『咆哮の谷ー二鹿の残響ー』
人里離れた山裾に建つ、佐藤の自宅。その広い土間で、愛犬のバロンが朝の食事を摂っていた。ボウルの中には、丁寧にカットされた牛のスネ肉。バロンは犬特有の鋭い裂肉歯で赤身を断ち切り、無心に喰らっていく。咀嚼ではなく、肉を噛み裂き、嚥下する生々しい音だけが、コンクリートの壁に反響していた。
佐藤はその傍ら、作業用の低い椅子に腰を下ろし、昨夜の仕事で汚れた鎌鉈を研ぎ上げていた。独特の湾曲を持つ鎌鉈の刃を研ぐには、固定した砥石に当てるよりも、手に持った砥石を刃に沿わせる方が理に適っている。佐藤は手砥ぎ用の小振りな砥石を握り、滑らせるように刃を整えていた。指先の腹で刃の掛かりを確かめる。微かな「返り」すら見逃さないその所作は、今の彼にとって欠かせない日常の証だった。
午前七時。作業台の脇で、スマホが震えた。神祇省の担当者の名が表示される。佐藤は手に持った砥石を置き、タオルで手を拭うと電話に出た。
「はい、佐藤です」
『佐藤さん、早朝から恐縮です。緊急の案件が入りました。今朝未明、峠道で車両襲撃事件が発生。……状況から、乙級怪異『二鹿』だと思われます』
「二鹿ですか、被害は」
『民間人が一名死亡です。警察と我々の初動班が現場付近で包囲を試みたのですが、奴は包囲を抜け、深い山林へと逃亡しました。完全に見失っています』
佐藤は窓の外、すっかり明るくなった空を見据えた。
『この地区で、逃げた怪異を臭いから追跡できる犬と、あの巨体を確実に止められる銃の両方を扱えるのは佐藤さんだけなんです。出動をお願いできませんか』
「わかりました。すぐに向かいます」
電話を切った佐藤は、書斎へ向かい、古い資料を広げた。二鹿――その伝承は平安時代、比叡山に現れた凶暴な悪鹿に遡る。西へ西へと逃れ、周防の地で討たれたというその異形は、二つの頭を持つ双頭の巨鹿だ。通常の鹿の数倍はある巨体、岩石のように硬質化した外皮、そして前後どちらへも瞬時に加速できる予測不能な機動力を持ち、古くから自然の荒ぶる力の象徴として恐れられてきた。現代に現れたそれは、伝承以上の凶暴性を帯びている。
佐藤は寝室の奥に据えられた鋼鉄製のガンロッカーを開き、愛銃ウェザビー・マークⅤライフルを取り出した。弾丸は.460ウェザビーマグナム。象をも沈めるその圧倒的なエネルギーは、二鹿の硬質な外皮を物理的に粉砕するための必須装備だ。
続いて、ロッカーの下段に据えられた木製の重厚な箱を開く。これには厳重な結界が施されている。外部からの不浄な気の侵入を防ぎ、同時に弾丸が宿す「神別」による神聖な力が外に逃げないようにするためだ。
中には、佐藤自身が精密にリロードし、地域の神社で神別――つまり霊的な清めと加護を授かった特注弾が並んでいる。神別の弾丸は、怪異の持つ霊的な守りを中和し、物理破壊を可能にする。佐藤はそれを、結界機能を備えた専用の弾薬ポーチへと慎重に移した。
愛車のピックアップトラックの荷台には、研ぎたての鎌鉈、藪漕ぎ用のマチェット、バックパック、そして頑丈な木の杖を積み込む。バックパックの中には、止め刺し用のフクロナガサも確実に収めた。バロンにはケブラー製の防刃ベストとGPSのついた首輪を装着させ、助手席に乗せて現場へと急いだ。
午前八時。佐藤はまず、襲撃現場となった峠道に到着した。
規制線の内側では、ひっくり返った軽トラックの周囲で実況見分が行われている。佐藤は神祇省の役人と合流し、タブレットでドラレコ映像を確認した。横転し、動けなくなった運転席のドアから、二つの頭を持つ異形が無理やり人間を引き摺り出す凄惨な光景。二つの頭が交互に周囲を警戒しながら、跳ねるようにして消えていった。
「佐藤さん、これがあの時の映像です。人間を餌としか見ていない」
役人が青い顔で説明する。佐藤は黙って頷き、バロンをトラックのドア付近へと誘導した。バロンは車体に残された二鹿の独特な獣臭を深く嗅ぎ、その情報を脳に刻み込んだ。
