(2)Pain
その一件の後、俺はお袋を避けるようになった。近所に従兄が借りてる部屋があって、当の本人が留守がちなのをいいことに、俺はほとんどそこに入り浸って家には帰らないようにした。気まずかったからと言うより、もう一度マシューズがお袋を殴っているところに居合わせたら、自分を抑える自信がなかったからだ。
端的に言えば、俺にはマシューズを殺すかもしれないという予感があった。
そんなのはまっぴらだった。あんな男と、あんな女のために。動機は何だ?母親を守るため?は。笑わせてくれる。茶番劇を演じるピエロになるのは御免だ。そんな役回りを引き受けるくらいなら、ヤクのやりすぎで死ぬとか、そういう完璧に惨めな末路を選びたい。
従兄のビリーが部屋に帰って来る時は、大抵仲間も一緒だった。一体、何の仲間だったのかは知らないが、飲んでハイになって大騒ぎする理由さえあれば誰もが満足だったわけだから、その疑問に対する答えは得られなかった。
連中は、部屋の隅っこでぼんやりしている餓鬼(つまり俺のことだ)にはあまり興味を示さなかった。まあ、それも素面の間だけで、酔っ払うと俺は恰好の絡み相手だった。小突かれたりわけのわからない管を巻かれるのもしょっちゅうだったが、割合、居心地は良かった。誰も感情らしい感情を持っていなかったからだ。
酔っ払った野郎どもの醜態を眺めていると、酒やドラッグってのは随分と素敵なものに見えた。飲むだけでハッピーになれるなら、是非ともアル中になりたかったし、誰もそれを止めようともしなかったから、俺は大いに酩酊した。マリファナも吸ったが、そこまでのめり込みはしなかった。単純な高揚感や爽快さよりも、ギターに触っている時の試行錯誤した末の達成感の方が、遥かに中毒性が高かったからだ。
何より最高だったのは、ビリーが音楽に関してそこそこいいセンスをしていたってことだ。
部屋の端に無造作に置かれた箱の中には、宝の山が詰まっていた。ブラック・サバス。レッド・ツェッペリン。エアロスミス。その美しい騒音は、俺を虜にした。音楽に浸っている時だけは、全てを忘れられる。恍惚と高揚。それに作曲者と歌い手に対する敬意。下らない悩みなんて入り込む余地はない。
持ち主のビリーは音楽好きってわけじゃなく、単に流行りものを買い漁ってただけで、その証拠に一つとして曲名を覚えていたためしがなかった。なぜかミュージシャンを自称していたが、本当は酒屋の息子、それも給料分働いていたかどうかも怪しい不肖の息子だった。常に上機嫌で、それが元々の性格じゃなくハイになっていたせいだとしても、まあ悪い奴じゃなかった、と言えるだろう。どうしようもなく感性が鈍くて、話していて退屈だったのも許容範囲といえば許容範囲だ。
ビリーは、ふざけて俺を「ロック・スター」と呼んでいた。
いつ帰ってきても、俺がギターを弾くか音楽を聴くか、どちらかのことしかしていなかったからだ。たまに歌うこともあった。こっちはビリーのお気に召さなかった。一度、歌っているのを立ち聞きされて、文句を言われたことがある。
「お前、人前では歌うなよ」
「何で?」
「何て言うか、精神的にくるんだよ、お前の歌」
音痴ってことか、と訊くと、困ったような顔をされた。ビリーのくせに、真意の掴みづらい顔だった。まあ、いいさ。どっちにしろ、俺はヴォーカルになるつもりはなかった。当時の漠然とした夢は、ギタリストとしてビッグになること。それも世界中に名前を知られるくらいに。そうなればきっと、糞親の呪縛や周りに対する違和感からも解放される。田舎町での鬱積は思い出すことも稀な思い出に成り果てて、誰にも侵されない自由を手にすることができるはずだ。
俺は、一心にそう信じていた。
現状からの逃避願望を別にしても、誰かと組んでもっと完成された音楽を作ってみたい欲求はあった。なけなしのバイト代で安物のエレキギターとアンプは揃えられても、一人でベースやドラムまで演奏するわけにはいかない。
ただ、その「誰か」を見つけ出すのが難しかった。
