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(1)I hate everything about you

 

 最初にギターに触れた時のことは、今でもはっきり覚えてる。

 十四の誕生日だった。

 その頃、俺を養っていた伯父が、何の気まぐれか買い与えてくれたのだ。アル中で、一年中大した理由もなく殴りかかってくるような男だったが、ごくたまに寛大になることがあって、その時がそうだったのだろう。

「たまにはお前にもいいことないとな」

 と、にやけ面で渡されたそれに、俺は一目で夢中になった。

 何の変哲もないエレキギターだ。ギターなんて、突きつめて考えればただの死んだ木でしかないが、それを手にした時、俺は不思議な安心感を覚えた。まるでずっと探していた半身に出会ったような――俺が求めてやまないものを見つけたような気がしたのだ。

 電気が走ったような衝撃と、深海の底に沈められた隔絶感を同時に感じることができたとしたら、

 こんな感覚だったろう。

 ほとんど呆然と宝を抱き抱えていた俺は、酒瓶のぶつかる音で我に返った。まずい。あの男が酔っ払ったら、自分で買ってきたことも忘れてギターを酒代に換えに行くことは間違いない。

 素早く自室に避難した俺は、改めて手に入れたそれをしっかりと抱え込んだ。

 硬い弦を軽く弾いて響いた音は、魂の奥底で俺を苛んでいた音だった。

 俺にしか聴こえなかった音が、実体を持ったのだ。

 それは、言葉に言い表せないような感動だった。

 ただ溜めこんで発散させる術のなかった負のエネルギーを、解放する道が目の前に開けたのだ。

 嬉しいなんて陳腐な表現じゃ、全然足りない。もっと純粋で、もっと凶暴な感情だった。

 俺は、どうしてそうするのかわからないまま、声もなく泣いた。

 



 人間の性格は生まれながらに決まっているものなんだろうか。それとも、生まれた時は誰でも白紙状態で、経験や環境によって後天的に作られるものなのか。

 後者ならば、俺という人格が決定づけられたのは、間違いなく八歳の時だろう。

 あの日、親父は一言も別れを告げずに出て行って、二度と戻らなかった。

 間抜けな餓鬼だ。目の前からいなくなるまで、自分が捨てられるかもしれないなんて考えもしなかったんだから。でもそれも無理はないだろ?俺は親父を愛していた。ボクシングが好きで、陽気で、片づけが下手な親父のことを。親父も俺を愛していると言った。

 人間は、愛している人間をそんなに簡単に捨てられるものなのか?

 ――わからない。今でもわからない。俺の何が悪かったのか。どうすれば親父を引き止めることができたのか。

 わかっていたのは、わからせられたのは、泣いても叫んでも親父が戻ってこないってことと、人間の「愛」なんて信用ならないものだってことだけだ。

 それからの数日間、自分の何かが死んでいくのを俺はじっと観察していた。おかしな気分だった。死んでいくのも、それを眺めているのもどちらも俺自身で、苦痛に打ちのめされながら同時にそれを他人事みたいに冷ややかに観察する意識もあった。まるで科学者みたいに。

 目に見えないものこそ、失ったら二度と戻らない。

 完全にそれがくたばってから、ようやく俺は「ダディ」に捨てられたんだってことを理解して、自分なりに事実を受け入れた。いじらしいだろ?

 そんないたいけな子供に止めを刺したのは、誰あろうお袋だった。

 お袋には、男がいた。ま、よくある話だ。そいつと暮らすには俺が邪魔だった。だから、「俺のために」俺を親戚に預けることにしたそうだ。

 ……俺のため、ね。

 便利な言葉だ。あんたは、そうやって俺の苦痛の矛先を自分に向けさせないようにしたんだろ。俺の感情なんていうくだらないものに、自分の新しい生活を邪魔されたくなかったんだろ。わかってたよ。あんたの望みくらい。だって俺はあんたを愛してたから――たとえあんたが、俺をお荷物としか思ってなかったんだとしても。

 泣いて縋ることに意味がないこともわかってた。

 俺の言葉も俺の感情も、お袋を動かすことなんて出来はしない。俺は無力だ。無力でちっぽけで、誰からも必要とされないゴミみたいな存在。

 そんなことに気づきたくなかった。でも、それからずっと、どこで何をしていても、その意識が頭から離れることはなかった。

 俺をこの世に生みだした両親ですら、こんなに簡単に俺を捨てることができる。だったら、何を拠り所にして生きればいい?赤の他人に、何が期待できる?何も期待できやしない。

