宿屋の喜劇は悲劇の予兆?
その後。小一時間ほど町を歩き回り、なんとか部屋が空いている宿を見つけることができた。
町の片隅にあった木造の小さな宿だが、仄かに香る木の臭いとアンティークの小物類が落ち着いた雰囲気を醸し出している。宿泊費も他の大きな宿に比べれば良心的だ。
チェックインを済ませ、案内されたのは2階の一番奥にある部屋。決して広くはないが、並べられたベッドは十分な大きさだし、お風呂や簡易的なキッチンまで用意されている。また窓からの景色は町の外の草原が一望できる絶好のロケーションだ。
一泊する分には申し分ない。むしろ数日ほどここで生活してもいいくらいだ。
「うわぁ、いい部屋ねー」
「ベッドでかっ! お風呂もデカぁっ!」
「眺めが素晴らしいですねー……」
彼女たちと一緒でさえなければ。
チェックインを行う際ボクは1人部屋にしてほしいと頼んだのだが、「大部屋の方が広いし値段も安いんだから、みんな一緒でいいでしょ」とアルナに言い切られてしまったのだ。ちょうど空いている1人部屋もなく、ボクはしぶしぶアルナたちと同じ部屋に泊まることになった。
「こんなことになるなら、初めからボクは男だって伝えておけばよかった……」
「ん? 何か言った?」
「な、なんでもないよ!」
ともあれ決まってしまったことだ。ボロを出さないように気を付けて、何とか今日一晩を乗り切ろう。
部屋に入り、手近なベッドに腰を下ろす。羽毛のベッドはふかふかと柔らかく、寝心地もよさそうだった。このまま寝転んでしまいたいが、人前だし、何より装備を身に着けたままだ。
ベッドに腰掛けたままメニューを開き腰に下げた剣を収納すると、身体は随分と軽くなりようやくくつろぐことができた。
――コンコンッ
ちょうどそのとき部屋のドアがノックされ、従業員のNPCが食事を運んできてくれた。
「そういえば、食事をするのはこの世界に来て初めてですね」
FLOの起動は午後からだったため、朝食、昼食は現実世界で食べていた。そのため美咲の言うとおり、この世界でまともに食事をするのはこれが初めてだ。
部屋の簡素なテーブルを囲んで座り、並べられた彩り豊かな料理を見回す。どれも素朴で家庭的だけど、空腹のボクにはどんな料理よりも美味しそうに見えた。
ゲームの中で腹が減るというのも妙な話だけど、実際に空腹を感じているのだから仕方ない。
みんなも同様らしく、目の前の料理に目を輝かせていた。
「姿形は問題じゃねぇ、問題なのは味さ! ってことでいただきまーす!」
全員が席に着いた途端、我慢できなかったのかクロが卵焼きに箸を突き刺した。
「うんまーい!」
そのまま口に放り込むと、手を当てた頬を緩ませる。この様子だと、味に問題はないようだ。
「ほんとだ、おいしい」
「必死に戦った後だからか、いつもより何倍もおいしく感じます……」
アルナと美咲もすでに料理を食べ始めており、うっとりとした表情を浮かべていた。
「いただきます」
遅れてボクも箸を手に取り、香ばしい香りを放つ焼き魚を口に運ぶ。焼き加減は絶妙で、味付けも文句の付け所がない。
NPCに任せておいてもこれほどの料理が食べられるのだ。職業『料理人』が作る料理はいったいどれほどのものになるのだろう。戦闘職ではない『料理人』を選んだ人は少ないはずだが、この世界から出られないと分かった以上、戦闘が苦手な人が転職する可能性だってある。いずれ出会うことがあれば、是非ともその腕を振るってほしいところだ。
そんな淡い考えを抱きながら食べ進めていくうちに、ボクはあっという間に料理を食べ終えてしまっていた。
「ぷはー、満腹満腹」
同じく食べ終えたらしいクロがお腹を撫でながら椅子にもたれかかった。アルナと美咲もお茶を啜り小さく息を吐いている。
その後食器を回収しに来たNPCに食べ終わった食器を渡すと、しばらくの自由時間になった。
「あたしらはドロアイテムの換金行ってくるね! カナカナの分はどうする?」
「だったらお願いしていいかな?」
「あいあい、そんじゃトレでアイテムちょーだいな」
「クロー? 分かってると思うけどお金くすねたりしたら承知しないわよ?」
「うっ、分かっておりやすぜアルナンの旦那……」
「美咲ー。悪いんだけどクロを見張っておいてくれない?」
「り、了解しました!」
アルナから目を逸らしたまま、クロと美咲は換金のため町の商店へと出向いて行った。適正な金額が戻ってくると信じよう。
「私はしばらく掲示板で情報収集するわ。カナタは適当にお風呂にでも入っておいて」
「うん、そうするよ」
ロビーにある掲示板を見るため、アルナも部屋を出ていった。
みんなが出ていくと部屋にはボク1人だ。こうして見るとこの部屋も結構な広さがあると分かる。
「お風呂、入っておくかな……」
アルナにもああ言われたし、先に入っておこう。長時間の戦闘で体も疲れているため、早く湯船でゆっくり休みたい。
「着替えは……この部屋着ってアバターを使えばいいのかな。タオルは脱衣所にあるか」
入浴に必要なものを確認して、ボクは脱衣所に入……っちゃダメだ!