「よし。バロン、待て」
それから佐藤は数キロ離れた、二鹿が包囲を突破したとされる山林の入り口までトラックを移動させた。そこには別の神祇省スタッフたちが詰め、状況を監視していた。
「佐藤さん、お待ちしていました。機動隊が追い込みましたが、重機のような勢いで藪を突き破って逃げられました。我々では足跡さえ追えません」
「了解しました」
佐藤はピックアップトラックの荷台で、入念に準備を始めた。登山靴の紐をきつく締め直し、ヘルメットの顎紐を固定する。バックパックからフクロナガサ、マチェット、鎌鉈を取り出し、腰のベルトへ左右のバランスを考えながら確実に配置した。
最後にウェザビーを手に取る。ポーチから神別の弾丸を取り出し、マガジンへ一発ずつ込めていく。カチリ、カチリと指先に伝わる金属の重み。ボルトを操作して初弾を薬室へ送り込んだ。
「バロン、探せ」
佐藤の合図で、バロンが山中の藪へと飛び込んだ。
佐藤は杖を突き、じりじりと上昇する鼓動を制御しながらその後を追う。山道には、通常の鹿よりも遥かに深く重い蹄の跡が残っていた。周囲のブナの太い枝が、不自然な方向に折られている。怪異がその巨体で藪を蹂躙しながら通過した軌跡だ。
獣道を進むと、地形は深く切り立った谷へと繋がっていた。佐藤は杖でバランスを取り、慎重に下る。下へ行くほど沢のせせらぎが大きくなる。バロンのGPSは、沢のどん詰まり――垂直に切り立つ一枚岩の壁が立ち塞がり、逃げ場のない行き止まりで停止していた。
やがて、谷底から空気を震わせるような重低音の咆哮が響き渡った。
二鹿を追い詰めたバロンが、魔除けの力を宿した咆哮を放ち、怪異をその場に押さえ込んでいる合図だ。神威を帯びたその声により、二鹿は動きを制限されている。佐藤は一歩一歩の足取りを確実にし、岩場を回り込んで射線が通る位置へと辿り着いた。
岩壁の前。二鹿がバロンの放つ魔除けの咆哮に釘付けにされていた。
佐藤は即座に近くの太い立木に肩を預け、ウェザビーのスコープを覗き込んだ。
一発目。
ライフルの衝撃波が谷の空気を叩き、衝撃で佐藤の肩が激しく揺れた。弾丸は二鹿の胴体中央を正確に撃ち抜いた。岩のような外皮が弾け飛び、鮮血と共に肉片が舞う。巨体が大きくよろめき、その自慢の跳躍力が物理的に破壊された。
二発目。
混乱しもがき狂う片方の頭部を射抜く。脳漿と砕けた角が四散し、二鹿は地面へ沈み込んだ。
三発目。
佐藤は冷徹に、心臓があると思われる部位を狙い定めた。神別の弾丸がその生命の核を内側から粉砕し、絶命に至らせる。
だが、佐藤は指を止めない。念のための四発目。数千円の弾丸代と己の命を秤にかける愚は犯さない。轟音と共に放たれた最後の一撃が、動かなくなった巨体の神経系を完全に絶ち切り、その肉塊をピクリとも動かぬ物へと変えた。
佐藤は即座にボルトを引き、熱を帯びた空薬莢を排出させると、ポーチから弾丸を取り出してマガジンへリロードした。銃を構えたまま数分間、バロンと共に様子を伺う。
銃を背負い、次に腰からフクロナガサを取り出した。それを手に持っていた杖の先端へ手慣れた手つきで装着し、槍とする。
佐藤は慎重に距離を詰め、二鹿の死角となる後方の足先を槍で突いた。反応はない。次に頭の端を突く。やはり微動だにしない。
そこで初めて、二鹿の死が確定した。
「……終わりだ」
佐藤は少し離れた場所に落ちている空薬莢を、拾い上げた。真鍮の薬莢は持ち帰り、自身でリロードした後に再び神社で神別を受ける。経費削減のためにも、この薬莢の回収は不可欠だ。
血を拭ったフクロナガサを腰に戻し、駆け寄ってきたバロンの首筋を短く撫でた。
「帰るぞ、バロン。……道具の掃除が待ってる」
昼前の、静かな山林。水の音だけが響く中で、佐藤は淡々と撤収の準備を始めた。
(完)




