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朝からお腹が痛くなるくらい緊張していた。まえの晩から続くこの緊張がどこからくるのかよくわからなかった。
はっきりしているのは、ぼくはこの日がくることをずっとおそれていたということ。
式が始まってしまうと、そのあいだ、ぼくは映画館で映画を観ているような感覚で、ひとごとのように進行を見守った。壇上に上がって卒業証書を受けとるときでさえ自分の身体が勝手に行動しているようで、まさに夢見のようだった。
全部夢にしたかった。
式が終わりいったん教室に集まり、小路先生の最後の話を聞いたあと運動場に出ると、いよいよ解散となった。
これで本当に最後だと思うと、緊張が一気に爆発した。
はじかれるように、今さら目を覚ましたように、朝からずっと自分の視界から遠ざけていたもの、わざと目をそむけていたもの、それを探した。
美和、どこ?
彼女は仲のいいグループの女子に囲まれていた。ほかの生徒も同じようにそれぞれグループで集まっている。そのグループ同士がくっつき、また入りまじって、だれもが小学生最後のときを惜しみ楽しんでいた。
校舎から六年のほかのクラスも続々と出てくると、そこに保護者も合流し、運動場を埋めていく。あちこちで記念撮影が始まり、高揚してはしゃぐ男子の声が聴こえ、卒業に感慨深くすすり泣く女子の姿が見られた。
ぼくもそのどこかにいたはずだけど、心はどこにもいなかった。
時間が経つにつれ徐々に集団は散らばっていく。親と帰るもの。ほかのクラスの生徒と帰るもの。これから集まって打ち上げをしようと大勢で盛り上がって帰るもの。
最後に美和に近づいて話しかけようか、ぼくがぐずぐずと迷っていると、目のまえにサッシが通りかかり足をとめた。しっかりぼくと視線を合わせる。
「あ、あ――」
最後くらい、ぼくから声をかけなきゃ。そう思って口を動かすのだけど、言葉になるまえにサッシはスタスタと去ってしまった。
でも、ほんの数秒ぼくのために立ちどまってくれた彼女は、見間違えでなければ、軽く、本当に軽く微笑んだ気がした。あのサッシが――。
奇跡的に彼女の気持ちを受けとった瞬間だった。
あらためて美和のいたほうを見やると、すでにその空間はぽっかりと空いていた。
帰ってしまった? あとを追っかけようか。
そのとき、後ろから肩をたたかれた。
「やぁモリヤン、帰ろうか」
頬っぺたを赤くしたフクショーの無邪気な顔が、このときばかりは無性に腹立たしかった。それでも、
「うん」と応じるぼく。
フクショーに続き、ぼくが大貫さんの竹やぶに足を踏み入れたとき、視界のすみに見知った姿が引っかかった。反射的に、
「ごめんフクショー、悪いけど先に帰って。忘れものを思い出した」
「ぼくもいっしょに引っ返すよ」
「いい、いい。大丈夫。サッと走ってとってくるから」
「そう? じゃわかった」
フクショーを先に行かせて道路にもどる。くしくも先日柿迫さんと腰かけた勝手口の石段に彼女はいた。心臓が跳ね上がる。もう一度やぶ道のほうに目をやり、フクショーが遠ざかったのを確認してから、
「ど、どうしたの?」
ぼくが近づいていくと彼女も立ち上がった。
「モリハルを追いかけてきたつもりだったのに、わたしのほうが早かったみたい。待ってたんだ」
「なんで?」
「なんでって? だって今日一日モリハル、わたしと目を合わせなかったでしょ。小学生最後の日なのにそんなのってある?」
美和は半分本気でぼくをにらみつけた。
「そんなつもりじゃなかったけど……」
「ウソだ」
「……でも、よくぼくがまだここを通ってないってわかったね。ぼくが先に通っていたら、美和はずっと待ちぼうけだったよ」
「そらそうだよ。わたし、ここまで全力で走ってきたんだから。わたしの足の速さを知らないの?」
と得意げな顔でぼくを見る。
「平木さんたちといっしょにいなくてよかったの?」
「ヒィちゃんたちとは、今度あらためてパーティーすることになっているからいいんだ。ってなによ。モリハル、わたしが会いにきたのがヤだったの?」
「そ、そんなわけないよっ」
ぼくのほうこそ会いたかったんだから。
「それならよし。ねぇ、これから嵐が丘に行ってみない?」
「嵐が丘? べ、別にかまわないけど」
「じゃぁ決まりだね」
言い終わらないうちに美和は歩き出していた。
嵐が丘はこの町の小高い場所にある、山と呼ぶには大げさな、こんもりした荒れ地のような丘陵だった。
だれが言い出したのか、嵐が丘とは子どもたちのあいだの通り名で、本当の地名は知られてないし、たぶんだれかの私有地だ。ただ柵はないので昔から子どもの恰好の遊び場だった。
乾いた地面にゴツゴツした岩と自分たちの背より低い灌木や下草が生え出し、ちょっとした迷路のようになっている。少し離れた場所にザリガニやフナが釣れる池もある。
最後に行ったのはたしか去年の夏休みだった。
フクショーとアリジゴクを捕りにいった。
灌木の陰になった場所を注意深く探すと、すり鉢状の小さな巣穴がけっこう見つかる。その穴のまわりを土ごと手ですくって、手のひらの上で土をふり落としていくと、最後に体長一センチにも満たないアリジゴクがあらわれる。これを空きビンで飼うのが何年かまえからぼくらのあいだで流行ったのだ。
このとき美和がどうして嵐が丘に行こうと言い出したのかはよくわからない。
空は晴れて日射しもあり、ずいぶんあったかくなってきていた。歩くには気持ちのいい時季だ。
嵐が丘に到着するまで十五分ほど、ぼくらは言葉数少なに歩いた。
老人ホームの向かい、古い階段を上って、タクシー会社の駐車場わきの砂利道を進むと、嵐が丘に向かう小道とぶつかる。
足場の悪い上り坂を、美和は軽々と足を運ぶ。ぼくは遅れないようついていくので必死だ。風の通り道なのか、吹き下ろす風が緩急をつけて休みなく流れている。
最後にひときわ急ながけ道をよじ登ると、一気にひらけた荒れ地に出た。ここでは、なだらかな斜面に風がピューピューとぶつかり合うように吹いている。町のほうを見ようとしても雑木にさえぎられ、とても見晴らしがいいとは言えない場所だ。
腰かけるのに手ごろな岩を見つけて荷物を下ろし、ふたりならんで落ち着いた。三学期になってから初めて美和とふたりっきりになった。