 多分その時に感じていたものが、いわゆる無力感ってやつだったんじゃないだろうか。

 以来、俺は可愛げのない餓鬼に変貌した。

 周りにいる人間はどいつもこいつも嘘つきに見えた。実際、人間は嘘つきだ。それは悪いことじゃない。だけど俺にとっては、その嘘に騙されることは凄まじい恐怖だった。もし騙されて、好意を持った相手に裏切られたらどんな思いをするのか、もう知っているんだから。

 それに俺を引き取った親戚どもは、断じてお袋が言ってたように「俺のため」になるような連中じゃなかった。

 両親含めて、血縁のある奴らは揃いも揃って金もコネも実力もない碌でなしだ。だからアバディーンなんてど田舎で、一族全員が顔突き合わせて暮らしてる。伯父二人は自殺した。余りにも貧しくて。あいつらが死んだところで、社会的にも個人的にも、何の損失でもないけどな。

 俺も死にたかった。

 誰からも厄介者扱いされて、どこにも居場所がないのが惨めだった。親戚共にしてみれば当たり前だ。他人の子供に使う金なんてないだろう。あからさまに言われることも、遠まわしに態度で示されることもあった。俺ができたことは、主張しない。期待しない。要求しない。これだけだった。そして、俺にこんな思いをさせて会いにもこない両親が憎かった。でも自分から会いに行くことはできない。そうしたらきっと二人とも困るだろう。

 段々と存在を消すことと人の顔色を窺うことだけ上手くなって、将来はきっと俺も親戚共の仲間入りだろうなと、そう気づいた時には言いようのない絶望を感じた。何の取り柄もなくて、はした金のためにあくせく働いて、それでも貧乏で、気がつけば何も得ないまま中年になって、自分の駄目さ加減に一生失望し続ける人生。そんなものを送るくらいなら、ここで存在自体をなかったことにしたいと思ってた。

 学校も嫌いだった。

 したり顔で偉ぶる教師にも、無邪気で残酷なクラスメートにも苛々した。子供が天使か何かだと勘違いしている奴がよくいるが、お目出度いにも程があるね。子供だろうと何だろうと、人間には違いない。理由にもならない理由で、自分と同じ種族を傷つけても平気な生き物だ。

 どういうわけか、周りの人間のことは一人も好きになれなかった。

 十歳頃から、自分と他人は何かが根本的に違うんだって感覚があって、どうしてもそれに上手く目を瞑れなかった。

 俺が、体育会系の活動に全く興味を持てなかったってことも一因だろう。学校で幅をきかせるのはああいう連中なのに、俺ときたら奴らと共通点が何もなかった。

 ただ、最大の原因は俺のある種の過敏さにあった。

 本当は凄いとも思っていないくせに、感心して見せる。本当は妬んでいるくせに、褒めたたえる。本当は見下しているくせに、同情する。

 逆もまた然りだが、そういうことをごく自然にやっている普通の人間が、気持ち悪くて仕方なかった。平気なのか?嘘をついても、欺いても平気なのか。本心じゃない、表面だけの社交辞令でも満足なのか。それとも本気でそれが嘘だと気づいてないのか。

 どっちにしても、その鈍さが神経に障って我慢できなかった。

 騙すなら完璧にやってくれ、と何度言いそうになったことか。

 周りにとっても、俺は扱いづらい餓鬼だったと思う。神経質で、他人のちょっとした表情、言動から勝手に裏を読み取って、勝手に傷つく。自分に対してだけじゃなく、他人に対する悪意にも耐えられなかった。正義感が強かったからじゃない。ただ、誰かが誰かを馬鹿にしたり貶めるたびに、自分が人間に失望することに耐えられなかった。俺を捨てたあいつらも、遊びの延長で他人の心に傷を負わせる連中も、特別な人間じゃなくどこにでもいるありふれた人間で、こんなことでいちいち動揺する方がおかしいんだってことを思い知るのが、嫌で嫌でたまらなかった。

 毎日、夜になってベッドに潜り込むと、頭の中からノイズが聞こえる。目を閉じて耳を塞いでもそれは鳴りやんではくれなくて、気が狂いそうだった。妄想?そうかもしれない。いつだって俺を一番苦しめるのは俺自身だ。

