16笑
「食らえ! ニュートンもびっくりの『万有引力・スリップ・トラップ』!」
「甘いな坊ちゃん。俺にとって地面は友達だ」
ステージ上で繰り広げられるのは、人類史上最もレベルの高い「不毛な戦い」だった。
兄・サーモンが、目にも止まらぬ速さでバナナの皮を床に設置する。 それは計算され尽くした角度。踏めば確実に転倒し、後頭部を強打する悪魔の罠だ。
だが、庭師の土門は止まらない。 彼は走りながらスコップを振るう。
ザシュッ! ザシュッ!
「なっ!?」
サーモンが驚愕する。 土門はバナナの皮が設置された瞬間に、床(大理石)ごとスコップですくい上げ、即座に裏返して埋めたのだ。
「『超高速・天地返し』……。どんな罠も、埋めてしまえば肥料になる」
「物理で解決するなよ! ここステージの上だよ!?」
俺は叫びながら、その隙を突いてステージ袖の配管室へと走った。 サーモンが土門に気を取られている今がチャンスだ。
「カケル! 急いで! ウイルス濃度が上がってきていますわ!」
アリスがドレスの裾を翻して並走する。 周囲では、鮭ゾンビと化したVIPたちが「サケェ……サケェ……」と呻きながら徘徊している。
「くそっ、邪魔だ! どけ社長! どけ会長!」
俺はゾンビをタックルで弾き飛ばす。 幸い、彼らの動きは鈍い。まるで川底を這う鮭のように。
「待ってくださいカケル」
アリスが足を止めた。 彼女の視線の先には、ステージ上で対峙するサーモンと土門がいる。
「……変ですわ」
「何がだよ!」
「兄様の手元を見て。コンソールのボタンに指をかけていますが……押していません」
「土門に邪魔されてるからだろ?」
「いいえ。兄様なら、バナナの皮を投げるふりをして、その隙にボタンを押すことくらい造作もないはず。……まるで、時間を稼いでいるようですわ」
「時間稼ぎ……?」
俺はサーモンの顔を見た。 彼は不敵な笑みを浮かべているが、その額には大量の脂汗が浮かんでいた。 そして、チラリとこちらを見た気がした。
(まさか……俺たちを待ってるのか?)
『残り、30秒。ウイルス濃度、最大展開まで……』
無機質なアナウンスが響く。
「カケル! 配管室へ! スプリンクラーの元栓を閉めるのです!」
「わかった! 兄貴の狙いが何であれ、止めることは変わらねぇ!」
俺たちは配管室のドアを蹴破った。
◇
中は蒸気で満たされていた。 無数のパイプが張り巡らされ、中央に巨大な赤いバルブがある。 あれだ!
「くっ、固い!」
俺はバルブに飛びつき、全力で回そうとした。 だが、錆びついているのか、ビクともしない。
「錆びてるんじゃない……圧力がかかりすぎているんだ!」
「退きなさいカケル! テコの原理ですわ!」
アリスが近くにあった鉄パイプを拾い上げ、バルブの隙間に差し込んだ。
「せーのっ!」
「うおおおおッ! 借金返済ィィィッ!!」
ギギギギギ……!
鉄パイプが悲鳴を上げ、俺の上腕二頭筋が破裂しそうになる。
『残り、10秒』
「回れェェェッ! 俺の人生みたいに空回りするなァァァッ!」
「例えが悲しいですわよカケル!!」
ドガァァァァンッ!!
爆発音と共に、バルブが回った。 いや、ねじ切れた。
シューーーーッ……。
配管内の圧力が抜け、スプリンクラーへの供給が停止する音が響く。 同時に、会場内のピンク色の霧が晴れていく。
『エラー。ウイルス散布、停止。システムダウン』
「はぁ……はぁ……やった……」
俺はその場にへたり込んだ。 全身汗だくだ。タキシードもボロボロだ。
「カケル、戻りましょう! 兄様を問い詰めますわよ!」
◇
ステージに戻ると、そこには奇妙な光景があった。 土門にスコップを突きつけられ、両手を挙げているサーモン。 だが、その表情は晴れやかだった。
「チェックメイトだね、坊ちゃん」
「まいったな。さすが土門、そのスコップ捌きは衰えてないね」
「兄様!」
アリスが駆け寄る。
「説明していただきますわよ。今の攻防……本気ではありませんでしたわね?」
サーモンはアリスを見ると、ふっと笑って肩の力を抜いた。
「気づいてたかい? やっぱりアリスには敵わないな」
「どういうことだ?」
俺が追及すると、サーモンは懐からスマホを取り出した。
「僕はこのコンソールを乗っ取って、ウイルスを撒こうとしていたんじゃない。……ハッキングを受けて暴走しかけたシステムを、ギリギリで食い止めていたんだよ」
「食い止めていた……?」
「そう。僕が来た時、すでにシステムは何者かにジャックされていた。『全人類鮭化計画』のフェーズ2が強制起動していたんだ」
サーモンはスマホの画面を見せた。 そこには、複雑なプログラムコードと、必死に『CANCEL』コマンドを連打しているログが残っていた。
「僕がボタンを押そうとしていたのは、君たちを焦らせて、物理的に元栓を閉めさせるためさ。僕一人の権限じゃ、システムロックを解除できなかったからね」
「な……」
俺は絶句した。 こいつ、悪役を演じて俺たちを動かしていたのか?
