第1章・第2章
第1章:放課後の教室にいる君
放課後の教室は、嫌いじゃない。
誰もいなくなった教室。
机と椅子が整然と並び、夕日が差し込む静かな空間。
でも――
その日だけは、違った。
「……誰か、いる?」
俺――**藤宮 湊**は、思わず声を出した。
教室の一番奥。窓際の席に、誰かが座っていた。
長い黒髪が、夕日に透けて光っている。
白い肌。細い指。
制服姿の、見覚えのない女子。
「……あの」
声をかけると、彼女はゆっくりと振り向いた。
「……見えるんだ」
「え?」
第一声が、それだった。
少し驚いたような顔。
でもすぐに、どこか寂しそうに笑う。
「誰も、気づいてくれなかったから」
「いや、普通に見えてるけど……」
そう言うと、彼女はじっと俺を見つめてきた。
まるで、信じられないものを見るみたいに。
「……名前は?」
「藤宮。藤宮 湊」
「そっか」
小さくうなずいてから、彼女は言った。
「私は――柊 由奈」
その名前を聞いた瞬間、なぜか胸がざわついた。
初めて聞くはずなのに、どこか引っかかる。
「同じ学校の人、だよな?」
「……うん。たぶん」
「たぶんって何だよ」
思わず笑うと、彼女も少しだけ笑った。
でも、その笑顔はどこか儚くて――
今にも消えてしまいそうだった。
それが、俺と由奈の出会いだった。
次の日も、そのまた次の日も。
放課後になると、彼女は必ずそこにいた。
「また来たんだ」
「お前がいるからな」
「……変なの」
そう言いながらも、少し嬉しそうにする。
最初はただの気まぐれだった。
でも――
気づけば、俺は毎日、放課後を待つようになっていた。
「由奈ってさ、授業出てないよな?」
ある日、ふと思って聞いてみた。
昼間、一度も見たことがない。
「出れないの」
「え?」
「……放課後しか、いられないみたい」
「どういうことだよ、それ」
彼女は少し困ったように笑う。
「私にも、よく分からないの」
曖昧な答え。
でも、それ以上聞けなかった。
聞いてはいけない気がしたから。
それでも、俺たちは話し続けた。
好きな食べ物。
好きな音楽。
どうでもいい話。
たまに、沈黙になることもあった。
でも、それすら心地よかった。
「湊ってさ」
「ん?」
「優しいよね」
「急に何だよ」
「だって、私と話してくれるし」
「それは……」
言葉に詰まる。
理由なんて、分からなかった。
ただ――
「楽しいから、かな」
そう言うと、由奈は目を細めた。
「……そっか」
その表情は、少しだけ切なかった。
ある日。
俺は、クラスメイトに聞いてみた。
「なあ、“柊 由奈”って知ってるか?」
「誰それ?」
「うちの学校のやつだと思うんだけど」
「いや、聞いたことないな」
他のやつにも聞いた。
先生にも聞いた。
でも――
「そんな生徒はいない」
全員が、同じことを言った。
おかしい。
あんなにはっきり存在してるのに。
話もできるのに。
触れることだって――
「なあ、由奈」
その日の放課後。
俺は、思い切って聞いた。
「お前、本当にこの学校の生徒なんだよな?」
沈黙。
夕日が、教室を赤く染める。
由奈は、少しだけ俯いた。
「……分からない」
「は?」
「本当に、分からないの」
震える声だった。
「気づいたら、ここにいて」
「……記憶は?」
「ほとんど、ない」
心臓が、強く鳴った。
「ただ――」
由奈は、ゆっくりと顔を上げた。
「“誰かを待ってた”気がするの」
その言葉が、妙に引っかかった。
「誰かって?」
「……分からない」
でも、その瞳はまっすぐ俺を見ていた。
まるで――
最初から、俺を知っていたみたいに。
その日、帰る直前。
「湊」
「ん?」
「もし、私がいなくなったら」
「は?」
「その時は――忘れてね」
「何言ってんだよ」
思わず強く言ってしまう。
「いなくなるとか、意味わかんねーし」
「……そっか」
由奈は、小さく笑った。
でもその笑顔は――
どこか、覚悟しているみたいだった。
その時、俺はまだ知らなかった。
この出会いが――
“終わりに向かう恋”の始まりだってことを。
第2章:誰も知らない名前
違和感は、ゆっくりと広がっていった。
「また来たんだ」
いつもの放課後。
いつもの教室。
いつもの席に、由奈はいた。
「当たり前だろ」
そう返しながら、俺はカバンを机に置く。
でも――