 音楽を聴き始めたのは、ノイズを別の音で塗り替えたかったからだ。

 音の種類は何でも良かった。けど、お上品なクラシックよりは騒がしいロックの方が好ましい。嫌でも耳に飛び込んでくる轟音に集中して、自分の中の病んだ音は聞こえないふりをする。伯父にギターを与えられる十四の年まで、そうやって他人の音にしがみついてやってきた。




 ギターを手に入れて以来、俺は昼も夜も相棒を離さなかった。

 まるで何かにとりつかれたみたいだ。ほとんど学校も行かないで、一日中部屋にこもってひたすら練習している時もあれば、ただ弦をかき鳴らしているだけの時もあったし、何もしないでぼんやりしている時もあった。

 普通、ギターをやり始めたばっかりの餓鬼は他人の曲を練習して上手くなるもんだけど、俺は違った。他人の曲じゃ駄目だ。自分の曲をやらなきゃ意味がないってわかってた。理屈じゃない。本能だ。俺にとっての作曲や演奏っていうのは、ただの音とリズムの組み合わせや指の反復運動じゃなく、何て言うか一種のセラピーみたいなもので、自分の感情を吐き出すはけ口でもあった。 

 なぜ人は音楽を演奏し、絵を描き、架空の人間を演じるのか。

 その行為に救われるものがあるからだ。

 他人の賞賛や批判は、おまけに過ぎない。勿論、褒められた方が気分はいいが、だけど他人の言葉では俺は救われない。どう説明すればいいのか……自分の苦痛を音という媒体に乗せて、一つの曲として完成させた時、その曲は俺の一部ではあるが俺そのものではない。俺そのものではないが、俺の一部は込められている。

 俺は、俺自身が嫌いだ。親父にすら捨てられた、何の魅力もない人間。誰にも生を望まれない、生まれながらの負け犬。そんな自分をどうして好きになれる?

 おかしなことに、「自分」は好きになれないのに、「自分の音楽」は結構気に入っていた。なぜだろう。「作品」を通してだけ、俺は自分を肯定できた。俺はどうしようもなく女々しくて弱くて何の取り柄もない屑だけど、俺の音は俺っていう人間ほど酷くはないんじゃないか、だったらそのために生きていてもいいんじゃないかと思えた。

 だからギターと音楽は、俺の救いだった。

 もしそれが周りにとって世界一耳障りな音だったとしても、きっとやめられなかっただろう。むしろ、相手に聴く耳がないんだと嘲笑ったかもしれない。素人の分際で、傲慢な考えだ。だけど自己満足でもよかった。ちっぽけなプライドだったとしても、それが心の拠り所になってくれるなら。今まではそれすらもなかったんだから。

 



 ハイスクールに入学した頃、俺はまたお袋と暮らすことになった。あいつが息子の存在を思い出して母性に目覚めたから、とかじゃない。例の酔っ払いの伯父が、酔った勢いで人を殴って逮捕されたのだ。お互いにとって運の悪いことに、殴られた相手は重傷だった。そういうわけで俺は本来の保護者のもとに戻されることになったわけだが、離れてた月日関係なく母子仲良く、なんてことにはならなかった。

 なぜ?

 単純な話だ。

 お袋には新しい家族がいた。親父と離婚した時とは別の男だ。そんなことじゃないかと思ってたから、俺は行きたくなかったのに、法律はそれを許さなかった。糞が。

 マシューズは、ああマシューズってのは継父の姓だが、伯父と同じく典型的な労働者階級の男だった。大柄で、粗野で、テレビでスポーツ中継を見るぐらいしか趣味のない男。俺の嫌いな体育会系の同級生共が成長したらこうなるんだろうと簡単に想像できた。こいつに養われなきゃならないのかと思うとぞっとしたが、向うも俺のことを嫌ってた。配偶者の連れ子なんて、下手すれば他人より厄介だ。餓鬼の頃ならともかく、こんなにでかくなってちゃな。加えて俺はちびで痩せてて、マシューズが崇拝するアメフトもやってないし、目つきが悪くて可愛げもない。

