後編
Kはその言葉通り、無闇に曲を書き散らしては破り捨てる、なんて無駄なことはしなくなった。相変わらず神経質で、俺やDの領分にも容赦なく口は出したが、それは珍しいことではない。その代わりに、もっと悪いことになった。
ドラッグだ。
ただでさえミュージシャンなんてものをやってれば、ドラッグは手に入りやすい。俺もDも薬には嫌悪感を持っていたから手は出さなかったが、Kはその境界線をあっさり踏み越えた。しかも悪いこととも思っていないようだった。最初に薬を使った時、あいつは俺に電話してきた。俺がクリーンで、ドラッグを嫌っていることを知っているくせに、だ。
むかついて電話を切ろうとすると、「何怒ってるんだよ」とやけに機嫌のいい声が耳を突いた。
『俺は今最高の気分なんだぜ』
「ラリってるだけだろ」
無駄と知りつつそう言うと、押し殺したような笑い声が返ってきた。
『喜んでくれたっていいだろ。アシッドを使ったらあのくそ忌々しい頭痛が止まったんだ。これでもう藪医者にかからなくてすむと思うと、せいせいしたぜ』
返すべき言葉なら十は浮かんだ。ドラッグは毒だ。そんなもので体の不調が治るわけない。あっという間に廃人になるのが関の山だ。
だが俺が何かを口にする前に、Kは一方的に電話を切りやがった。かけ直す気にもならずに受話器を放り投げてみたものの、どんよりとした嫌な気持ちは消えてはくれなかった。
その時の予感通り、Kはどんどん荒んでいった。いや、もしかしたらドラッグは切っ掛けに過ぎず、内面は既に荒廃しきっていたのかもしれない。何があいつをそこまで追い詰めたのか、俺にはまるでわからなかった。そんな人間が通りいっぺんの説教をしたところで、他人の心を変えられるだろうか。特にKみたいに、何箇所もねじくれ曲がっている男の心を。
俺だってKを救いたかった。俺はKの才能を愛していた。
こんなことで天から授かった能力が潰されるのかと思うと、耐えられなかった。
だがあいつは俺の忠告なんて聞く気がなかった。このままいけば、いずれ身を滅ぼすだろうことは言われるまでもなくわかっていたはずだが、それすらどうでもよかったようだ。
金や名声を無意味だと断じたのと同じように、自分の肉体もKにとっては価値のないものだった。あいつが唯一、執着していたのは音楽だけだった。それも、他人がどう思うかはどうでもよくて、自分が納得できるかだけに拘っていたから、何ものもあいつに影響を与えることはできなかった。
「誰かのために歌ったことなんてないね」
アシッドで恍惚とした表情で、Kはこう言った。
「俺は、俺のためだけに音楽をやってる。これからだって、そうするつもりだ」
ドラッグを使い始めたのとほぼ同時期に、Kはある女と付き合い始めた。
名前をCと言って、俺たちほどじゃないがそこそこ売れてるバンドのヴォーカルだ。ブロンドと真っ赤な口紅が印象的な、なかなかの美人だった。それは認める。
だが性格の方はと言うと……お世辞にも褒められたもんじゃなかった。
良く言えば男勝り、悪く言えば雌犬。バンドを組む前はストリッパーをやっていた前歴もあり、とても女らしい優しさや癒しなど望むべくもない。それだけならまだしも、CはKと同じ問題を抱えていた――つまり、ドラッグだ。
知り合ったきっかけが、お互いの持つドラッグの交換だったって言うんだから、呆れて物も言えないとはこのことだ。
そんな二人が何も問題を起こさないわけがないだろう。
ある音楽関係の授賞式に出席していた時のことだ。会場にはあらゆる一流の歌手やバンドが集まっていて、その中にはAという男がいた。Aは俺たちよりも前に有名になったバンドのヴォーカルで、Kとはもともと不仲だった。デビュー当初、Aの方はKに好意的だったのだが、Kの方はAを嫌っていた。「あいつは前時代の遺物だ」というのがKの言い分だった。そんなことを公然と口にされれば、Aだって面白くないだろう。