アバディーンに住む九十九パーセントの人間は、音楽なんて下らないものだと思ってる。ビリーやその仲間だって、馬鹿騒ぎのBGM以上のものとは考えてなかった。林業の町だから、男共はすべからく肉体労働に従事することが暗黙の了解で、音楽に限らず文化的なものに興味を持つなんて非常識極まりない話だった。
そんな時だ。あいつに――メイナードに出会ったのは。
メイナードは、こんなごみ溜めみたいな町の住人とは思えないほど、小奇麗で見栄えのする男だった。美術のクラスで、俺はあいつと知り合った。メイナードが俺の絵を褒めてきたのがきっかけだ。俺は、趣味がいいな、とぬけぬけと答えた。メイナードはけらけら笑った。
俺達はすぐに意気投合した。
メイナードはおかしなやつだった。アメフト部のエースだと言われても納得できそうなごつい体格をしているくせに、いつも妙に洒落た服を着ていて、俺と同じくロックの信奉者でもあった。メイナードはドラムを教えてくれた。結果は散々だった。どうも俺にはリズム感が欠けてるらしい。それでも楽しかった。ほとんど初めて、他人に苛立つことも話していて疲れを感じることもなく、心からリラックスして接することができたからだ。
「君には才能があるよ」
作った曲を聴かせると、メイナードは断言した。調子に乗って歌も聴かせると、一転して黙り込んだ。俺は不安になった。ビリーに言われたことを思い出したせいだ。謝ると、「君は天才かもしれない」と真顔で言うもんだから、流石に仰天した。
「冗談だろ。従兄には『精神にくるから歌うな』って言われたんだぜ」
「だからだよ」
「だから?」
「これは僕の一意見にすぎないけど……例えば優れた歌い手の条件には、声が美しいとか、技術が素晴らしいとか、色々あるよね。でも本当に人の心を揺さぶるのは、痛みを伝えられる歌い手だと思うんだ。小手先の美しさなんて超越した、生きた人間の痛みをね。君の歌には、それがある」
やけに確信を持って言われたもんだから、疑うことさえ許されないような気がした。短い付き合いだが、俺はメイナードを信用していたし、お世辞を言うような人間じゃないこともわかっていた。自分の歌や曲が負の感情に支配されていることにも薄々気づいていて、もっと爽やかで明るい曲を作れないかと悩むこともあったから、メイナードの言葉は本当に嬉しかった。
「お前みたいに言ってくれる奴、初めてだよ」
感謝の気持ちを込めてそう言うと、メイナードは口ごもった。
「……僕にそんな風に言う必要はないよ。きっと君は、後悔するから」
「後悔?」
「だって僕は――僕は、ゲイなんだよ」
この時、自分がどういう顔をしていたのか、後になっても気になって仕方なくなることがあった。場合によっては、人間は指一本動かさなくても、言葉すら使わなくても、相手に致命傷を負わせることができる。
だけど言うまでもなく、自分の顔を鏡も無しに見ることはできないから、思い出せるのはありきたりで上滑りな言葉だけだ。
「構わないさ」
そうだ。俺はそう言った。
「そうだとしても、俺達が友達だってことには変わりはないだろ?ゲイだろうとバイだろうと、どうだっていいことだ」
実際は、どうだっていい、なんてことはなかった。アバディーンみたいな田舎町では、ゲイであることは人間じゃないことと同義だったからだ。あそこで青少年に求められる理想像は、脳味噌まで筋肉と化して運動部の活動に勤しみ、阿呆な教師の陰謀論を信じてソ連を憎み、だが結局は何も突出したことはしないことだった。大半の人間はそれに疑問もなく従い、外れた人間には白い目を向けて非難する。例えば俺や、メイナードみたいな人間を。
後で知ったが、メイナードはそんな環境にもかかわらず、自らゲイであることを公言して生活していたらしい。俺がその事を知らなかったのは、クラスが被らなかったことと、そもそも学校自体をさぼりがちだったせいだ。
客観的に考えれば、メイナードは馬鹿だ。こんな町で自分の性癖を隠さずにいればどんな扱いを受けるかなんて、誰だってわかることだろう。俺にだってわかる。だけど俺は客観より主観を優先させる人間だった。主観的に考えれば、口にした通り、ゲイだろうとバイだろうとどうでもいいことだ。「どうでもいい」なんて表現はメイナードを傷つけたかもしれないが、本当にどうでもよかった。
