無自覚な微笑み
クロードに励ましをもらった後、エルはなんとか両親達の元へ向かうことができた。
驚きと戸惑いに包まれながらも、一旦は記憶喪失になったという話で落ち着き、安静にしつつ学園入学の準備を進めることになった。
(貴族の世界って全然違う! オーラ凄すぎっ!)
自分としては淡々としているつもりではあったが、エルは出会う人々の雰囲気の違いに圧倒されていた。
でも戸惑ってばかりもいられない。学園に通う春までは、遠いようであっという間なはずだ。
一日が明けて、すぐに入学に向けての教育が行われることになった。
「なるほど。つまり朝になっても……思い出したものはなかったと言うことですね」
「は、はい。すみません」
クロードは一階の教室で、淡々と事実を確認していた。
「謝ることなどございません。お嬢様はただなんらかの被害に遭われただけかも知れないのです。原因が明確ではない以上、どなたもお嬢様を責めることはできませんし、私が許さないつもりです」
「は……はい」
エルはなんとなく、クロードに対して罪悪感が募った。
今になって、「本当は別人なんです」と伝えた方が良かったかもしれない、という後悔が浮かぶ。
(本当のエルさんは、どうなっちゃったのかな)
自分が体に入ったことで、本来の魂が何処に行ったのかも不明なままだ。
もしかしたら、消えてしまったのか。それとも、体の奥で眠っているのだろうか。だとしたら、いつかは自分が消えることになるのか。
(分かんない。何も分かんないけど、今はできることをしなきゃ)
昨日は絶望と悲しみに暮れていたが、若い魂は少しずつ世界に順応しようと動き始めていた。
「では、まずはこれまでお教えしたことを、改めて学んでいただきます。少々急ぐことになりますがご容赦ください」
「はい! 頑張ります。よろしくお願いします」
この時、想定した以上に大きな声が出てエルは慌てた。
前世でも、コンビニで物を買う時などによくあった失敗だ。執事はそんな教え子の姿に、思わず苦笑した。
「もう少し、気を楽にしていただいて結構です」
「は……はい」
そう言われたので、軽く深呼吸を始めてみる。クロードは微笑ましい気持ちで見つめていた。
「それともう一つ、私に敬語はお使いにならないで下さい。お嬢様は、私より高い身分におられるのですから」
「え、ええ! でも、ちょっと緊張しちゃうっていうか」
「時期に慣れます。それでは、授業を始めていくとしましょう。まずは読み書き計算、マナーとエチケットから確認して参ります」
こうして彼は七年前に遡るかのように、ごく基本的な授業を始めることにした。
まずこの世界の文字について。クロードとしては、何処まで覚えているか不安に感じているものではあった。
しかし、エルはこの点ではなんの問題もなかったのである。
(なんか不思議。初めて見るはずなのに、全部分かるし書けるんだけど)
体が覚えているのか、全く日本語とは異なる文字であるにも関わらず、読むことも書くこともすらすらとできた。
続いて簡単な数学の授業が待っていたが、これも彼女の脳は覚えていたらしい。自分じゃないみたいに、すらすらと答えが口から出る。
(頭の中はそのままってこと? エルって賢いんだ!)
徐々に不安が薄れてきたところで、休憩を挟んでマナーとエチケットの授業に移る。
ここでもエルは何かを思い出すが如く、すらすらとこなしていった。
宗教や道徳の授業はほぼ聞いているだけだったが、なぜか覚えのある内容ばかり。
クロードは順調に事が進んでいることに、人知れず安堵していた。
「ではお嬢様、午後のお時間は音楽教師の方に来ていただきます」
「え? 音楽……ですか」
「はい。歌唱やリュートにハープ、それから舞踊の授業になります」
「え、えええ」
大丈夫だろうか、と彼女は冷や汗を浮かべる。
(私元々音痴だったんだけど。でも、エルさんはできたみたいだし……大丈夫かな)
だが、ここまで思いの外順調に来ていたので、特に問題はなさそうと考えてもいた。
◇
「あ、あわわわ! きゃああ!」
「あらー。お嬢様、大丈夫ですか?」
大丈夫ではなかった。
午後になって、女性教師に踊りを習っていたが、エルはいつの間にかこけてしまう。
(なんでー? なんで踊りは前世のままなの)
知識面では問題なかったのだが、体を動かす授業になった途端にダメになった。
教師のダンスを真似しようとして、似ても似つかない動きになってしまう。
(こ、このままじゃ。ジルフィスさんに怒られちゃうかも)
チラリと凛々しい執事に視線を移してみる。すると、彼は淡々と見つめているのみだった。
(ひええ、怒ってるよね絶対。が、頑張らなきゃ!)
