6笑
「……き、貴様は……まさか!」
それまで勢いづいていた隊長クマが、裏返った声を上げた。 サングラスの奥のつぶらな瞳が、恐怖で見開かれている。
「知っているのかクマ吉!?」
「間違いない……。かつて素手でヒグマを投げ飛ばし、北海道の鮭漁権を独占した伝説のフィクサー……『熊殺しの剛三』だクマッ!!」
(熊殺し!? この親父さん、経済界の重鎮じゃなくて武闘家なのかよ!)
西園寺剛三は、恐怖するクマたちを一瞥もしなかった。 彼の燃えるような視線は、まだアリスと密着状態で床に転がっている俺だけに注がれている。
「害虫が……。私の天使に触れるとは、いい度胸だ」
「ち、違いますお父様! これは事故で!」
俺が弁明しようとした瞬間、剛三の手が動いた。
「五月蝿い」
デコピン。 いや、動作としてはデコピンだった。 だが、その指先から放たれたのは、スイス土産の『高級ミルクチョコレート(一口サイズ)』だった。
ヒュンッ!!
風切り音と共に射出されたチョコは、俺の頬をかすめ――背後にいた隊長クマの額に直撃した。
バチィィィンッ!!
「ぐべらっ!?」
隊長クマが、まるでトラックに撥ねられたかのように後方へ吹き飛び、壁にめり込んだ。
「「「「隊長ォォォォォッ!!」」」」
(チョコで!? あの人、チョコで熊(着ぐるみ)を撃墜したぞ!?)
「甘いな」
剛三はフンと鼻を鳴らした。
「スイスのチョコは密度が高い。音速で投げれば岩をも砕く」
(物理法則を無視するな!)
剛三は再び袋に手を突っ込み、残弾を補充した。
「さあ、私の屋敷を土足で荒らす獣たちよ。……『おやつタイム』だ」
その言葉は、死刑宣告に等しかった。
「ひ、ひぃぃぃっ! 逃げろクマァ! 糖尿病になる前に撤退だァァァ!」
「覚えてろよ西園寺家! 次は鮭缶にしてやるクマァ!」
クマの軍団は、我先にと窓から飛び出し、蜘蛛の子を散らすように逃走していった。 後に残されたのは、半壊した屋敷と、壁にめり込んだ隊長クマ(気絶中)と、チョコの甘い香りだけだった。
◇
静寂が戻ったホール。 だが、俺にとってはここからが本番だった。
「さて……」
剛三がゆっくりと振り返る。 その背後には、不動明王のようなオーラが見える気がした。
「アリス。その男は誰だ? まさか、恋人ではあるまいな?」
「ち、違いますわお父様!」
アリスが慌てて俺から離れ、ドレスの裾を払う。
「彼は……その、私の『新しいおもちゃ』ですわ!」
(言い方ァ!!)
「おもちゃ……?」
剛三の眉がピクリと動く。
「ええ! とっても頑丈で、いくら粗末に扱っても壊れないんですの! ね、カケル?」
「否定したいけど事実だから困る!」
俺は涙目で立ち上がり、剛三に向かって最敬礼(直立不動)をした。
「は、初めまして! アリスお嬢様に拾われた、助手の赤城カケルです! 決して怪しい者ではありません! ただの借金まみれの大学生です!」
「借金まみれ……。つまり金目当てか」
「うっ」
剛三の眼光が鋭くなる。
「まあよい。アリスが選んだ『道具』ならば、私が口を出すことではない。……だが」
剛三は懐中時計を取り出し、時刻を確認した。
「予定より早く戻ったのは、虫の知らせがあったからだ。……アリス、私の『鮭』は無事だろうな?」
ギクリ。 その場の全員(俺、アリス、そして柱の陰に隠れていた使用人たち)の体が硬直した。
「も、ももも、もちろん無事ですわお父様! あの子なら、金庫室で元気に泳いで……いえ、輝いていますわ!」
アリスの声が裏返っている。 泳いでどうする。置物だろ。
「そうか。ならば一目見て、旅の疲れを癒やすとしよう」
剛三はスタスタと金庫室の方へ歩き出した。
「お、お待ちください! 今、部屋が散らかっていて!」
「金庫室が散らかるわけがなかろう」
「わ、ワックスがけの最中でして! 床がツルツルで危ないのです!」
「私はスパイクシューズを履いているから問題ない」
(なんで家の中でスパイク履いてるんだよ!)
