プロローグ
ぼくが店のトイレの奥にある狭い倉庫兼更衣室からコーヒー会社のロゴの入ったエプロンをつけて出ていくと、カウンターの向こうから、
「森田、きてそうそうで悪いけど、エスペランサの出前、下げてきてくれる?」
マスターが包丁を研ぎながら声をかけた。
「あ、はい」
エスペランサと聞いて若干嫌な予感をおぼえてレジにまわり、出前帳をひらいて下げてくる食器の数を確認する。すると、
「よぉっ」
カウンター席のワンさんがぼくに気づいてふり返り、挨拶してくれた。
「どうも、こんにちは」
ワンさんはマスターの中学か高校の同級生で、ここ〝ラムズコート〟の常連客だ。夕方まえにやってきて、いつも遅めの昼食をとっている。線の細いマスターに対して熊みたいな印象の大柄な人物。どんな仕事に就いているのか尋ねたことはないけど、毎日この時間から出勤らしい。最近は、ぼくのことを憶えてくれて、ときどき声をかけてくれる。
「森田くん、くるたびに見かけるけど、よく働くなぁ。そんなに稼いでなんに使うの、やっぱり彼女?」
「いや、まぁ……はは」と笑ってごまかす。
店内にはワンさんのほか、仕事の打ち合わせ中らしきサラリーマンのふたり組、出勤まえの水商売ふうの女性がひとりいるきりだった。
ちょうど店は中休みの時間帯だ。
「ちなみに、なっちゃんが言ってたけど、今日はマーロンがいるみたいだぞ」
マスターがからかうようにつけ足した。
「あぁ、そうですか」
やっぱりという思いだった。ワンさんが「マーロンって?」とマスターに訊いている。
「――じゃぁ行ってきます」
ふたりのやりとりを背中に、出前用の手さげを持って扉をあける。昔ながらのドアベルがカランと鳴った。
ラムズコートは阪急三宮駅の北側、東急ハンズ近くの細い坂道にある喫茶店で、ぼくは週に四日、夕方から夜の時間帯アルバイトとして勤務している。
朝から昼にかけては週五で、別に、三宮にあるベーカリーで製造のバイトをかけ持ちしていて、たいていその続きで働くことが多い。今日もベーカリーで働いたあと、センター街のジュンク堂で一時間ほど時間をつぶしてこちらにまわってきた。
ワンさんに指摘された通り、たしかによく働いているという自覚はある。しかもなんの目的でと問われても、うまく答えることができない。定職に就かず二十代も真ん中に差しかかり、これからのことをうっすらとしか考えてないぼくは、さしあたって目のまえの時間を埋めることで、その先をごまかしているだけかもしれない――。
外は蒸したような暑気で充満していた。八月も終わりに近いというのに、夏はその勢力を微塵も弱める気がないみたいだ。その暑さをのぞけば、こうやって仕事の途中で外に出ることは嫌いじゃなかった。ただ今は別。
これから器を下げにいくエスペランサは近くのキャバクラ店で、そこの事務所がよく出前をとってくれるお得意さんなのだけど、ここは少々厄介なところだから。その理由がさっきマスターの言っていたマーロンにあるってわけ。
マスターの言葉をもう少し説明すると、なっちゃんこと菜摘さんは、ぼくと入れ替わりであがる昼のパートさんで、その彼女が出前を届けたときに事務所にマーロンがいたってこと。
マーロンとはもちろん本名ではなく、また本名など知るよしもなく、マスターがつけたニックネームだ。ぼくは詳しくないけど、昔のマフィア映画に出てくるハリウッド俳優の名に由来しているらしい。それからわかるように、映画を地で行く、かなりこわもての御仁だ。
見た目にいかついその彼がいるとどうして厄介なのか。
それは、マーロンはエスペランサのおそらく〝エライさん〟でいつも事務所にいるわけではなく、またいたとしても機嫌さえよければ問題ないのだけど、ひとたび虫の居所が悪いと、こちらに不備がなくともドスのきいた声であたりかまわず怒鳴り散らす――見た目を裏切らない、理不尽な地雷と呼ぶべき人だから、となる。
ぼくも一度ならずたびたび、
