第1章 最終工期と泥の味
世界を救うのが「聖剣」か「パイプレンチ」かと問われたら、俺はコンマ一秒の遅れもなくレンチだと答える。 なぜなら、魔王の復活を憂うよりも先に、詰まって逆流した汚物が床を浸す絶望の方が、人間にとっては遥かに切実だからだ。 これは、英雄になんてなりたくもなかった俺が、たまたま腰に下げていた工具だけで世界を修理してしまうまでの、ひどく油臭い記録である。
* * *
冷たい雨が、首筋からカッパの中へと容赦なく入り込んでくる。 一月の関東平野に降り注ぐ雨は、液体というよりは無数の針に近い。 足元は田んぼのようにぬかるんでおり、安全靴が泥に吸い付いて、一歩踏み出すたびに重労働を強いてくる。
「おい、ゲンさん! A工区の配管、まだ終わらねえのかよ! 今日中に埋め戻しまでやらねえと、明日の検査に間に合わねえぞ!」
無線機から怒鳴り声が響く。元請けの若い現場監督だ。 大学を出たばかりで、現場の「ゲ」の字も知らないくせに、工程表という名の妄想を押し付けることに関しては天才的な才能を持っていた。
「……わかってるよ。今、水圧テストの準備中だ」
俺、源田鉄五郎は、雨水混じりの泥を吐き出すように答えた。 四十二歳、独身。職歴二十四年の配管工。 今の俺は、泥だらけの穴の中で、冷え切った鋼管(SGP)を抱きしめている。
「ったく、これだから下請けは……。あ、そうそう。追加の変更図面出たから。PSの位置、半間ずらしてね」 「はあ? 今からか? もうスリーブ入れちまったぞ」 「頼むよー。施主の意向だからさ。あと、今日の分のグリーンファイル(安全書類)、明日朝イチで事務所に持ってきて」
無線が切れる。 俺は泥まみれの手袋を見つめ、深いため息をついた。
変更、変更、また変更。 資材の納期は遅れ、職人は足りず、それでも工期だけは絶対厳守。 現場の皺寄せは全て、俺たちのような末端の職人に回ってくる。
「……やるしか、ねえか」
俺はパイプレンチを握り直した。 その時だった。 心臓を、万力で締め上げられたような激痛が襲ったのは。
「ぐ、っ……?」
視界が急速に狭まる。 雨音が遠のき、代わりに耳鳴りがキーンと響く。 ああ、これはマズい。体が悲鳴を上げている。 三日間、車の中で仮眠しか取っていない。カフェインと栄養ドリンクだけで誤魔化してきたツケが、一気に回ってきたのだ。
足の力が抜け、俺は泥水の中へと崩れ落ちた。 冷たいはずの泥が、妙に生温かく感じる。
(……あーあ。配管の勾配、ちゃんと取れてたかな) (……明日のコンクリ打設、誰が指示するんだよ) (……安全帯のフック、掛け忘れてねえよな)
薄れゆく意識の中で最後に思ったのは、家族のことでも、人生の後悔でもなく、現場の不備確認だった。 職業病にも程がある。 俺は自嘲しながら、暗闇の底へと沈んでいった。