止まらない。 この親父、ブルドーザーのように進んでいく。
「やばいぞアリス! バレる!」
「ど、どうしましょうカケル! お父様が空っぽのケースを見たら、ショックで心臓が……いえ、怒りで屋敷が消し飛びますわ!」
「俺が消し飛ぶんだよ!」
俺たちは必死に剛三の後を追った。 だが、時すでに遅し。
剛三は慣れた手付きで生体認証をパスし、重厚な扉を開け放った。
「おお、愛しのサーモンよ。パパが帰ったぞ……」
剛三が満面の笑みで入室する。 そして。
「…………ん?」
時が止まった。
剛三の視線の先。 ガラスケースの中には、相変わらず『半額シール付きの切り身』と『バナナの皮』が鎮座していた。
「…………」
剛三が無言で近づく。 震える手で、ガラスケースに触れる。
「アリス……?」
地獄の底から響くような声。
「は、はいっ!」
「私の黄金の鮭が、なぜ『スーパー激安王』の切り身(98円)に進化したのかね?」
「そ、それは……! えっと……脱皮? そうです、脱皮ですわ!」
「鮭は甲殻類ではない!!」
ドォォォォォン!!
剛三が拳を壁に叩きつけると、屋敷全体が震度4くらい揺れた。
「盗まれた……。私の、西園寺家の象徴が……」
剛三はその場に崩れ落ちるかと思いきや、ギリギリと歯を食いしばり、俺の方を睨んだ。
「貴様か」
「へ?」
「貴様が手引きしたのか!? この金目当ての借金男がァァァ!」
「ち、違います! 俺が来た時にはもう無かったんです!」
「問答無用! セバスチャン! この男を東京湾に沈めろ! コンクリートで固めて魚礁にしてやる!」
「御意」
「御意じゃねえよ! 止めてくれよ!」
セバスチャンが容赦なく俺の腕を捻り上げる。 痛い痛い!
「お、お待ちくださいお父様!」
アリスが俺と剛三の間に割って入った。
「カケルは犯人ではありません! 彼には私が、犯人探しの依頼をしているのです!」
「依頼だと?」
「ええ! それに……その鮭には、例の『マイクロチップ』が入っていたのでしょう? 警察に届けたら、そのことも明るみに出てしまいますわ!」
アリスの言葉に、剛三の動きがピタリと止まった。
「……ほう。お前、知っていたのか」
「なんとなく、ですけれど」
剛三は深くため息をつき、セバスチャンに目配せをした。 俺の腕が解放される。
「……いいだろう。警察には言えん事情があるのは事実だ」
剛三は俺の胸ぐらを掴み、顔を近づけた。 チョコの甘い匂いと、猛獣の殺気が混ざり合っている。
「いいか、小僧。チャンスをやろう」
「チャ、チャンス……?」
「明日の夜。西園寺家主催の晩餐会がある。そこには政財界のVIPが集まる」
剛三は血走った目で言った。
「その席で、私は『黄金の鮭』をお披露目せねばならん。もしそれができなければ、私のメンツは丸潰れ……西園寺家は終わりだ」
「つまり……?」
「明日の夜19時までに鮭を取り戻せ。さもなくば――」
剛三はニッコリと、アリスそっくりの(しかし百倍怖い)笑顔で告げた。
「貴様の実家を買い取って、『ワニ園』にしてやる」
「ニワトリを食べさせないでぇぇぇっ!!」
「行け! 一刻の猶予もないぞ!」
剛三の一喝と共に、俺とアリスは金庫室から弾き出された。
廊下に出た俺たちは、顔を見合わせ、同時に叫んだ。
「「詰んだァァァァッ!!」」
タイムリミットは、明日の正午からさらに短縮され、「明日の19時」……ってあれ? 少し伸びた?
「カケル! 伸びましたわ! あと24時間あります!」
「ポジティブか! でもハードルは上がってるんだよ!」
こうして、最強の父親という爆弾を抱えながら、俺たちの本格的な捜査がようやく再開されることになった。 まずはあの、逃げ遅れた気絶クマを締め上げるしかない。