「わ、忘れてたぁぁ――――っ!」
色々ありすぎて忘れていたけど、ボクの身体は今女の子になってるんだった。そんな姿でお風呂に入るってことはつまり、全裸の女の子の肢体を間近で直視するってことで……。
倫理的にも精神衛生的にもそれはダメだ! でもお風呂には入っておかないとアルナに怪しまれるかもしれないし、何より汚れた体でいたくない。
「…………ええい、ままよ!」
考えることを諦めたボクは脱衣所に突入し、目を瞑ったまま服を脱いで浴室に飛び込んだ。
手探りでシャワーを動かして体を洗い流す。と同時にシャンプーと石鹸を探し出し、持ち込んだスポンジで入念に頭と身体を洗った。
あとは湯船に浸かるだけだ。あんまりくつろぐことはできないけど、この際仕方がない。
石鹸をもとの場所に戻し、シャワーを止めて湯船に向か、
「かーなーかーなぁーっ!」
「ひぁ!?」
おうとしたところで誰かに後ろから抱きつかれた。この呼び方、間違いなくクロだ。
「クロ!? アイテムの換金に行ったはずじゃ……!?」
「それはもちろんみさきちに押し付け……じゃなくて頼み込んだんだよ」
美咲、苦労してるなぁ。
「って、聞きたいのはそんなことじゃないよ! どうしてクロがここに入ってきてるの!? 今お風呂に入ってるのはボクで……!」
「そりゃあもちろんカナカナと一緒に入るためだよ~」
「ボ、ボクと……!?」
「裸の付き合いっていうしねー。せっかくだからカナカナと裸で親睦を深めようと思って。きちゃいました!」
「きちゃいました! じゃないよ!」
「もしかしてカナカナ、嫌だった……?」
「……い、嫌じゃない、嫌じゃないから! そんな悲しそうな声出さないで!」
「そっか、よかった! それじゃ洗いっこでもしよっか!」
「あ、洗いっこ!?」
まずいぞ、話がどんどんイケナイ方向へと向かっている……! 早くここから逃げないとボク、貞操の危機だ!
ボクは小さく身じろぎしてクロの腕を外そうとする……が、やけに強く抱きつかれていて外れない。
どころかクロはもっと強く抱きついてきて……う、うわっ、背中に何か柔らかいものが当たってる!
「あ、あの、気持ちは嬉しいんだけど、ボクはもう洗い終わったから遠慮しようかなーなんて……」
「ほんとにちゃんと洗えてるのかなぁー?くふふっ、ココとかココとか、まだまだ汚れてるぞー?」
「ひゃああ!?」
不気味に笑ったクロが、ボクの胸やお尻を軽く触る。途端に触られた場所に小さな刺激を感じた。
これが女の子の感覚……! まるで電流が走ったみたいにピリッとして……こ、この感覚は慣れちゃいけない気がする!
「ところで、どうしてカナカナはずっと目を瞑ってるのかなぁ? そんなんじゃちゃんと体洗えるわけないゾ?」
「こ、これはその、ちょっとしたわけが……」
「そのわけとは?」
「それは、その……」
「ないんだね! よーし、かいがーん!」
「わわっ!」
いきなり両目を塞がれた。これじゃあ逆に目が閉じて……って、この際そんなことはどうでもいい!
