疑いと逆転
「まあ! エル・シー・リヴィアス様ではありませんこと?」
人だかりの中、どこかで聞いた声が室内に響き渡る。
以前社交場で騒ぎになった相手である、アシュティアであった。
「あ……アシュティア様……」
最も出会いたくなかった相手と、エルは再会してしまった。
彼女こそは原作のヒロイン、アシュティア・ツー・ローゼス。公爵家令嬢であり、悪役令嬢に徹底的にいじめられる悲劇の女である。
恐らくこれまでも、悪役令嬢だったエルが彼女をいじめたことはあったのだろう。自分がしたことではないけれど、罪悪感が生まれてくる。
「先日のこと、覚えていらっしゃいますわよね。どうしてあのような酷いことをなさったの?」
「え、えぁっと」
この時、元悪役令嬢は困惑していた。あの時、確かにアシュティアは倒れており、何かをしたことは間違いない。
しかし、いったい何をしでかしてしまったのか。肝心なそのことが分からないままであった。
調べたりそれとなく人に聞いてみたりしたが、答えは出ない。どうしてもその真実が不明なまま、今日を迎えていたのである。
周囲が二人の間に揉め事があったとみて、ざわつき始めていた。
「まあ! まさかお忘れ? わたくしを突き飛ばし、手にされていたぶどうジュースを、思いきりこの顔とドレスに振りかけたことですわ」
「へ……?」
そうだっただろうか、と少女は悩む。アシュティアが床に這うように倒れていたことは、疑いの余地がない。
だが、あの顔やドレスが汚れていたという記憶はなかった。そして、自らがぶどうジュースを手にしていたという記憶もない。
「あ、あの」
「ああ! 酷い、なんて恐ろしい人なの。わたくしの顔を、ドレスを嬉々として汚しておきながら、謝罪の一つもないというの」
慌てるエルをよそに、アシュティアの激情は見る間に高まっていく。そしてとうとう泣き出してしまった。
「そうだ! 私もその姿を目撃したぞ」
高らかな声と共に、二人の令嬢の前に現れた男は、確かに現場に居合わせた青年であった。
彼こそは原作の主人公でありアクラー侯爵家の次期当主。近い将来に聖剣を奮い邪を払う英雄、ゼフィール・フォン・アクラーである。
「この女は怒気荒くアシュティアに詰め寄り、あろうことか突き飛ばした末、流し込むようにぶどうジュースを顔にぶちまけたのだ。なんという非礼、なんという暴虐! 許しがたい行為について、謝罪も説明もないとは何事か!」
ゼフィールは聖剣に選ばれた英雄、という事実が広まっており、貴族達の間でも発言権が強まっていた。
周囲が一気に騒ぎ始め、エルはどうして良いか分からず混乱していた。
この騒ぎにリヴィアス家の面々も慌てて集合し、事を納めようと必死になるが、アシュティアがひたすら喚くので終息しない。
これにはクロードもどうして良いか分からなかった。だが、エルが混乱と苦しみの中にいることは、容易に想像できる。
まずは落ち着いてもらうことが重要だと思い、分不相応だが前に出た。
「皆様……まずは落ち着いてください。お嬢様は今、大変困惑されております。一度落ち着いて、席を外して」
しかし、ここでゼフィールが口を挟む。
「貴様! 何の権限があってそのような戯言を抜かすのだ。見たところ執事のようだが。家同士の言い合いに、身分違いが口を挟むな!」
エルの瞳には、クロードが歯を食いしばって堪えている姿が映っていた。
そして、自分のために敢えてこの場に出てきてくれたことに、申し訳なさが膨らむ。気がつけば彼女は、震える足を前に踏み出していた。
「すみません。執事は悪くありません。私がちゃんと話さないのが悪いんです。その、アシュティアさん!」
想像以上に大きな声が出てしまい、一瞬だがエルは慌てた。だが気にしている場合ではない。
アシュティアの瞳は怒りに燃えている。原作の聖人のような性格とはかけ離れた憎悪に違和感を覚えつつ、エルは真っ直ぐに彼女を見据えた。