 多分、殴られることになるだろうな、と初対面で早くも思った。自分がこういう人間の嗜虐心を煽るタイプだってことは薄々悟っていた。諦めが肝心だ。 

 まあいいさ。殴られるのも無視されるのも慣れてる。好きなようにすればいい。だけど俺はお前の望むようにはなれない。ならないんじゃなくてなれない。嫌がらせとか反抗心からの気持ちじゃなく、これは厳然たる事実だ。自分を変えるってことは、物凄く難しい。それがこだわるに値しないところであっても、本人でさえ捨てたいと思っているようなところであっても。

 マシューズが俺の考えを察していたかどうかは知らないが、現実にはそれほど酷いことにはならなかった。

 というのも、あいつには既に獲物がいたからだ。つまり、お袋が。

 あてがわれた二階の部屋でギターを弾いてると、酔ったマシューズがお袋を罵るしゃがれた声と、鈍い物音が聞こえたもんだ。

 俺は聞こえないふりをした。殴られる痛みも、次にいつ殴られるかわからない恐怖も、知っていたからこそ聞こえないふりをした。

 自業自得だ。

 自分で産んだ子供も捨てるような無責任な人間だから、そんな目に遭うんだ。手に入れたかったのがそんなものだったって言うんなら、せいぜい享受すればいい。

 本心のはずだった。

 だけどある朝、顔を腫らしたお袋を見た時は腹が立った。無性に腹が立った。マシューズがいたら撃ち殺してやるところだ。銃がしまってある場所は知ってる。

「別れろよ、あんな男」

 言うつもりもなかった言葉が飛び出した。お袋は俺を責めるような目で見て、疎ましげに口を開いた。

「そんなことできるわけないでしょう」

「何でだよ。男なら他にいくらでもいる。寄生するならもっとマシな相手にしろ」

「子供がなんて口利くの。あんたもあたしも、あの人に養われなきゃ生きていけないのよ」

「そうだな。確かに、俺は誰かに仕方なく生かされてきた人間だよ。でも殴られて喜ぶ変態じゃない。やらせるだけじゃなくてそういう趣味にも付き合ってやるなんて、サービスのいい淫売だな」

 お袋は傷ついたようだった。涙ぐんで、恨んでるのね、と哀れっぽく訴えた。でも仕方なかったのよ、わかってちょうだい。

 俺はただ立ち尽くしていた。怒りのあまり?それもある。「仕方なかった」の一言で俺の今までを片づけられるのは我慢できなかった。やめろと叫んで揺さぶってやりたかった。だけどそれ以上に、お袋が傷ついているのを見て俺も傷ついていた。傷つけてやりたかった筈なのに、実際にそうしてみたら溜飲が下がるどころか、ひれ伏して許しを請いたい衝動と必死に戦わなきゃならなくて、そんな自分に愕然とした。

 何てざまだ。

 まさか俺は、まだこの女に愛されたがってるっていうのか?

 冗談じゃない。そこまで惨めな存在になり下がる気はなかった。もう餓鬼じゃないんだ。今までだって一人でやってきた。この女の愛情も関心も必要ないし、欲しくない。そうだろう?

 ――いや、必要とされていないのは、俺の方だ。

 考えないようにしてきた疑問。本当は生まれることすら望まれてなかったんじゃないか。貧乏人が避妊に失敗してできた欠陥品がこの俺というわけだ。過ちの象徴。疫病神。お袋が俺に抱いているのは罪悪感だけ。俺はお袋を苦しませることしかできない。でも俺が生まれた事実は変えられない。それが辛い。いつだって俺は人の望み通りにできない。

 急に黙り込んだ俺に、お袋は怯えたような表情になった。こっちの機嫌を窺うように、どうしたの、と弱々しく訊いてくる。

 俺は目を逸らす。

 何なんだよ、あんたは。愛してくれないくせに。義務感しかないくせに。

 言えよ。

 俺が邪魔だって。産んだのを後悔してるって。消えて欲しいって。

 言われなくたって、目を見ればわかる。わかっていても、それでも俺はどこかで期待している。愛してる。ほとんど自分の意志と関係ないところで。愛したくなんかないのに。俺を愛していないあんたのことなんて、ただ軽蔑して馬鹿な女だってせせら笑ってやりたいのに、それさえ叶わなくて愛されないことに対する劣等感から逃れられない。

 頼むから、心から頼むから、俺にあんたを憎ませてくれ。

 お願いだ。


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