今日は、少しだけ様子が違った。
「……どうした?」
「え?」
「なんか、元気なくないか」
由奈は一瞬だけ目を伏せて、それから無理やり笑った。
「そんなことないよ」
嘘だ。
分かる。昨日より、明らかに顔色が悪い。
……いや、“悪い”っていうより――
少し、透けているような気がした。
「なあ」
俺は思い切って聞いた。
「お前、触れるよな?」
「うん?」
「手、出して」
由奈は不思議そうにしながらも、そっと手を差し出した。
白くて、細い指。
俺はその手を――掴んだ。
……温かい。
ちゃんと、人の体温がある。
「ほら、普通だろ」
そう言うと、由奈は少し安心したように笑った。
「うん……よかった」
でも。
その瞬間、ふと気づいた。
――教室のドアの前に、誰かが立っていた。
「藤宮ー、まだ残ってたのか」
クラスメイトの佐々木だった。
「もう帰るぞー」
「ああ、今行く」
そう返してから、俺は振り返る。
「じゃあ、また明日な」
「うん。またね」
手を振る由奈。
いつもと同じ光景。
……のはずだった。
「……なあ」
廊下を歩きながら、佐々木が言った。
「さっき、誰と話してたんだ?」
足が止まる。
「は?」
「いや、なんか一人で喋ってたじゃん」
「いや、いたろ。あそこに」
「誰もいなかったぞ?」
心臓が、一瞬止まったみたいだった。
「……嘘だろ」
「いやマジで。ちょっと怖かったんだけど」
冗談じゃない様子だった。
本気で言ってる。
次の日。
俺は確かめるために、あることをした。
「なあ先生」
放課後、職員室に行く。
「柊 由奈って、生徒……本当にいないんですか?」
担任は少し考えてから、首を振った。
「聞いたことがないな」
「……過去にも?」
「うーん……少なくとも、ここ数年にはいない」
“ここ数年”。
その言葉が、妙に引っかかった。
帰り道。
俺は図書室に寄った。
古い卒業アルバムや新聞記事が保管されている場所。
もしかしたら――と思った。
ページをめくる。
去年、一昨年、その前。
名前を探す。
“柊 由奈”
でも、どこにもない。
「……なんでだよ」
小さく呟いた、その時。
ふと、一冊の古いアルバムが目に入った。
他よりも、少しだけ色あせている。
――今から、三年前。
何気なく開いた、そのページ。
クラス写真。
整列した生徒たち。
その中に――
「……いた」
いた。
間違いなく。
あの窓際の席に座っていた、あの子。
柊 由奈が、そこに写っていた。
でも。
次の瞬間、背筋が凍る。
彼女の顔の部分だけが――
黒く塗りつぶされていた。
「……なんだよ、これ」
意図的に消されたみたいに。
他は全部普通なのに、そこだけ不自然に塗りつぶされている。
さらに、その写真の下。
クラス名簿。
そこに、確かに書かれていた。
“柊 由奈”
でも。
その名前にも、同じように黒い線が引かれていた。
まるで――
“存在を消された”みたいに。
その瞬間。
後ろから、声がした。
「それ、見つけちゃったんだ」
振り返る。
そこにいたのは――
図書委員の女子だった。
「それね」
彼女は静かに言った。
「三年前に起きた事故のやつだよ」
「……事故?」
「うん」
一拍おいてから、続ける。
「この学校で、女子生徒が一人――亡くなったの」
頭が真っ白になる。
「確か、名前は――」
その言葉を聞く前から、分かっていた。
「柊 由奈」
心臓が、強く脈打つ。
「放課後、教室で一人でいて」
「……」
「そのまま、帰らなかったんだって」
息が、うまくできない。
「見つかったのは、次の日の朝」
それ以上、聞きたくなかった。
でも、耳が勝手に拾ってしまう。
「原因は――よく分かってないらしいけど」
彼女は少し声を潜めた。
「“自分で命を絶った”って話もある」
世界の音が、遠くなる。
由奈が――
死んでいる?
じゃあ、今俺が話しているあいつは――
「……嘘だろ」
その日の放課後。
俺は、いつもの教室に向かった。
ドアを開ける。
そこには――
「……湊」
いつも通り、笑う由奈がいた。
でも。
もう、前と同じようには見えなかった。
“生きている人間”には、見えなかった。
「どうしたの?」
不思議そうに首を傾げる。
俺は、震える声で言った。
「……お前、本当は」
一歩、近づく。
「……もう、死んでるのか?」
その瞬間。
由奈の表情が――止まった。




