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凪いだ世界の崩壊

 その世界は、あまりにも静かで、あまりにも美しかった。


「本日のあなたのメンタル・スコア(MS)は『93』です。素晴らしい状態ですね、レイ。今日も模範的な一日を」


 毎朝、網膜の隅に淡いブルーの光で投影されるAIの音声に、レイは鏡の前で完璧な笑みを返した。

 左右対称に美しく編み込まれた黒髪。ミリ単位の狂いもなくプレスされた、シワ一つない襟元。レイは地域でも有数の進学校に通う、誰もが認める「完璧な優等生」だった。


 21世紀末、人類は不毛な感情の衝突を克服した。

 全ての市民は、手首のウェアラブル端末から常に脳波とバイタルを計測されている。街を交わされるすべての会話は、「相手を傷つけない、かつ論理的」なアサーション(適切な自己表現)が法律で規定されていた。


 怒鳴る。泣き喚く。嫉妬に狂う。

 そんな原始的で制御不能な感情表現はすべて、社会の調和を脅かす「精神的汚染」として定義され、法によって厳格に排除されている。街を行き交う人々はみな、薄氷の上を歩くような、穏やかで平坦な微笑みを浮かべていた。


「レイ、今日の小論文の構成、実に見事だったよ。君の論理的思考力は、クラス全体の模範だ」


 放課後、ホログラムの教卓の前に呼び出されたレイに、担任の教師が穏やかな、抑揚のない声で告げた。その瞳には、生徒を愛おしむような熱はなく、ただ「適正な評価」を下したという無機質な満足感だけがある。


「ありがとうございます、先生。先生が以前提示してくださったフレームワークを論理の骨子にいたしました。的確なご指導のおかげです」


 レイは淀みなく言葉を返した。脳内で「アサーションの規則」を瞬時にスキャンし、先生の自尊心を傷つけず、かつ謙虚で論理的な最適解を導き出す。

 学校でも、家に帰って親とディナーテーブルを囲む時も、レイは常にそうやって「相手が求める正しい言葉」だけを紡いできた。


(心をフラットに。呼吸は深く。余計な波を立ててはいけない)


 それがこの凪いだ世界で生き残る唯一の方法であり、それこそが正義だと信じて疑わなかった。自分の本心がどこにあるのかなど、考える必要すらなかったのだ。



 この世界では、教育効率の最適化のため、授業の半分はオンラインで行われる。

 レイが彼――タクトと親しくなったのも、数ヶ月前に開催された他校との合同オンライン演習がきっかけだった。


 画面の向こうのタクトは、レイの周囲にはいないタイプの、少し危うい少年だった。

 すべてがシステム化されたディストピアにおいて、彼は「アサーションの規則」の境界線をギリギリで攻めるような、ウィットに富んだ、どこか体温を感じさせる言葉を好んで使った。効率と論理だけで構築されたレイの白黒の世界に、タクトは鮮やかな色彩をパタパタと落としていく。


『今度、画面越しじゃなくて、リアルで会ってみない?』


 端末にメッセージが届いたとき、レイの手首のセンサーが小さく脈打った。網膜のMSメンタル・スコアの数値がわずかに揺らいだが、それは決して不快なエラーではなく、生まれて初めて知る「胸の高鳴り」というものだった。


 そして今日。放課後の夕暮れ時。

 レイはタクトと、街外れの目立たないカフェで向かい合っていた。

 ただお茶を飲む。それだけのありふれた行為が、完璧な優等生として生きてきたレイにとっては、世界で一番特別で甘やかな「デート」だった。


「リアルで見るレイは、画面で見るよりずっと綺麗だね」


 西日に照らされたタクトが、少し悪戯っぽく微笑む。レイはカモミールティーのカップを両手で包んだまま、カッと頬が熱くなるのを感じた。会話は驚くほど弾んだ。先生や親の前で被っている「模範市民の仮面」を脱ぎ捨てて、ただの一人の少女として心が満たされていく。この時間が永遠に続けばいいのに、とさえ思った。


 しかし、タクトが「少し席を外すね」と手洗いに立ったとき、その完璧な楽園は音を立てて崩れ去った。


 タクトがテーブルに置き忘れていった端末が、ブブッと短く振動した。

 普段のレイなら、他人のプライバシーを侵すような規律違反は絶対にしない。だが、その時に限って、無意識に視線が吸い寄せられてしまった。ポップアップした通知のプレビュー画面が、レイの瞳に冷酷な現実を突きつける。


『タクト、今日も、いつもの場所で待ってるね。昨日は一日中一緒にいられて楽しかった!』


 メッセージの横には、タクトと、見知らぬ女子生徒が親しげに頬を寄せ合って笑う写真が添えられていた。

 昨日。タクトがレイに「体調が悪いからオンライン授業を休む」とメッセージを送ってきた、まさにその日だった。


 頭が真っ白になる。

 心臓がドクンと嫌な音を立て、手足の先からスーッと血の気が引いていく。

 裏切られていた? 騙されていた?