そして俺達は抱き合った。麗しい友情だぜ、全く。
ここからが問題だ。
変わり者のチビがホモ野郎と出歩いていることは既に知れ渡っていた。何せ小さい町だ。それまでもメイナードに嫌がらせはあったようだが――運動部でもないのに妙にマッチョだったのはそのせいだ――その矛先は俺にも向いた。経験しなきゃ理解できないだろうな、あの雰囲気……周りの人間全てが肉食動物で、自分が狩られる獲物になったような感覚は。
汚物を見るような視線で刺されるのは基本中の基本、聞こえるような声で下らない中傷、丁度良く雪が降ったらわざわざ教室に持ちこんで後ろからぶつけてきやがる。教師は見て見ぬふりだ。内心では、連中に賛成だったんだろう。
酷いのは体育の時間だった。ロッカールームに入ると、全員が自分の裸を見られないようにこれみよがしに隠す、だけならまだしも、交代で俺を押さえつけて皆が終わるまで着替えさせないようにするんだから。俺がゲイだったとしても、お前らなんて相手にするかよ。球技なんてやったら集中攻撃だ。さぼれば教師の呼び出しが待ってる。出席日数が足りない、だと。馬鹿ばっかりだ。
特にしつこいのはアメフト部のニック率いる一派だった。帰り道いつも追いかけてきて、雪に俺の頭を押し付けたり、その上から乗っかってきたり。さぞいい練習になったことだろう。何が楽しいんだ、とは言わなかった。弱い者を虐めるのはそりゃあ楽しいだろう。俺はやったことないが、それは俺が弱いからだ。人間性の問題じゃない。
「ハニーに助けてもらえよ」
「お前を助けてくれるのなんてあいつぐらいだからな」
「どうせお前が突っ込まれる方なんだろ。男のプライドないのかよ」
プライドならとっくにへし折られていた。残ったささやかな誇りは「ゲイじゃない」と言わないことだ。それを言うのは、許しを乞うことのような気がした。俺はゲイじゃない、だから許してくれ、って。誰であろうと、神であろうと、俺は許されなきゃいけないことは何もしていない。ましてや、こんな屑どもの許しなんて誰が要るか。
だけど頭でそう考えているのとは裏腹に、毎日のようにそんな仕打ちを受け続けているうちに、俺の脆弱な意志はたちまち崩れ去った。
屈辱だった。
あいつらに対する軽蔑や、俺なりのプライドや信念が数の暴力に押し潰されて、ただの本能的な防衛本能に支配されていくのは。
今でもはっきりと覚えている。
半年後、俺はメイナードの所に行って、「もうお前とは付き合えない」と宣言した。
メイナードは静かにそれを受け入れた。
俺が立ち去ろうとすると呼び止めて、「君があの時、言ってくれたことは忘れないよ」とだけ言った。
何でそんなこと言うんだ。責めろよ。この軟弱で卑怯な俺を責めろ。
そう滅茶苦茶に喚いてやりたかったが、できなかった。これ以上メイナードを侮辱したくなかったからじゃなく、自分がほっとしていることに気づいたからだ。もう理不尽な目に遭わなくてもいい。つまり、心のどこかで思っていた。こんな目に遭うのは全てメイナードと関わったせいだ、と。そういう自分をはっきり自覚したせいだ。
俺だって忘れていない。忘れない。お前だけだ。俺が魂を注いだ、唯一誇れる部分を見つけ出して認めてくれたのは。それがどんなに嬉しかったか、きっとお前は一生知らないんだろう。知らないのは、俺がお前を切り捨てたからだ。自分の苦痛から逃れたい一心で、お前が一番認められたいと思っている部分を理由にして、切り捨てた。
――醜い。
俺は、世界一醜い人間だ。
最低な気分で家に帰ってみると、更に最低な光景が待っていた。
ま、最低とは言っても、マシューズがお袋を殴りつけていやがった、ってだけの話なんだが。よくもまあ、飽きもせずやるもんだ。胸糞の悪い男には違いないが、これくらい馬鹿で単純な方が生きやすいのも確かだろう。俺の精神状態が良好で、殴られてるのがお袋でさえなかったら、羨ましささえ感じたかもしれない。
惨めったらしく泣くお袋と、全能なる神が如くそびえ立つマシューズを、俺は暫く眺めていた。神が存在するなら、奴のような姿をしているのだろう。