バックステージで偶然、鉢合わせた時、Aを挑発したのはCだった。Cがどうしてそんな真似をしたのか俺は知らない。以前、何かで揉めたことがあるのか、ただAの顔が気に入らなかったのか、むしゃくしゃしていたのか。一つ言えることは、Cという女は滅法口の立つ女だった。しかも、相手をけなすための語彙もやたらと豊富で、毒舌でもある。
一方的に言い負かされたAは、Cの隣のKに向かって「この雌犬を黙らせろ」と毒づいた。
Kは怒りもせず、Cの方に顔を向けて「黙れ、雌犬」と言い放った。
Cは大笑いし、Aは怒りで真っ赤になった。
この一事からもわかるとおり、Cの存在はKを更生させるどころか、ますます破滅に追いやっているようにしか思えなかった。
下世話なパパラッチが勘繰るまでもなく、CがKに近づいたのは売名のためだというのが、俺とDの意見だった。同意しなかったのは当のK本人だけだ。信じられないことに、あいつはCに惚れていた。結婚すると言い出した時は、正気を疑ったもんだ。マスコミはこのヤク中カップルに興味津々で、CとKはどこに行ってもカメラに追いかけられていた。そのうちCが妊娠しているのではないかという噂が立ち、妊婦のくせにドラッグを使っているのかと各方面から非難が殺到し始めた。
「妊娠なんてしてないわよ」
Cは毅然としてこう言った。
「仮にそうだったとしても、あんた達に何の関係もないでしょ。放っておいて」
Cを認められる所が一つあるとしたら、この男顔負けの図太さだろう。
Kの方は、すっかりまいっていた。新アルバムのレコーディングにかこつけてスタジオに引き籠ってはみたものの、そこでも噂は本当なのか、これを機にCとは別れた方がいいと周りの人間――そこには俺とDも含まれていた――に煩く喚き立てられることからは逃れられなかった。
今にして思えば、俺だけでもKをそっとしておいてやるべきだった。だが当時の俺は若かったし、余裕がなかった。Kが潰れれば、俺も沈む。忠告と言えば聞こえはいいが、それは完全なる善意からの言葉ではなかった。それがまたKを傷つけていた。
「俺がいいと思ったものは、いつも否定される」
皮肉っぽくこう言っていたことがある。
「面白いよな。そんな俺の作った音楽が、何でこんなに受けてるんだか」
それでも今までのKなら、音楽に没頭している時だけは俗世の雑事から逃れられる筈だった。
しかしKは既に、音楽に対する情熱を失っていた。少なくとも俺にはそう見えた。
相変わらずソングライターとしての能力はずば抜けていたが、そこにK自身の魂は込められていなかった。というのも、没頭している時のあの熱に浮かされたような目ではなく、淡々とした心ここにあらずといった表情で、作業をこなしていたからだ。まさに機械的という表現がぴったりだ。義務だから仕方なくやっている、これで満足なんだろう、という声がありありと聞こえてくるようだった。
ストレスからか、Kのドラッグに対する依存度はますます酷くなっていった。
びっくりするほど陽気になったかと思えば、次の瞬間はこの世の終わりかと思うほど陰鬱に塞ぎこむ。
最早、Kの逃避する先は音楽ではなくドラッグになっていた。
何とかアルバムを完成させた後、俺たちはツアーでローマに向かった。Cも一緒だ。俺は、これが終わったら休暇を取るようにKに勧めるつもりだった。今まではあんまり忙しすぎたのだ。心身ともにリフレッシュすれば、Kも自分の馬鹿さ加減に気づくかもしれない。
結果的に、それは一歩遅かったと言えるだろう。
滞在先のホテルで、Kは鎮痛剤を五十錠も飲んで昏睡状態に陥ったのだ。
幸いにもKは一命を取り留めた。