クロが目を塞ぐために飛びかかってきたとき、ボクは驚いてバランスを崩してしまっていて……このままじゃ、倒れる!
「クロ! 危ない!」
「およ?」
しかし一度崩れたバランスは戻ることがなく、ボクとボクに抱きついたままのクロはそろってその場で転んでしまった。
「いたた……クロ、大丈夫?」
「もーまんたいだよ。それにしても……くふっ、いいポジションだねぇ」
「……え?」
前のめりに倒れたため、ボクの上に覆い被さるようにしてクロが倒れていた。倒れる最中にクロを守るように体を捻ったため、向かい合っているような状態。こ、この体勢は、確かに危険だ。
恐る恐る目を開けると、床に手をついて正面からボクの顔を覗くクロが。少し目を下げるとクロの豊満な……ってそっちは見ちゃダメだ!
「ク、クロ? どいてくれると助かるんだけど……?」
「助けると思う?」
「思いたかったなぁ!」
まずい、これは本当にまずい。貞操の危機なんて程度じゃなくなる!
でもボクはこんな体勢から抜け出す方法なんて知らないし……ど、どうすれば!?
「あ、洗うだけだよね? その言葉に他意はないよね?」
「…………どうかなぁ?」
「あんっ! ク、クロ! そんなとこ触っちゃダメだって!」
片手を挙げたクロがボクの胸を掴んだ。先ほどよりも強い刺激がボクの身体を襲う。
クロはそのまま指を胸からお腹に下げていき、おへそのあたりを撫でまわす。
「ん、ふぁっ……やっ、く、くろっ……やめ、やめて……!」
「カナカナかわいい……」
「ひゃあ!? そ、それ以上は、ら、らめっ……やっ、にゃあああああああ――――――――っ!」
その日のボクの叫び声は宿中に響き渡ったという。
「うぅ、ひどい目にあった……」
「カナタ、どうしたの? さっきすっごく大きな叫び声が聞こえたけど……」
お風呂から出るとアルナが椅子に座って読書をしていた。腕を軽く振っているところを見るに、表紙を見るに、新しいスキルの指導書を読んでいるようだ。
「今はちょっと、そっとしておいてくれると嬉しいな……」
「そ、そう? まぁ、カナタがそういうなら何も言わないでおくわ」
アルナが再び本に目を落としたのを確認して、ボクはベッドに倒れこんだ。うぅ、人目が無かったら今頃泣いてるかもしれない。
「あ、そういえばカナタ、クロがどこにいるか知らない?美咲は魔道書を買ってから帰るって個人チャットがきたんだけど、クロの行方が分からなくて。美咲の話だと先に帰ってるらしいんだけど」
そう声をかけてきたアルナには振り向かず、ベッドに顔を伏せたままお風呂の方を指さす。
「お風呂……なるほど。カナタの事情、大体分かったわ。ごめんね、あの子ってば女の子と一緒の部屋になると襲っちゃう癖があるから……悪気はないはずだから、許してあげて?」
「うん、大丈夫……」
何かを察したらしいアルナが優しい言葉をかけてくれる。アルナ、クロのことよく分かってるんだなぁ。
それにしても、女の子を襲う癖って。クロ、今までよく逮捕されなかったな……
「ふぃー、いいお湯だったぁ……って、カナカナどうしたの?」
「あんたのせいでしょうが! ちょっとは自重って言葉を覚えなさい!」
「いたぁ!? ちょっ、アルナン痛いから! 本の角で殴るのはあたしの業界でも拷問だから!?」
タオルを身体に巻いただけの姿でお風呂から出てきたクロを、アルナが今まで読んでいた本でタコ殴りにする。すごく痛そうだけど、なんだかクロ、喜んでいるような……
あまりそういう世界には詳しくないから、この件に関してはそっとしておこう。
その後美咲が戻ってくると、部屋は一気に談笑ムードになった。
3人ともとっても仲が良くて、ボクはあまり会話に加われなかったな……
そして気付けば午後11時。最後に少しだけ現実での自分たちのことを話して……ボクたちは眠りについた。
……隣で寝ていたクロがボクのベッドに潜りこんできたりして、あまり深くは眠れなかったけれど。