エルは執事が失望と怒りを感じているかもしれない、と思い必死になる。
だが、実はそうではなかった。彼はどういうわけか、彼女の動きに親しみを感じずにはいられなかったのである。
(お嬢様が、このような踊りをされるとは)
まるで小動物が忙しく動いているかのようで、むしろいじらしく感じていた。
(一生懸命に覚えようとされている。かつてのお嬢様とは大違いだ)
本来のエルは、どのような舞踊であれ優雅にこなす。歌も人並み以上で、竪琴を扱わせれば詩人も顔負けであった。
しかし、不思議とその姿に好意的な印象を持つことができない。クロードはかつての少女を思い、疑問を覚えずにはいられなかった。
今ここにいるエルと、かつてのエルは何が違うのだろうか。
「あらー。ちょっと独創的ですねえ」
「え、あ、はい」
続いて行われたのは竪琴のレッスンだが、これもまた上手くいっていない。淑女としては思いきりが良すぎるというか、力が入り過ぎていた。
「でも、エル様の音色は美しいですよ。この調子で覚えていきましょうね」
「はい! が、頑張ります」
エルは初めて触る竪琴を覚えようと奮闘している。
どうやらこの体は、転生前から覚えていることと、忘れてしまったことがあるようだ。
(とにかく今は覚えなきゃ! ここで生きていくんだから)
一度は親より先に死んでしまった自分。同じ親不孝をこの世界でも繰り返したくない。
それにもっと生きていたい。生きていればきっといずれ、友達だって作れるはずだ。
自分の可能性を信じるしかない。エルは必死に学びの時を過ごしていた。
◇
「本日は、お嬢様たっての希望である、魔法講座を行います」
二日が経ち、ある程度日常に慣れてきた少女は、初めて魔法を習うことになった。
「え、魔法? いいの?」
「はい。ですが、魔法の教師はここにはいらっしゃいません。リヴィアス領のある森にお住まいになっておられまして。私達から出向く必要がございます」
「じゃあ……歩いて?」
「いいえ。歩きでは時間がかかり過ぎます。ここは馬で参りましょう」
クロードが説明を終えると、使用人の男が馬を引き連れてやってきた。黒く逞しい大柄な馬だ。
「わあ、大きい」
「お嬢様の馬はあちらです」
奥からもう一人の使用人が、茶色い体毛をした馬を連れてきた。クロードの馬よりは小さいが、落ち着きなくソワソワしている。
「え? 私の馬ってことは、これから乗馬するってこと?」
「はい。お嬢様は記憶を失う前は、乗馬がとにかくお好きだったのですよ」
「そうなんだ」
乗馬のことは体が覚えているだろうか。少しばかり怖かったが、彼女は勇気を出して乗ってみることにした。
それから五分後。
「きゃああああーー!?」
「お、お嬢様ーー?」
どうにか乗れたエルだったが、馬が走り回ってしまい、最終的には振り下ろされそうになっていた。
馬は彼女を気に入ったかもしれないが、本人は結果的に落馬してしまい、息も絶え絶えになっている。
「う、馬の扱いって、なんか怖い」
「……どうやら、そちらはお忘れのようですね。では、私の馬に乗っていただけますか」
「え? ジルフィスさんの馬?」
ちなみにだが、エルは彼を苗字であるジルフィスと呼んでいる。なかなか下の名前で呼ぶことができないのは、前世から変わっていない。
微笑する執事の前に、ちょこんと令嬢は乗ってみた。
体の大きい黒馬は、一人分増えたところで何も気にしている素振りはない。
そしてクロードが手綱と鞭を操り、いよいよ庭の外——邸から飛び出していく。
「凄い! なんかとっても速い!」
「この馬は私のお気に入りです。体が大きい割に俊敏で、その実優しい性格をしています」
いつしか草原を疾走していた。風がとにかく快い。
「なんか、ジルフィスさんみたい」
「私ですか」
「うん」
エルは振り向き、少しの間だけ彼に微笑んだ。
(な、なんて素敵な笑みなのだ……)
垣間見えた笑顔に、人知れず執事は心を焼かれていた。




