第2章 異世界の水理学
目を開けると、そこは天井だった。 ただし、見慣れたジプトーン(化粧石膏ボード)の天井ではない。 煤けた梁と、隙間から空が見える腐った藁葺き屋根だ。
「……どこだ、ここ」
体を起こそうとして、きしむような痛みが走る。 だが、先ほどの心臓を掴まれるような痛みではない。単なる筋肉痛だ。 俺は自分の手を見た。 厚い皮膚、爪に入り込んだ黒い油汚れ、無数にある小さな切り傷。 見慣れた、汚いおっさんの手だ。 転生したからといって、美少年になっているわけでもないらしい。
「目が覚めたかね」
しわがれた声がして、振り向くと、杖をついた小柄な老人が立っていた。 麻袋のような粗末な服を着ている。 言葉は日本語ではないはずだが、なぜか意味が脳に直接響いてくる。
「ここは……?」 「辺境の村、テラだ。行き倒れていたお主を、村の者が運んだんじゃ」
村長と名乗る老人の話は、要領を得なかった。 要約すると、俺は森の中で倒れていたらしい。 服装は作業着のままで、腰道具(安全帯)も付けっ放しだったという。
「……すまない。助かった」 「礼には及ばん。だが、見ての通り貧しい村でな。もてなす水もないんじゃ」
水がない? 俺は職業柄、その言葉にピクリと反応した。
「井戸が枯れたのか?」 「いや、水はある。あるんじゃが……『呪い』で汲み上がらんのじゃ」
呪い。 ファンタジー特有の曖昧な言葉だ。 俺はのそりと立ち上がった。腰の道具袋がジャラリと鳴る。 重い。だが、この重さが俺に平穏をもたらす。 プライヤー、モンキーレンチ、カッターナイフ、スケール(巻き尺)、そして愛用のパイプレンチ。 全部ある。
「案内してくれ。その呪いとやらを」
* * *
村の中央にある広場には、石造りの古びた井戸があった。 村人たちが数人、不安そうに井戸を取り囲み、何やら祈祷のようなことをしている。
「魔王様の瘴気だ……」 「水の精霊がお怒りじゃ……」
そんな声が聞こえてくる。 俺は無言で人混みをかき分け、井戸のポンプを見た。 手押し式のガチャポンポンプだ。構造は古いが、鋳鉄製で頑丈そうだ。
「どいてな。ちょっと見るぞ」
俺はポンプのハンドルを握り、上下させてみた。 スカッ、スカッ。 手応えがない。軽い。
「無駄じゃよ、旅人さん。もう一週間もこの調子だ。祈祷師様を呼ばないと……」
「祈祷師?」
俺は鼻で笑った。 そして、腰からプライヤーを抜き出し、ポンプの根元にあるフランジ(継ぎ目)のボルトに当てた。
「祈りで水が出るなら、水道局はいらねえんだよ」
俺の目には、はっきりと見えていた。 ポンプの吸い込み管の接続部。パッキンが劣化してボロボロになり、そこから空気が入り込んでいるのが。 専門用語で言うところの「エア噛み」だ。 吸い込み側に隙間があれば、真空状態が作れず、いくらハンドルを漕いでも水は上がってこない。 これは呪いでも魔法でもない。 ただの物理現象だ。
「おい、誰かボロ布と、油か脂身を持ってないか?」 「は? あ、油なら調理用の獣脂があるが……」 「それでいい。持ってこい!」
俺の剣幕に押され、村人の一人が走っていった。 待っている間、俺はボルトを緩め、劣化したパッキンを取り除く。 ただの革クズのようになっている。 メンテナンス不足だ。前の世界もこの世界も、インフラを軽視するのは変わらないらしい。
持ってきた獣脂をボロ布にたっぷりと塗り込み、それをこより状にねじる。 即席のパッキン(ガスケット)だ。 これをフランジの隙間に噛ませ、ボルトを均等に締め込んでいく。 片締めにならないよう、対角線上に、少しずつトルクをかけていく。 手首に伝わる感触で、締め具合を判断する。 これ以上締めればねじ切れる、その手前で止める。
「……よし」
俺は立ち上がり、ポンプの呼び水口を開けた。 手近な桶に残っていた貴重な泥水を、呼び水として注ぎ込む。
「さあ、見とけ」
ハンドルを握る。 一回、二回。 まだ軽い。 三回、四回。 五回目。
ズシリ、と重みが掌に伝わった。 真空が形成され、地下の水脈を掴んだ感触だ。 俺は一気にハンドルを押し下げた。
ゴボッ! シュウウウ!
空気の抜ける音と共に、蛇口から透明な液体が噴き出した。 冷たく、清冽な地下水だ。
「み、水だあああ!!」 「呪いが解けた!?」 「すげえ! あの旅人、呪文も唱えずに呪いを祓ったぞ!」
村人たちが歓声を上げ、湧き出る水に群がる。 俺はその騒ぎを背に、泥で汚れた手を洗った。 冷たい水が心地よい。
「……エア噛みを直しただけだ。大袈裟な」
タオルで手を拭いていると、視界の端に奇妙なものが映った。 井戸の底から、淡い青色の光のラインが伸びている。 それはパイプの中を通り、空中に霧散していた。
(なんだ、あれは?)
目をこらすと、その光のラインは井戸だけでなく、地面の下、木々の間、至る所に血管のように張り巡らされていた。 まるで、三次元CADの配管図面を見ているようだ。
「……まさか、これが見えるのか?」
俺は無意識に、その光のラインに手を伸ばした。 指先が触れた瞬間、脳内に情報が流れ込んでくる。
【魔力管接続:良好】 【内圧:0.4MPa】 【流体:水属性魔力】 【異常:末端バルブ閉鎖】
頭の中に、青写真(図面)が展開される。 俺は呆然とつぶやいた。
「おいおい、冗談だろ……。この世界、魔法も『配管』で流れてんのかよ」
それが、俺の二度目の人生における、最初の現場検証だった。




