一瞬その意味を理解するのに時間がかかった。
「ふ、藤崎さんが? なんで?」
自然と思ったまま口にしていた。
「藤崎さんなんてやめて。美和でいいよぉ。でね、モリハルってアイツらと少しタイプが違うでしょ。なんていうか、ぜんぜん別の方を見てる、みたいなとこがさ」
美和は窓ぎわの席で騒いでいる岡村たちを一瞥して言った。彼らは教室でも目立つグループ。いっしょにいるナータンやクマキチはともかく、岡村は成績もいいし男気もあって親分肌で、少々傲慢なところに目をつむればクラスのまとめ役、中心人物といった生徒。
実際、昨日彼も一学期に引き続き委員長に選ばれ、客観的に岡村と美和は似合いのふたりに思えた。それなのに彼らに向けた美和の視線には、批判的とは言わないまでも少しトゲがあるように感じられて意外だった。
たしかにぼくは岡村たちのグループとはあまり接点がないし、タイプが違うと言われればその通りだけど、でもそういうとき、たいていマイナスの意味合いがこめられているという自覚くらいはあった。つまり、ぼくはみんなから、おおむね内向的な性格だと思われているってこと。
それなのにどういうつもりか、そんなぼくに興味を持っているともとれる美和の発言にひたすら困惑した。ただだれにも同等に接する彼女だけど、話の成り行きや意味のないお世辞のつもりでそんなふうに言うことはないとも思えた。
ぼくが黙っていると、
「そんな幽霊でも見たような顔しないでよ。わたしの顔ってそんなにおかしい?」
美和はぼくの顔をのぞきこむように自分の顔を近づけて困ったような顔をする。思わず顔をのけ反らせる。もちろん彼女の冗談。たぶんぼくの顔がよっぽどこわばっていたんだろう。それを和ませようとして、だ。
彼女の顔がおかしいっていうなら世界中おかしな顔だらけになる。それでも、
「いや、そういうんじゃ……」
ぼくがまごついていると担任の小路先生が入ってきてサァッと教室が静かになった。
美和は「またあとでね」というように瞳をクリクリさせてまえを向いた。
六年三組では隣り合う男女が前後二組、四人でひとつの班を作っていて、給食の時間にはその班ごとで机を合わせ、向かい合って昼食をとることになっていた。
二学期最初の給食の時間、当然ぼくのまえは美和。給食当番にあたってなかったぼくらが配膳を待つあいだ、彼女は思いがけないことを言い出した。
「ねぇモリハル、お昼のまえに腕相撲で勝負しよう」
「う、腕相撲? ぼくと?」
「そう、モリハルと」
「なんで?」
「なんでぇが多いなぁ、モリハルは。腕相撲するのにいちいち理由がいるの? そんなの楽しいから、でいいじゃない。さぁ」
「わかったよ……」
美和の顔は自信満々。運動神経抜群の彼女はきっと腕相撲にも自信があるんだろう。
正直、ぼくは腕力に――もちろんそれだけじゃないけど――自信がなかったので、女子に負けることプラス美和の手を握ること、その両方の気恥ずかしさでないまぜになりながら、おずおずと手をのばす。その手を美和の手がひったくるようにして腕相撲のかまえをとった。
意外に彼女の手は冷たかった。それでもふだん触れることのないやわらかい感触に、これが女の子の手なんだと、なぜか後ろめたくなる。と同時に胸がキュッと締めつけるように苦しくなった。
美和の顔を見れば一瞬照れるようにはにかんだ気がしたけど、きっと気のせいだ。
同じ班の青木と早川さんもさっきからぼくらのやりとりに気づき、面白そうに視線を向けてくるのが感じられて、よけい緊張が高まった。
「いくよ、よぉーい、スタートッ!」
勝負はものの二秒でついた。いともあっけなく。
ぼくに耐える暇さえ与えず、彼女はぼくの腕を倒してしまった。
「やったね、わたしの勝ちだよ。モリハルはもっと鍛えなきゃダメだよ」
こぼれんばかりに破顔して嬉しそうにする美和に、負けた恥ずかしさもどこかに消えていた。斜めまえから早川さんに、「森田くん、男子のくせによわぁい」とからかわれても平気だった。この笑顔のまえにそんな軽口はたやすく帳消しにされた。
手をはなしたあとも右手に残った美和の感触が消えないうちに、すべての神経を手のひらに集中させるようにして余韻を反芻していると、そんなことを知ってか知らずか、
「モリハル、明日もやろっ、わたしが少しは手ごたえのあるようにしてあげる」
美和はまたビー玉みたいな瞳をクリクリッといたずらっぽく動かして、そう宣言した。
すると翌日から宣言通り、毎日給食の時間になると、
「さぁモリハル、しょうぶ、勝負」
とぼくのまえに美和がヌッと手を差し出してくるのがふたりのお約束になった。もちろん毎回ぼくが簡単に負けるのは変わらない。
美和も手ごたえのあるように鍛えてくれると言ったわりには特にテクニック的な指導をしてくれるわけじゃなく、「ほら、もっとギュッと力入れて」とか「本気の本気出してみなよ」みたいな大味なことしか言わない。
それでも美和は楽しそうで、ぼくはいつまでも慣れることなく毎回ドキドキしながら彼女の手を握った。
手と手でつながっている数秒間、ふたりのあいだを目には見えないなにかが行ききしている、そんな錯覚さえ感じられるくらい、この〝お約束〟は特別な時間だった。