170.サンルナー教、その原点
ゆらゆらと陽炎の如く松明に照らされ、聖堂の最奥に高々と設置された浸礼槽。
そのヘリに1人の女性が、金に煌く長髪を揺らしながら手を槽に浸していた。
零れないよう、水面を優しく撫でる様子は一枚の絵画さながらであったが、ふいに一行に投げかけた視線に寒気を覚える。
人を人としてみない、初めて向けられる純粋な悪意に思わず1歩引いた。
しかしただ1人、怖気づくことなく1歩近付いた存在がいた。
「ご丁寧にわざわざ場をあつらえてくれた、って所かな」
「…ええ、本来は新たな導き手を迎える場所なのですが」
高台に設置された浸礼槽。
それ以外何1つ置かれておらず、広大な空間が一帯を占めているのみ。
申し訳程度に手を胸の前で組む銅像が壁に立ち並ぶが、それが一層不気味さをかき立てる。
ファムォーラに潜入した斥候からの連絡が途絶え、作戦が失敗したことを知ると彼女はすぐさま侵入への対策を始めた。
魔法陣による都市への攻撃を跳ねのけ、日を待たずして行ったシュエン王国へ行った迅速な報復からファムォーラの一行が来るであろうことは火を見るよりも明らか。
侵入者のための空間もわざわざ用意し、そして…
「お前さん、本当に人間か?どうやったらそこまで魂を汚せるんだ?」
「魔物の身に堕ちた貴方に言われる筋合いはありませんよ」
「…その身体、他人のモノ…か?」
その一言が水面に放たれた投石のように波紋が広がり、室内の様相が一変する。
殺意に満ちた空気が緩和されるも、いまだに敵意は向けられたまま。
彼女の視線は浸礼槽へと移され、再び槽に溜まる水で手を遊ばせていた。
アンダルシア。
不慮の事故により異世界に転生されて授かった名。
魔王を倒すために授けられた名。
愛によって育てられ、多くの人々の支援を受け、やがて物語に登場するような勇者としての壮絶な使命を全うすると王の命によって盛大な授与式が設けられた。
魔王の脅威が去り、同時に勇者の任に終わりを告げると自由の身となった彼女は異世界の日常を謳歌することになる。
旅の道中で出会った冴えない農夫の少年の元を訪れ、ただの女性となった身でやがて彼と子を儲け、転生したことに最大の至福を覚えた矢先だった。
同盟が不要になったことで瞬く間に人間の浅ましさが顕著になり、覇権を争う人間同士の闘争が勃発した。
戦乱によって土地は疲弊し、やがて彼女が住まう国もまた出兵を余儀なくされる。
徴兵によって彼女の夫と子も戦地に赴くことになり、元勇者として同伴しようとする彼女に必ず戻ると告げた彼らの笑顔を最後に、2度と姿を見ることはなかった。
月日は流れ、悲嘆に暮れるアンダルシアの元にその後の安息の日が来ることはない。
行き場を失い、混乱に乗じて村を襲った野盗と奮闘するも、彼女が所有する武器によって力は補佐されていた。
唐突の襲撃によって手に取る暇もなく、数に押された彼女が連れ去られるのは時間の問題。
やがて疲労と一瞬の隙を突かれて気絶させられたアンダルシアは彼らのアジトに連れて行かれ、そして一生日の目を見ることのない凄惨な生活が流れ行く。
最早自分が人間であったことも忘れかけ、男の欲望が吐き出された布きれの上に横たわっていたいつも通りの日々。
しかし突如アジト内部に悲鳴が木霊し、血しぶきや四肢が裂かれる音が徐々に彼女の元に近付いて来る。
軋む身体にむち打ち、咄嗟に布きれで身体を覆うと壁まで這って縮こまった。
徐々に四つ足特有の足音と唸り声が迫ってくることから容易に魔物であることが窺い知れ、彼女に鼻先を近付けると明らかに不快な声を上げながら退く。
長年浸み込んだ雄の臭いが隙を生み、彼女の勇者としての力が容赦なく襲撃者の命を奪った。
魔物の爪で拘束を解き、掃き溜めに連れてこられて以来の通路を歩いて行くとうめき声が聞こえる。
発信源は生き残った瀕死の盗賊たち。
手を差し伸べ、助けを乞う彼らに聖女のような微笑みを浮かべた彼女は迷うことなく手を差し伸べた。
そして勇者としての力を抑える事なく解き放ち、魔物の襲撃がお遊びであったかのように永遠と洞窟から彼らの断末魔が流れ続けた。