「だったら最初からそう言えよ!」
「言っても信じないだろ? それに、カメラ越しに『黒幕』が見ている可能性があったからね」
サーモンは天井の監視カメラを見上げた。
「敵を欺くにはまず味方から。……おかげで、黒幕の尻尾を掴めたよ」
「黒幕……?」
その時だった。 会場の大型スクリーンに映っていた『鮭マスクの男』の映像が乱れ始めた。
『ザザッ……計画……失敗……ザザッ……』
「あれは録画じゃない。リアルタイムの通信だ」
サーモンが鋭い目でスクリーンを指差す。
「僕がシステムに侵入した際、逆探知プログラムを仕込んでおいた。……さあ、正体を現しなさい! 鮭を冒涜する愚か者よ!」
サーモンがスマホを操作し、エンターキーを叩く。
パッ!
スクリーンのノイズが晴れ、鮭マスクのエフェクトが解除される。 そこに映し出された素顔。 それを見た瞬間、会場の空気が凍りついた。
「……え?」
アリスが息を呑む。 剛三お父様(ゾンビ無双を終えて戻ってきた)が目を見開く。
スクリーンに映っていたのは、色白で、線の細い、眼鏡をかけた青年。 どこにでもいそうな、気弱そうな男だった。
だが、俺はその顔に見覚えがあった。
「あいつ……」
俺は記憶をまさぐった。 借金取りに追われていたあの日。 アリスに拾われる前。 俺の実家の養鶏場に、「飼料の営業」に来ていた男だ。
「……誰ですの?」
アリスが震える声で聞く。
「知らねぇのか!? あいつは……俺の実家に出入りしてた営業マンの『細井』だ!」
「営業マン!?」
「なんでただの営業マンが、西園寺家のシステムを乗っ取れるんだよ!」
スクリーンの中の男、細井は、バレたことに気づくと、ニヤリと口角を吊り上げた。 その笑顔は、気弱な営業マンのものではなく、純粋な悪意に満ちていた。
『……チッ。バレちゃいましたか』
細井が眼鏡の位置を直す。
『まあいいでしょう。データはあらかた回収しましたし、実験データも取れました。……西園寺サーモン、まさか貴方が帰ってくるとは計算外でしたがね』
「貴様、何者だ!」
剛三が吠える。
『私はただの産業スパイですよ。……ある組織から、「鮭」と「鶏」のDNAを融合させた最強の生物兵器を作れと依頼されましてね』
「鮭と……鶏……?」
俺の背筋に悪寒が走った。 実家の養鶏場。 父さんの失敗した1万羽のニワトリ。 そして、この鮭ゾンビウイルス。
まさか、俺の実家も実験場だったのか!?
『今回は引き上げます。ですが、楽しみにしていてください。……次は「空飛ぶ鮭」をお見せしますから』
ブツン。 通信が切れた。
静寂が戻る。 ウイルス霧が晴れたことで、鮭ゾンビ化していたVIPたちも、糸が切れたように倒れ込み、イビキをかき始めた。
「……終わった……のか?」
俺はその場に座り込んだ。 とんでもないことになった。 ただの借金返済のつもりが、実家を巻き込んだバイオテロ計画の片棒を担がされていたなんて。
「カケル」
アリスが俺の肩に手を置いた。 彼女の顔は真剣そのものだった。
「どうやら、これは西園寺家だけの問題ではないようですわね」
「ああ……。俺の実家も絡んでるとなれば、逃げるわけにはいかねぇ」
俺は立ち上がり、拳を握りしめた。
「借金2億? 上等だ! 世界を救って、その報酬でチャラにしてやるよ!」
「ふふ。その意気ですわ」
アリスは扇子を開き、ニッコリと微笑んだ。 その横で、サーモンがバナナをかじりながら言った。
「じゃあ、まずはこの会場の修理費と、VIPへの慰謝料を計算しようか。……ざっと50億くらいかな?」
「増えてんじゃねーかァァァッ!!」
俺の絶叫が、半壊した晩餐会場に響き渡った。 第1章、完。 そして、物語は新たなステージへ――。




