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「それ、どういうこと?」
「んんっと……」
柿迫さんはどんなふうに話せばいいのか思案しているようだったので、黙って次の言葉を待った。すると意を決したように、
「わたし、二学期の学級壁新聞、よく読んでたんだ。それで、中でも森田くんの書いていたコラムが面白くて毎週楽しみだったの」
話がどんどん思っていないほうに転がる。
「あ、ありがと」
「ホントに面白かったもん。自分の知らない宇宙のことや、読んだことのない本のこととか、大人の人に薦められてもあんまり興味を持てないような話なのに、森田くんの記事は吸いこまれるように入っていけたんだ。わたし、エミールと探偵たちやだれも知らない小さな国も借りて読んだんだよ」
それはぼくがコラムでとり上げた本のタイトルだ。あの記事で興味を持ってくれた子がいたんだ。
「わたしが毎回、真剣に壁新聞を読んでるものだから、ハセッチや井上さんに、なにをそんなに真面目に読んでるのって問いつめられたことがあって――つい森田くんの記事面白いよって言っちゃったんだ。それがほかの子にも知れちゃって、そこで変な意味にとられてまたほかの子に伝わって、って感じで。だから最初は数人の女子が、わたしが森田くんのこと、気になってるって噂していただけだと思う。それがあの日だれかが――たぶん男子だろうけど――いきなり黒板にあんな落書きをして大騒ぎになってしまったの。だからわたしのせいなんだ。ごめんなさい」
おおむねのいきさつはわかった。だからきっかけは柿迫さんの言う通りかもしれない。でも根本的な原因はそれじゃないと思う。
なぜかって、ぼくもあれからいろいろと考え、ある結論に達していたから。おおよその推測だけど真相はたぶんこう。
この噂を広めたかったヤツ、またはヤツらは美和に好意をよせる人物。ぼくが美和と席が隣同士だったり、毎日腕相撲をしたり、新聞係で放課後いっしょにいることを快く思っていなかった。そこでぼくと美和以外の女の子との噂を立てて、ふたりのあいだに溝をあけようとしたんじゃないか。というのがぼくの考えだ。
だから噂にする相手はだれでもよかったんだ。そこへ柿迫さんが今言ったようなことを耳にはさんで、これさいわいと利用し、あの相合傘の落書きに繋がったんじゃないだろうか。
ぼくにとって謎だった、どうして柿迫さんだったのか、という部分がやっと解明できたことになる。
そしてその人物というのはクマキチだろう。これでほぼ正解だと思う。
ただクマキチの奸計が功を奏したかといえば、そんなことはない。美和はそんな噂を聞いたからといってぼくへの態度を変えたりするような子じゃない。実際変わらなかったわけだし。
ふたりのあいだに距離ができたのは、席替えとぼくが新聞係を外れたことが原因だ。
けれどこのことを柿迫さんに話すわけにもいかない。
「でも、それだけじゃこんな状態になってないんじゃないかな。柿迫さんのせいじゃないよ」と曖昧ににごした。
「……そうかな?」
「そうだよ」
ぼくがそう言うと、柿迫さんはいくぶん表情をやわらげて微笑んだ。
「そう言ってもらえると少しホッとする。あのね、今回の席替えで森田くんと同じ班になったでしょ。森田くんは迷惑に思ったかもしれないけど、わたしは少し嬉しかったんだ」
「えっ?」
「か、勘違いしないで。別に変な意味じゃないよ。ホントにあのコラムが好きだったから、機会があれば一度森田くんとお話してみたいなぁと思ってた。それがあんな噂が立っちゃったせいで顔もまっすぐ見られなくなったでしょ。迷惑かけてるなぁって思う反面、もう話せない、残念だなって気持ちもあったの。それが同じ班になって、もちろんまた迷惑かけるなって気持ちもあるけど、お話できるチャンスかもって期待もあって。だから嬉しかった。だって、三学期になって森田くん、新聞係じゃなくなったから。もうあのコラムが読めないって思ったらよけい話が聞きたくって。それで、よかったら面白そうな本とか、いつかわたしに紹介してくれる?」
てっきり柿迫さんは噂について心底嫌がっているんだと思っていた。たしかに嫌がってはいたんだろうけど、ぼくに対して意趣があったわけじゃないとわかって安心する。
「もちろんいいよ。その……ぼくのコラム、読んでくれてありがとう」
「いいえ、こちらこそ。今日話せてよかった。ここまでついてきて声かけるの、けっこう緊張したんだから。でも思い切って声をかけて正解だったよ。じゃぁわたしこれで帰る。今度、休み時間や給食の時間に本のこと教えてね。それから……」
柿迫さんは立ち上がりながら自分のランドセルをあけて手を差し入れた。中からなにかとり出しながら、
「これ、あのぅ……受けとってくれる?」
ぼくのまえに差し出されたのは、ピンクの紙にリボンで可愛く包装された箱だった。
「こ、れは……?」
「バレンタインのチョコレート。本当は明日なんだけど、明日学校で渡すと大変なことになるから、今日こうやって森田くんと話せたら渡そうと思って持ってきてたんだ。だから、はいっ」
ピンクの包みをぼくの手のほうに近づけた。
「あ、ありがとう。でも、ぼくなんかにいいの?」
「やっぱりわたしのせいで迷惑かけたし、そのおわび。それにわたし、森田くんのコラムの大ファンだもん。それから、ホワイトデーは気にしないでいいからね。またよけいな噂が立ったら大変だから」
「わ、わかった……」
ぼくはチョコを受けとった。生まれて初めてもらったバレンタインのチョコレート。恋愛的な意味合いがないとわかっていても、やっぱり嬉しい。
「じゃぁね、バイバイ」ときた道を引き返す柿迫さんは、途中で一度ふり返ってぼくに手をふってからまた歩き出した。
そういうことがあって、柿迫さんと距離が少し縮まり、いつのまにか平木さんのぼくに対するアタリも弱くなっていた。
美和とは相変わらずたまに言葉をかわすだけ。それでも離れたところで目が合うと、あの彼女独特の目をクリクリさせる合図をくれる。
小学生でいられるのもあとわずか。理由のない焦燥感がぼくを追い立てていた。なにかやっておくべき大事なことがあるような。こんな気持ちをなんていうのか知らない。
よく夜寝るまえにふとんの中で、美和と中央図書館の行き帰り、電車に乗ったことを思い出した。そのままぼくは空想の翼を広げる。
銀河鉄道の夜のジョパンニとカムパネルラのように、電車に乗ったぼくと美和はどこまでも旅をしている。ぼくらは対面シートに座って車窓を眺めながら話をする。あのときみたいに美和主導なのは変わらない。不思議なことに、会話の内容はスラスラと浮かぶ。たいてい美和がぼくの得意分野に話をふって、ぼくがそれに答えるパターン。通りすぎる景色は知らない街だ。気が向くと次の駅で下車してあたりを散策する。飽きるまでブラブラしたら、また電車に乗りこんで旅を続ける。いつまでも終わりのない旅。
そんな夢みたいな話。起こるはずもない話。くり返しぼくは空想する。
卒業式の練習が始まり、大げさにいうと終末のカウントダウンが始まったかのように、どこか不安定な気分で毎日が加速していった。ぼくだけじゃなく、これが卒業を控えた教室中をおおっているムードだった。それを助長する行事も、クラスのお楽しみ会、お別れ遠足、六年生を送る会と目白押し。
瞬くまに――――ぼくらは卒業式を迎えた。