♯7 契約
──時よ留まれ、汝はいかにも美しいと云えば、私は喜んで滅びよう。時計はとまり、針も落ちる。一生は終わりを告げるのだ──
──目を覚ますと、慣れ親しんだあの人の姿があった。
ジャックはその、見覚えのある虚像に対して疑いを抱きつつも声をかける。
「婆ちゃん…?」
全体的にぼやけていて、輪郭もはっきりしていなかったものの、彼は直感でこの幻影が自身を育ててくれたあの老婆であることに気づいた。
「婆ちゃん…なんだよね…」
「俺…結局…」
──そこまで言いかかったものの、ここから先を口に出すことは難しかった。話すべきことが喉につっかえているようで、強い拒否感と逃避が、俺に現実を見る事を拒絶させた。
ぼやけた姿の婆ちゃんは、少しだけ表情が柔らかくなったと思えば、振り向いて先へと歩を進める。
「…ま、待ってよ!どこに行くんだよ…」
「またそうやって…俺のことを置いてけぼりに…」
ジャックの嘆願とは裏腹に、婆ちゃんとの距離は段々と離れてゆく。
まるで、あの日のようで…
「クソッ!なんで…!なんで脚が動かねぇんだよ!」
意味も分からず全身が硬直して、俺はただ、婆ちゃんが光の中に消えていくのを、眺めることしか出来なかった。
* * *
次に目を覚ますと、今度はエフォロイ城塞門の前だった。
いつものように屑拾いに出ていって、籠一杯の屑鉄を抱えて帰る道中のようで、約束の時間を確かめるために空を見上げると、いつもならうんざりするほどの日照りが遮られていた。
「確かこの日は…数十年ぶりの雨が降ったんだっけ…」
上空には見たこともないような黒いスモッグがかかり、空気もカサカサと乾いた砂漠とは思えない程にしっとりとしていた。
取り敢えず家に帰る為、門をくぐろうとするジャック。その時、買取をしてくれているアルトマイヤーおじさんが、こちらへと走ってくるのに気づく。スラムの住民らしからぬ慌て振りに、その青ざめた顔を見て、全てを理解した。
「燃えて、いるのか…」
──あぁ…そうだった。この日、この黒い雨が降った日に…
俺は居ても立っても居られなくなり、身に着けていたあらゆる荷物を投げ捨てて、アルトマイヤーおじさんの「火事だ!丘が燃えているぞ!」という破きたくなる様なその声を聞こえないフリをして跳ね除け、全力で懐かしのあの丘の上の家へと走っていった。
──それでも、過ぎ去った運命を変えることは出来ない。
家に近づくにつれて、動乱やざわめきも大きくなる。声はよく聞こえなかったのではない、聞きたくなかったんだ。今になってようやく、人々の声が耳に届く。吐きそうで、破けるのなら、今すぐにでも耳を破きたかったけど、身体は丘へと走り続けることしか許してくれなかった。
煮えたぎる激情と、こみ上げる吐き気を押し殺して…目に入ってきたのは…
「あ…あぁ…いえが…」
そうだ。未だ烙印のように焼き付いている家が燃えているこの絶望の景色。禍々しく、しかしながら暖かい陽の光のように、揺ら揺らと燃える炎が、俺の顔を照らすことで感じるこの生温さ。
ぼくが「ばあちゃん」と叫び続ける。もう、聞いていられなかった。
婆ちゃんを助ける為に家の中へと入ろうとするぼくの腕を、アルトマイヤーおじさんが掴んで引き留める。危険だと叱りつけたその時、轟々と大きな音を立てて家が崩れ落ちてゆく。キッチン辺りで小爆発が起こり、火の粉が飛んで、鉄板が曲がり溶けおちる。
やがて黒い雨が降り始め、ずぶ濡れになっていくぼくの姿を、俺は俯瞰して見ていた。
「あぁ…やっぱり。そうなんだな…」
膝から崩れ落ちる程絶望しても、記憶の奥底に葬り去ったはずの地獄のような映像は終わらない。
「いかなきゃ…」
震える脚で立ち上がり、ゆっくりと燃え盛る炎へ歩き出す。きっと、あの向こうに婆ちゃんがいるのだろう。だからこそ、俺はもういかなきゃならない、炎が消えてしまうよりも前に。
何もかもを奪っていった炎の中から、懐かしい声が聞こえてくる。
「ジャックや…まだ、まだその時じゃない…」
…しわがれた優しい声。紛れもない、慣れ親しんだ婆ちゃんだった。
「婆ちゃん…やっぱりそっちにいるんだね…」
「何で…何であの日。何も話してくれなかったんだよ…」
そう尋ねても、婆ちゃんからの返事はなかった。
「ねぇ…何とか言ってくれよ…!」
「婆ちゃんなら…!知っているんだろ…分からないことなんて無いって言ってたじゃんか…」
俺は声を張り上げて、滾る炎へと手を伸ばす。
「…諦めないで、ジャック。貴方にしか、この可能性を掬い取ることは出来ないのだから」
だけれども、その手は届かない。まるで大きな壁に塞がれているかのようで、身体が跳ね返されてしまう。そして炎は、最初から燃えてなどいなかったかのように忽ち立ち消え、重くなる瞼を閉じるのと同時に、煤からはまた、知らない誰かの声が聞こえてくるのだった。
「炎、其れは諸刃の剣。身寄りのない貴様に孝悌の仁と慈愛を教え、虚無を与えて呉れ、終に厭悪と成った」
* * *
再び瞼を開けると、白だけがある途方もない空間の中心にいたジャック。
唖然とする彼の後ろに、朧げな一人の影が近づいてくる。
「ようこそ、栓ない魂だけの世界へ」
「…俺、やっぱり…死んだのかよ…一体…誰なんだよ、アンタ……」