Cが同室にいなければそのまま死んでいただろう。そうは言っても、やはり俺はCに感謝する気になれなかった。あの女がKの精神に悪影響を与える一因だと、信じ切っていたからだ。
Kの意識が戻ってから、俺は病院に見舞いに行った。病室の前で、部屋から出てくるCと出くわした時に「もう十分だろ」と声を掛けたのも、考えた末のことだ。
Cはきょとんとした顔で、「どういう意味?」と訊き返してきた。
「そろそろKを解放してやれよ」
「何、それ。あんた何様?」
「もう十分、名前は売れただろ?これ以上、何を絞りとる気なんだよ」
「絞りとる?それはあんたでしょ?あの人に釣り合う才能もないくせに、ハイエナみたいにあの人の才能に群がって。ライバルは追い払いたいってわけ?」
俺は腹が立った。出鱈目だったからじゃない。その逆だ。
「俺はあいつのために言ってるんだ。お前はあいつを廃人にしたいのか?あいつには助けが必要だって、わからないのか?」
「わかってないのは、あんたよ」
Cは鼻で笑った。
「あの人は上から引っ張り上げてもらうことなんて、望んでないのよ。自分が間違ってるって教えてもらうことになんて、飽き飽きしてるの。同じ場所に居られないなら、誰の存在にも意味なんてないんだから」
Cは中指を突き立てて見せてから、帰って行った。
俺は不愉快だったが、そのまま帰るわけにもいかず、Kの病室に入った。Kはベッドに横になっていて、俺を見ると「喧嘩するなよ」といつもの冷笑を浮かべて言った。大声を出したつもりはなかったが、聞こえていたらしい。
「悪い……具合はどうだ?」
「ああ、見ての通りぴんぴんしてるよ。俺も案外しぶといな」
つまらなそうにそう言うKを見て、俺は確信した。今回の件は事故じゃなく、こいつが故意にやったことだ。Kは死ぬつもりで、薬を飲んだのだ。
「どうしてこんなことしたんだ」
誤魔化しは許さないつもりで真っ直ぐにKを見ると、奴はぼんやりと宙に視線を彷徨わせた末に、痛みを湛えた目で俺を見返した。
「空っぽだから」
「空っぽ?」
おかしなことを言う。Kには誰もが認める才能がある。望めば何だって手に入るのに。
俺が怪訝そうな顔をしていると、Kは失望したかのように視線を逸らし、深い溜息を吐いた。
「俺がどうして音楽やってたか、知ってるか?」
「……いや」
「苦痛から解放されるためだよ」
「苦痛?」
「俺は、人間と関わるのが苦痛なんだよ。親父に捨てられた時から、俺は自分の価値を信じられない。自分をさらけ出して、それでも他人に必要とされる何かがあるなんて信じられない。でも、ギターに触ってる時だけ、俺はそういう思いから解放された。どんな惨めな思いも、音に昇華して『この曲を作るためにあんな思いをしたんだ』って納得できた。俺の中の音だけは、俺を裏切らない」
「……」
「『N***』がヒットした時、『ざまあみろ』って思ったよ。俺をゴミみたいに捨てたあいつらも、俺を馬鹿にしてた連中も後悔すればいいんだ、ってさ。もう誰も俺を無視しない。誰もが俺を必要としてる」
「そうだ、お前には才能があるんだよ。みんな、お前の歌を聴きたがってる。立ち直って欲しいと思ってるんだよ」
Kにこのまま話させてはいけない、と本能が訴えていた。だがKは俺の言葉なんて聞いちゃいなかった。
「売れたから冷めるなんて、変な話だよな」
と自嘲気味に言う。
「あんなに愛してた筈なのに、もうその時の気持ちが思い出せない。どこを探しても、俺の中にはもう何もない。全部、惰性だ。惰性で曲書いて、レコーディングして、ツアー組んで、ライブして、歌って、煽って、適当にセット壊す。タイムカード押した方がいいんじゃないかってくらい何も感じてないのに、それでもファンは喜ぶ。俺はこんなもののために、自分の魂を売り渡したのか?反吐が出るね――俺は、自分の才能が憎いよ」