「カップを下げにくるなら、オレの視界に入らないようにしてとりにこいっ!」
といわれなき暴言を浴びせられたことがある。
肉体的に被害をこうむることはないので実害はないといえばそうだけど、ぼくのような必要以上に人の放つ空気に過敏に反応する人間にとって、その精神的ストレスは半端ないものがある。
さぁ、今日の彼の機嫌はどうだろう。
少しうつうつとしながら焼けつく坂をのぼっていると、前方に女子大生ふうの女の子がふたり、雑誌を手にしてあたりを見まわしていた。ぼくを見つけるなりふたりは顔を見合わせて、
「ちょっとすみませぇん。地元の方ですか?」と近づき尋ねてきた。
エプロン姿で歩いている人間をつかまえて「地元の方ですか?」とは訊くまでもないだろう。と思ったけど、
「はい、そうです――」と真摯に答える。
どこにでもいそうな今ふうのファッションをした女の子たちだった。明らかに旅行者で、道を尋ねる相手を探していたんだろうとわかる。
ぼくは、たとえば観光地なんかに行くと必ず「写真撮ってもらっていいですか?」と声をかけられるタイプだ。要はだれからも頼みごとを断れないお人よしの顔に映るのだろう。そして、ぼくは間違いなくそれを断れない。
「ええっと、異人館ってどこですか? どっちにいけばいいのかよくわからなくて」
思った通り、ふたりのうち最初に声をかけてきた子が甘えるような笑顔で訊いてくる。媚びるふうではなく、ふだんからだれにでもそうしているんだろうとわかる素ぶりで、屈託のなさに好感が持てる。それに対して、
「それならまだずいぶん遠いですよ。まずこの道を北に向かって――」
ぼくは丁寧に異人館のある地区までの道順を教えてあげた。実際に神戸生まれ神戸育ちのぼくは一度も異人館を訪れたことはなかったけれど、場所はあっているはずだ。
「ありがとうございます!」
ふたりはアイドルのような跳ねた声でハモって嬉しそうにしながら、きびすを返し去っていった。
彼女たちを見送りながら、自分も大学に行っていたなら、今ごろこんなところで、キャバクラの事務所へ出前の器を下げに行く、なんてこともなかったんだろうと、たわいもない思いがよぎる。けっして後悔じゃなく、ただの感慨として。
ぼくは一浪して結局大学に行かなかった。これは悩み考え抜いた末、あのころ、ぼく自身が下した決断だ。今思い返せば、まだまだ稚拙な人生観だったなと苦笑してしまう。これは自嘲ではなく愛しさから。
単に今より若かったってことで、年をとればまた別の案件で同じような思いを抱くことだろう。それを死ぬまでくり返すだけ――。
「――っつぅ……」
再びエスペランサへと足を向けかけたそのとき、後頭部を圧迫するような頭痛が襲った。思わず顔をしかめ眉を寄せる。ぼくを不定期で苦しめる持病だった。
一瞬、足をとめたけれどこらえて歩き出す。数分もすればおさまるのもいつものことだ。
十年以上つき合ってきた持病なので今さら愚痴る気もない。昔にくらべればマシになったほうだ。それより散々いろんな季節をともに乗り越えてきたせいで、愛着とはいかないまでも軽い親しみぐらいは持っている。
思えばこの頭痛、さまざまなシーンでぼくを苦しめてきた。
夏の日射しがどこかのビルの窓ガラスに反射して目に入り、思わずしばたく。数秒光が消える。
ふと、ガッキーの顔がフラッシュバックする。続けて――美和と。ふたりとも、特別、ぼくの心に残る思い出を持った大きな存在だった。
木星のようなガッキー。太陽のような美和。
今、このふたりが――どうして?
「わたし、女の子をひとり、殺してるんだ」
風の加減だろうか、ボォーとメリケン波止場の汽笛が遠く聴こえた。
なんだか懐かしい。
ただ懐かしさだけじゃない。それ以上に――。
月極駐車場を抜けて、エスペランサの入った雑居ビルの裏から続く非常階段を上りながら、ぼくは、頭痛がつれてきた、苦みと甘さが交互に打ち寄せてくる波のような霞を、何度もたぐっては払いのけていた。