「アンタが…このクソみたいな映像を見せやがったのか…」
溜まり切った膿を吐き捨てるようにして、俺は投げかけた。
「…ファウストよ。質問は一つずつして呉れないか」
威圧感のある風体の虚像は、なぜか俺の姓を知っていた。
「まず、貴様が死んでいるか。という問いに関してだが…”肉体的には死んだ”と云えるだろう」
頭で理解はしていた。それでも、納得は出来なかった。今は、何とか受け入れるしかないこの事実を、俺は持て余してしまっていたんだ。
「じゃあなんだよ…アンタは死神なのか…?」
「異なる。私が誰なのかという問いに関してだが…」
虚像は少し悩むような仕草をしていたが、腑に落ちたように正面を向きなおして答えた。
「そうだな…悪魔…いや、破壊者とでも呼んで呉れれば好い」
「ふざけるなよ…悪魔なんて実在するわけが…」
「確かに、ファウストよ。今貴様の前に居るのは、正確には悪魔では無い」
そして狂人の虚像は、冷笑しながら矛盾を指摘してきた。
「然れども、此の精神の世界も、貴様にとっては幻想だろう?何も疑問に思うことは無いのだよ」
「それじゃあお前は…葬送しないのなら一体何がやりたくて、俺にこんな思いをさせるんだよ…」
向き合いたくない過去を直視してもう、限界だった。それでもまだ、俺の心の中の何処かには、諦めたくない気持ちがあったのかもしれない。
意外といった表情で、虚像は語る。
「驚いたな、貴様自身がこの映像を流しているのだというのに、貴様は其の事を知り得無いのか」
彼曰く、引き裂かれる様な追憶は、他でもない俺自身が見せていたのだという。それこそが、自身の意志の根幹にあって、魂の形成に大きく作用しているが故なのだと。
そして虚像は、思い悩むようにして、再び吐露した。
「どれ程貫き通せども、畢竟、人は照り続ける陽光の暖かさから、独り立つことは叶わない」
「…私は破壊する者。陽が堕ち、埋め合わせという名の修正力の消え去った此の、絶望の世界を見送り葬送することが、私に与えられた最後の使命」
悲痛に重々しく語る中で、俺に一つの疑問が浮かぶ。
「それならなんで…さっさと壊してしまわないんだよ…」
悲惨が繰り返され続けるこの不幸の世界の在り様を知っていて、何がそこまでこの悪魔を執着させるのかが全く分からなかった。
すると彼は、何かに抗うようにした後に、気を取り直して呟く。
「嗚呼、彼れは余りにも、眩すぎるのだよ」
そして一流のセールスマンのように、交渉を始めた。
「ファウスト、私は確かに、肉体的に貴様は死んだと云った。而して、貴様の魂は未だ生きて居る」
「なにが言いたい…」
「魂、其れは太古には独立していた存在。肉体と結びつくこともなく、其れ独りで存在出来ていた」
「宣告された祝福が魂に作用したが故に、星神は魂と肉体を鎖で縛り付け、その陽光で魂を焼き焦がし続けるのだよ」
「…そして私の力を以てしてならば、この鎖を破壊することも出来る」
心の奥底で沸き立っていた期待は現実になったのだ。俺に彼が差し出す、救いの手を拒む理由などない。
「然しだ、ファウストよ。悪魔の契約には、往々にして制約が必要だ」
「代償は、貴様の抱く意志を決して曲げない。何があろうと、それを貫き通せ」
「不可能ならば、貴様の魂をもって制裁する」
その程度でいいのかと拍子抜けしたのも束の間に、揺らぐ悪魔はより恐ろしい事実を告げる。
「眩く輝く陽光は、殻を失った貴様を焼き尽くす。依って半年程の猶予しかない」
「時が満ちるよりも早く、我が迷いの森へと来い。さすれば呪いを打ち破らん」
「最後に、魂だけの貴様は調律無きこの世界の、あらゆる怨嗟に直面するだろう」
「其れでも尚、貴様の願いが実現出来るのだと思うのならば、この場に来る資格が与えられる」
以上だ。と言わんばかりに、虚像は右手を差し出す。…彼が俺に、何を期待してこのような事をするのかは分からない。だがそれでも、炎の中から聞こえた声が婆ちゃんの願いであるのならば…俺はまだ、折れるわけにはいかなかった。
ジャックは「ああ、分かった」とだけ言い残して、虚像の差し出す手を固く握る。
「最後に、ファウスト。求めよ、さすれば与えられん。叩き続けよ、さすれば啓かれん」
「…かつて、かの老婆がそう殉じた様に」
身体の奥底が爆ぜる様に感じ、そしてまた、意識が途切れるのだった。
* * *
誰も居なくなった精神世界で、蒼黒い魂が独り揺らめく。
「ファウストよ…彼の青年には素質がある。確かに未だ、星に魅入られてい無い」
「…然れども、彼の者は余りにも未熟すぎる」
「彼は必ず、此の壊れた世界の膿に触れ、絶望の底に叩き堕ちるだろう。怨嗟に共鳴し、この世界の全てをを嘆くだろう」
「…彼の者は、意志の力を芽吹かせた」
「然れども、未だ不完全だ」
「他者に依り罹った、独り立ちしない脆い意志なのだよ」
──それでも、私が信じる自由な意志の為には、ファウストと交わした約束を信じて、彼の者との契約を達成させねばならない。
だからこそ、私はただひたすらに、偃月刀を握りしめて祈り続けた。
「…どうか、我が親愛なる友ファウストの願うように」
「彼の者が新たなる陽光として」
「人々を照らし導いて呉れんことを」
──そして破壊者は、残り香もなく空間から姿を消した。