 いや、それ以上に、彼が自分に見せていたあの「体温のある言葉」はすべて嘘だったのか。


「お待たせ。どうしたの、レイ? 顔色が悪いけど……体調の最適化コントロールに失敗した?」


 戻ってきたタクトが、レイの顔を覗き込む。

 レイはガタガタと震える指で、テーブルの上の端末を指差した。胸の奥から、どろりとした、今まで味わったことのない熱い塊がせり上がってくる。


「タクト……これ、何? この女の子、誰なの……?」


「あぁ、それか」

 タクトは一瞬だけ、視線を泳がせた。だが、焦りや申し訳なさそうな素振りは微塵も見せない。彼はすぐにいつもの、落ち着いた表情に戻った。そして、深呼吸を一つ挟み、淡々と言い放った。


「レイ。感情的にならず、論理的に聞いてくれ。僕と彼女は、互いのメンタル・スコアを最大化するための建設的なパートナーシップを結んでいるんだ。君との対話も有意義ではあったけれど、彼女の持つデータや思考パターンの方が、僕にとってはより高次元な精神的シナジーが期待できる。だから、君とはここで関係を終了クリアすべきだという論理的結論に達した。これは相互の未来のための、最善の選択だ」


「論理的……? 関係を、クリア……?」


 タクトの口から溢れ出たのは、耳を疑うほど滑らかな、罪悪感の一片すら存在しない「正しい言葉」だった。

 それなのに、この冷酷な世界のシステムを盾にして、レイを「不要になった古いデータ」のようにゴミ箱へ放り込もうとしている。


 その血の通わない合理性が、レイには、どうしても耐え難かった。


「ふざけないでよ……ッ!!」


 ガタァンッ! と激しい金属音が店内に響き渡った。

 レイは椅子を蹴立てて立ち上がっていた。静寂と調和が支配していた洗練されたカフェの空気が、彼女の放った剥き出しの金切り声によって、ガラスのように粉々に割れる。周囲のテーブルで対話を楽しんでいた客たちが、信じられないものを見るような、怯えと嫌悪の入り混じった目で一斉にレイを見た。


「何が精神的シナジーよ……! 嘘をついて体調不良なんて誤魔化して、他の女と一緒にいた癖に! 私は、私は貴方を信じて、こんなに――っ!」


『警告:対象の心拍数が急速な上昇を記録。脳波パターンの著しい乱れを検知』


 視界の端で、真っ赤な警告ログが激しく点滅し始める。

 毎朝、彼女の平穏を保証していた「93」という高いMSメンタル・スコアのデジタル数字が、まるでブレーキの壊れた乗り物のように「50」……「30」……そして、危険域である「8」へと垂直落下していくのが見えた。網膜が、警告の赤一色に染まっていく。


「レイ、やめるんだ。それは明確な精神的汚染行為メディカル・エラーだ。これ以上スコアを下げてどうする。非論理的だ」


 タクトは溜息すらつかず、滑らかな手つきでスマートフォンの入ったバッグを肩にかけた。その、機械のプログラムのような態度が、レイの胸の奥で暴れる怒りと嫉妬の炎に、容赦なくガソリンを注ぐ。


「うるさい! 汚染なんて、スコアなんて今はどうでもいい!! 私は、貴方が好きなのよ! なのに……なんでそんなに平気な顔ができるのよ!!」


 レイが理性を失い、タクトに掴みかかろうと手を伸ばした、その瞬間だった。


 ジジジジジッ! と鼓膜を刺すような高周波の駆動音が響き、カフェの自動ドアが乱暴にこじ開けられた。突入してきたのは、光沢のある黒いボディをした複数台の治安維持ドローンだ。無機質なレンズ群が、一斉にレイをロックオンする。


『警告。市民コード:ハイスクール0512、レイ。メンタル・スコアが安全基準値を完全下回りました』

『最終判定――汚染レベル:重度。周囲の市民への精神的汚染拡大を防ぐため、即座に第一種隔離措置に移行します』


「嫌……っ! やめて!!」


 ドローンの下部から放たれた、青白い火花を散らす電磁収縮ネットが、レイの華奢な身体を容赦なく縛り上げる。微弱な電流が筋肉を硬直させ、レイは床へ無様に引き倒された。

 つい数分前まで「誰もが認める優等生」だったはずの姿が、床の埃で無惨に汚れていく。髪を振り乱し、涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら、レイはただ惨めに叫び続けることしかできなかった。


 カフェのガラス窓の向こうには、いつの間にか人だかりができていた。通りすがりの大人たち、そして同じ学校のバッジをつけた生徒たち。彼らは一様に、まるで道端に転がる不潔な害虫や、未知のウイルスを見るかのような、徹底的に冷ややかな目でレイを見下ろしている。


 タクトは、ただの一度も振り返ることはなかった。

 彼はドローンに道を譲り、スマートな足取りで人だかりの向こうへと消えていく。すれ違いざまに見えた彼の端末の画面――そこに表示されたタクトのMSは、おそらく一点の曇りもない「青」のままだった。



 電磁ネットに拘束されたまま、レイは防音仕様の特殊搬送車――窓の一切ない、鉄の箱のような車内へと押し込まれた。

 バタン、と重厚なハッチが閉まると、外の世界の音は完全に遮断され、不気味なほどの静寂がレイを包む。


「お父さん……お母さん……先生……助けて……」


 声にならぬ声を漏らしながら、レイは身を震わせた。

 あのお行儀の良い、誰もが感情を殺して微笑み合う日常には、もう二度と戻れない。

 模範市民として生きてきたレイは、この美しい世界から、たった一度の「感情の表出」によって完全に放逐されたのだ。


 搬送車が走り出し、速度を上げていく。

 車内の小さな監視用窓から、遠ざかっていく美しい都市の輪郭が見えた。そしてその遥か先、街の外周を囲むようにそびえ立つ、巨大で冷徹な灰色の建造物が迫ってくる。


 通称「監獄」――。

 感情を奪われた者たちが集う場所、矯正施設「パシフィカ」の不気味なシルエットが、夕闇の中にそびえ立っていた。

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