寺
◇◇◇
車を止めて、俺達はすぐにケイトを運ぶ作業にとりかかった。
いったん車から降りた母親が後部座席に乗り込み、姉貴と二人がかりになって座席に腰掛けた状態のケイトをはじっこに移動させていった。そしてはじまでくると、ケイトの身体を外側に向けさせた。ケイトは全然動かなかったが、あくまで慎重にことを進めていった。
母親がケイトの背後から背中を支え、姉貴は車の外すれすれに自分の背中を近づけ、アスファルトの上に片膝をついた。
母親は少しずつ押し出すようにして、ケイトの身体を姉の背中へと預けていく。二人で声をかけ合いながらまるで宝物を扱うかのようにしてケイトを動かした。三度、姉貴がケイトをおんぶした。
俺はこのとき二人の行動をつぶさに観察していたわけだが、二人の対応というのが、普段の俺に対する接し方とはえらい違うなと思った。見た目が綺麗だからとかではなく、ケイトが異国の家族から託されたお客さんであることが要点で、相手の家族のこちらに対する信頼を考えなければならない。さらにいうと、同じ女であること。どうすればよいかということが自然にわかるのだろう。それからケイト自身の資質だ。これは今だからわかるんだが、ケイトはとてもおおらかな性格だったのだと思う。
俺も何か手伝いをしなければと思っていたんだが、なにぶん車の中には余分なスペースがなかったので、ただ姉の横で待機することになってしまった。姉貴がケイトをおんぶしたので、すぐさま毛布が歩行の邪魔にならないよう、その裾を手にして持ち上げた。
もしケイトが通常の状態だったならば、何度もケイトをおんぶする姉のことをうらやましく思ったことだろう。だが、このときはそんな浮ついた気持ちには全くなれなかった。
俺と母親は姉とケイトのやや後方にまわった。まるで騎馬戦のような位置をとって歩いていく。木でできた寺の表門をくぐり、境内の中へと入った。
表門を通過するとき、いったいこの門は、いつ頃の時代にできたのなんだろうかと思った。
この寺にはこれまで何度か来たことがあったが、その度に、ずいぶん古そうな門だなという印象を持っていた。見た目からして、表面にはかなり傷みがあらわれ出ている。補修かあるいは建て替えが必要なんじゃないかと感じられた。しかし、それ以上に印象に残ったのは、その佇まいが醸し出す、なんともいえない趣だった。幾多の風雪をくぐり抜けてきたものだけに許される、頑とした存在感。胸の内側に響いてくるような重みだった。
ひょっとしたら、この門は江戸時代から現存しているのかもしれない……などということも考えたが、さすがにそれはないかと思った。とにかく、相当の年月を経てきているのは確かだろう。
ひっそりとして誰もいない境内を奥のほうに向かって俺達は歩いていった。途中で姉を気遣かった母親が、おんぶを代わろうか? と姉に聞いた。
だが、姉貴は「いや、いい」と、いやにはっきりとした口調で申し出を断った。
おそらくは、最後まで自分が友達の責任を持とうという意思のあらわれなんだと思う。姉のそういった想いというのは、そのときの俺にはよく理解できた。
風は家を出たときよりは、いくぶん弱まってきている。しかし、冷え込みのほうはというと、さっきに比べ、より厳しくなったように感じた。
たいした時間が経っていないのにそう感じたのは、がらんとした寺の境内の影響があったかもしれない。人影の見えない境内は、心の中を何か薄ら寒い気分にさせていたからだ。
背中にケイトをしょって、姉貴は境内の中央に通る石畳の上を歩いていた。俺と母親は石畳わきの玉砂利の上を歩いている。自分の足が一歩進むごとに、わずかに地面へ沈み込む。前に進む度、ざく、ざくという音が鳴った。
薄暗い境内には他に動くものがなかった。雲が辺り一帯の上空をくまなく覆っていて、星は見えない。雲はいかにも分厚そうな様子だった。
本堂の近くまで歩いてから、石畳をそれて右に曲がった。俺達は本堂ではなく、別棟のほうに進んでいった。母親の話では、そちらの建物に住職が居住しているらしかった。
そのまま少し歩き別棟の玄関の前に立つ。すると母親が、すっと姉の前におどり出た。頭を左右に動かし、ピンポンがついてないねと言った。直接呼ぶのかな、と一人でつぶやき、ごめんください、と少し大きな声をあげた。入口にはインターホンらしきものが見当たらなかった。
すぐに返事が聞こえなかったため、母親はもう一度、すいませーん、ごめんくださーい、と呼びかけた。
玄関の中に明かりがついているかはわからなかった。ただ、二階の窓からは障子ごしに光がもれていたので、無人ということではなかっただろう。来ないわね、と言った母親が、もう一度声を出そうとしたとき、戸の内側で何やら物音が聞こえ、人の気配らしきものが感じられた。
がらがら、と音をたてて戸が開いた。中からあふれる明るい光とともに、人が姿をあらわした。
若い男の坊さんだった。
なんとも凛々しい顔立ちをしたその坊さんは、俺達を見ながらこう言った。
「お寒い中、ご苦労さまでした。どうぞお上がり下さい。住職がお待ちです」
落ち着いた声だった。どちらかというと低音で、それでいてけれんみがない。端正な顔を支える背筋がぴんっと伸びている。軽薄さとは無縁だった。
俺が感心してぼけっとしていると、坊さんは姉に背負われたケイトに視線を送った。
「これは……」 と言った。そして絶句した。
それはケイトの神々しい美しさに驚いたといったことではなかったと思う。その坊さんの顔に浮き出ていたのは、緊張を強いられている人間に現れるそれだったからだ。若い坊さんは何かに急かされるようにして、さ、どうぞお入り下さい、とやや気色ばんで俺達を中へ招き入れた。
俺には、心なしか坊さんの声がふるえているように感じられた。ぼんやりとした不安が心をよぎった気がした。
外は月明かりもない暗がりだったが、屋内は煌々と照明がついていた。明かりに照らされた若い坊さんの秀麗な顔が、まるで熟す以前のトマトか何かのようにして青ざめ、光の中に浮かび上がっているように思えた。不安の雲が広がっていくような気がした。
とりあえず中に通された俺達は、玄関に続いた待合室のような場所に通された。そこにソファーがすえ置かれてあったので、姉貴はゆっくりとケイトをソファーに降ろし、そこに寝かせた。
ケイトの様子は落ち着いていて、眠りの中に落ちているかのようだった。
「こちらで少々お待ち下さい。ただいま住職を呼んでまいります」
言うや若い坊さんは、滑るような足どりで廊下の奥へと消えていった。