後から思い出してみると、事の原因はマシューズだけにあるんじゃなかった。
言うまでもなく俺はマシューズをニックや学校の連中に重ねて見ていた。当然のように、ただの暇潰しに殴ったり貶めたりして、他人の心を殺していく連中。俺は奴隷でも玩具でもない。いつまで、こいつらに支配されていればいい。いつになったら、俺は自由になれる。
いや、自由なんてない。
突然お告げじみた確信が、頭の空白に浮かんで、理性が切れるのを感じた。
次の瞬間、俺は銃を構えてマシューズに金切り声で自分でもわけのわからないことを喚き散らしていた。
銃を取りに走って、戻ってくるまでの記憶はなかった。面食らったようなマシューズの顔を見て自分がしてることに気づいたが、同時に自分がずっとこうしてやりたかったことにも気づいて、暗い喜びに心が震えた。
簡単だ。ただ引き金を引くだけ。それでこいつの汚い面を見ることは、二度となくなる。
――殺してやる。
「やめて!!」
お袋が目の前に飛び出してこなかったら、本当に殺してやっただろうことは、間違いない。
俺は混乱したし、それ以上に動揺した。お袋がマシューズを庇ったことよりも、そのことで狼狽してる自分の情けなさに、何よりも。いまいましい女を、俺は怒鳴りつけた。どけよ。
お袋はびびってたが、どきもしなかった。意外だった。お袋には、何かを妨げるに足る強い意思なんて、ないと思ってた。そう、この俺の母親に相応しく。
本当に傑作だったのは次の科白だ。悲鳴じみた声で、何を言ったと思う?
「お願いよ、彼を愛してるの!!」
――何だ、それ。
一瞬、冗談かと思った。お袋は頭がいかれてるのか。殴られすぎておかしくなったのか。この糞ばばあの発言は、いつだって俺の理解を超えてる。
そして湧き上がって来たのが、更に激しい怒りだった。
――ふざけるな。
愛……愛?
お前がそれを言うのか。お前にそんなことをほざく権利があると思ってるのか?いや、権利なんてどうだっていい。ただ、ただ虫唾が走る。何が愛だ。だったらその薄汚い愛を永遠にしてやるよ。お前みたいな売女にはその豚野郎がお似合いだ。地獄で豚同士、思う存分ファックしまくればいい。
何か、何でもいい、罵ってやろうと思って開いた口からは、何も出なかった。引き攣って変な具合に歪んだだけだ。
恐ろしく惨めだった。こんな雌豚一匹、撃ち殺すこともできないのか。ただ、血が繋がってるってだけの理由で。
そして、思った。たとえこいつらをまとめてぶち殺したとしても、自由になることなんてできない。むしろその瞬間、取り返しのつかない負債を背負いこむ予感がした。最終的に、その負債に俺は負けるだろう……この怒りも、屈辱も、いつから一緒にいたのか思い出せない劣等感も、全て一生消えないものだ。消えない。何をしても。なぜならそれはもう、俺の一部になっているから。
頭がガンガンした。それに耳鳴りも。何十人もの人間から、一斉に責められているような感覚だった。色んな感情が脳を揺さぶってて、言葉による思考なんて何もできない。狂う。今すぐにこれを発散しなければ、俺は狂う。
無我夢中で、ギターの所に走った。
気づいたことがある。
心が苦痛を受けて軋むたび、見えない血を流すたび、その痛みが大きければ大きいほどに、俺には素晴らしい旋律が聴こえてくる。俺はそれを捕まえるために、何度も記憶を再生する。もっと泣け、喚け、のたうち回れと傷口を広げて、痛みに悲鳴を上げながら、その痛みを純粋なただの音として感じられるようになるまで。
痛み――人の心が忘れないのは、痛みだ。
美しさには、いずれ慣れる。でも、痛みに本当の意味で慣れることはない。
ああ、メイナード。お前の言っていたことが、今はわかる。
痛みを訴えること。痛みを刻みつけること。
それが俺の、やるべきことだ。
たとえ誰もが俺を愛さなくても、必要としなくても。
俺には音楽がある。俺を傷つけることはできても、殺すことはできても、それだけは誰も取り上げることはできない。
自分の持っている何かが認められるとしたら、それは音楽だけだ。
それが出来なければ、全く俺には生きる価値がないってことがわかったなら、その時は何の未練もなく消えてやれるだろう。