「私が突き飛ばしてしまったことは、多分合っていると思います。と、と言いますのは……その。最近いろいろあって、記憶がなくなっていたりするんです。でも、突き飛ばしたことは、本当に謝ります。申し訳、ございません」
かつてない緊張に震えながら、エルは必死に言葉を続ける。
「はあ!?」
だが、アシュティアからは怒りの反論がすぐに行われる雰囲気が出ていた。
「ただ、その……ぶどうジュースのことは、何か誤解かもって思ってます。だって私、コップとか持ってませんでした」
「あなた! この後に及んで——」
怒りに震えながら詰め寄る公爵令嬢。ゼフィールもすぐ後に続こうとする。
しかしその時、人集りの中から声が聞こえた。
「そうだ! エル嬢は何も持っていなかったぞ。私はあの時、二人のいさかいを見ていたんだ」
あの騒ぎが起こった廊下には、沢山の野次馬が集まっていた。そのうちの一人が、エルを擁護しようと声を上げていた。
「私も見たわ。しかもアシュティア様のお顔は綺麗なままだったし、ぶどうジュースをかけられていたなんて信じられない」
「僕も見ましたよ。いやぁ、綺麗なお顔とドレスだなぁって見惚れていたから、間違いないかな。あんなドレスにぶどうなんてかかったら、すぐに分かると思うけど」
次々に支援の声が上がっていくことに、原作のヒロインである少女が驚き固まってしまう。
「く! ば、バカな。何を言っているのだ」
ゼフィールもまさかの事態に狼狽え、アシュティアとエルを交互に見ては何かを言いかけ、言葉を探し続けているようであった。
「おやおや、一体何を騒がれておるのかな」
そして、この騒ぎは大きくなりすぎた。いよいよ歓迎できぬ状態であると知った国王が、大公爵や後継ぎ候補を連れて直々に現れてしまった。
(ひいぃ!? 王様が来ちゃった!)
エルはいよいよガクブルとなり、側から見ても揺れすぎていて、立っていられるのが不思議なくらいであった。
「ああ、なんということでしょう! 国王様ほどのお方に、わざわざお聞きいただくことではございませんわ。わたくしったら、なんてはしたない女なの。今日は、今日はもう失礼いたしますわ」
そして涙を流しながら、駆け足でいなくなってしまう。
「アシュティア!? し、失礼します」
ゼフィールもまた、焦って走り去ってしまった。
「ふむ? 何があったかは分からぬが、やはり穏やかではないな」
お喋り好きな公爵などが、一部始終を説明してみせると、王は白い髭をいじりながら楽しげに笑っていた。
「やれやれ。ワシがやってきたら逃げ出すということは、何処か偽りがあったのかも知れぬな。ところで、エルとやら」
「ファ、ファイ!」
返事すらまともにできなくなっている令嬢を見て、国王は愉快に笑う。
「大変だったようじゃな。しかし、ワシの目にはお主は悪い女子には見えぬ。お会いしたのは初めてだと思うが、どちらの家かね?」
「リヴィアス家です……」
ガス欠寸前になりながらも、どうにかエルはもごもごと伝えることができた。若干遅れて、リヴィアス家の一同が王の前に並ぶ。
「ふむ。伯爵家のご令嬢か。いや、この場でしっかりと異を唱えるというのは、大したものだ。芯が強くなければできぬ。主は其方かね」
「はい。もったいないお言葉でございます」
いつになく緊張した父の声を聞き、エルは少しずつ安堵していった。
「ふむ。ではワシは、次の催しのために少し外すとしよう。これからもよろしくな」
「はっ!」
父が代表して頭を下げると、一家全員がそれに習った。
(エル嬢か……なんと素晴らしいご令嬢であろうか)
リヴィアス家は国主催のパーティーには幾度も参加していたが、目に留まることなど皆無であり、集団の一員としか数えられていなかった。
国王は去り際に、これまで気にしたことがなかったエルをもう一度目に映し、小さく嘆息していた。
(これは息子達も放っておかぬやも知れんな)
実は、今回のパーティーで名を挙げたのは、アシュティアでもゼフィールでもなくエルであった。
だが本人も含め、まだ誰もそのことに気づいていなかったのである。
2025年ももう終わり!
皆様、良いお年をmm