俺は完全にKに呑まれていた。まるで死ぬ前の最後の輝きと言わんばかりに、俺の記憶に刻みつけようとするかのように強い光を放つKの目に、ただ圧倒されていた。
「……しばらく、音楽から離れてみろよ」
俺はやっとの思いでそう言った。
「何年か活動休止すればいいだろ。俺はそれでも構わない」
Kは笑った。空虚な笑いだった。
「昔は、ギターに触れないなんて言われたら、我慢できなかっただろうな。今は平気だ。何年でも、何十年でも――じゃあ、俺は何のために生きてる。何のために生きればいい。他には何も、できないのに」
帰国までの間、Kは大人しかった。
病院じゃ何もできなかったってのもあるし、俺とCが共同戦線を張って交代で見張っていたせいでもある。
アメリカに帰国後、Kは薬物治療のリハビリセンターに入院した。やけに素直に言うことを聞いたので不審に思ったが、クリーンになれば気持ちも上向きになるだろうと期待を持ったのも確かだ。何より病院なら、Kを見張る目がいくつもある筈だった。
その目論見は入院後、一週間で早くも崩れ去った。
煙草を吸うと言って外に出たKは、そのまま戻ってこなかった。すぐに考えつく限りの友人知人に連絡して、Kを見かけたら知らせてくれと頼んだが、一向に所在は掴めなかった。
三日後、半狂乱になったCから連絡がきた。
Kが銃で頭を撃ち抜いて死んでいるのが、発見されたのだ。
それからのことは、正直あまり覚えていない。
新聞もテレビもどこを見てもKの顔ばかりだったし、俺のところにも数限りなくマスコミが押し寄せてきたが、その全てが別世界の出来事のようだった。Kはなぜ死んだのか、自殺か他殺か、関係のない人間ほど、そういうことを知りたがるものだ。捨てられるのを恐れたCが殺したのだ、と言い出す人間まで居て、俺は腸が煮えくりかえるような怒りを感じた。
Kが死んだ。
この事実の他に、重要なことなんて何もないのではないか。仮にCが殺したのだとして、それで何が変わるというのか。
あの輝くばかりの才能は、もう永遠に失われてしまったのだ。その喪失の意味を、本当にわかっている人間は何人いたのだろうか。
Kの葬儀が終わって暫くしてから、俺はCと二人で話す機会があった。たまたまKの墓の前で、行き会ったのだ。
「あんたなの」
Cは俺を見て、挑発するように眉を動かした。
「先に言っておくけど、彼の遺言に私は関知してないから」
Kの遺言では、何曲かの印税がCに入るように定められていた。流石にそれに文句を言う気はなかったが、それをCがどう思っているのかは気になった。Kが死んだ直後こそ取り乱していたものの、それ以降メディアの前でも平然としていたこの女は、やはり売名目的だったのだろうか。
Kの死から一ヶ月後、Cは新たなアルバムを発表していた。いい作品だ。と同時に、Kの死に便乗してセールスを伸ばそうとしているのではないか、という疑念が浮かんだのも事実だ。
Kが自殺する前、最後に電話したのはCのところだった。
何を言ったのかと聞くと、「あの人らしいことよ」とCは苦笑した。
「こっちは色々言ってるのに、聞きもしないの。ただ『何があってもお前は良いレコードを作ったってことだけ覚えておけ』って」
そこでCは顔を歪めた。今にも泣き出しそうな、無防備な子供のような顔だった。
だが俺が何かを言う前に、いつもの強気な表情に戻り「平気よ」と呟く。
「私は強いもの。何があっても大丈夫――彼だって、そこに惚れたって言っていたもの」
Kは二十七歳でこの世を去った。
残された者達はその存在を惜しみながらも、やがては忘れ、時々過去の存在として思い出すだけになるだろう。
だがKの音楽だけはこの世に残り続ける。
お前がかつて愛し、愛せなくなった音楽を、この世の誰かが代わりに愛し続ける。
だからお前が生きたことも、お前の作品も、無意味なんかじゃなかった。
そう俺は思っている。