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♯7 契約

──時よ留まれ、汝はいかにも美しいと云えば、私は喜んで滅びよう。時計はとまり、針も落ちる。一生は終わりを告げるのだ──

 ──目を覚ますと、慣れ親しんだあの人の背中が見えた。


 俺は見覚えのある虚像に対して、疑いを抱きつつも声をかける。

「婆ちゃん……?」

 輪郭がぼやけていてはっきりとしていない。それでも、何度だって見てきた、お団子の髪と曲がった背中……間違いない、婆ちゃんだ。


「婆ちゃん、なんだよね」

「俺、結局……」

 ──そこまで言いかかったものの、ここから先は言葉に出来なかった。まるで何かが喉につっかえているようで、強い拒否感と逃避が俺に、現実を受け入れる事を拒絶させる。

 ぼやけた婆ちゃんは、少し表情が柔らかくなったと思えば、振り向いてその向こう側へと歩を進めた。


「ま、待ってよ! どこに行くんだよ……」

「またそうやって、俺のことを置いてけぼりに」

 嘆願とは裏腹に、婆ちゃんとの距離は段々と離れてゆく。

 ──これじゃまるで、あの日と同じ……。

「クソッ! なんで……。

なんで脚が動かねぇんだよ!」

 全身が硬直している、地面に刺さった様に動かない。俺は訳も分からず、ただ、婆ちゃんが光の中に消えていくのを、眺めることしか出来なかった。


          * * *


 次に目を覚ますと、今度はエフォロイ旧城塞門の前だった。

 屑拾いに出ていって、籠一杯の屑鉄を抱えて帰る道中。いつもやっているように、約束の時間を確かめようと空を見上げる。珍しいな、うんざりするほどの日照りが、黒く分厚い雲で遮られていた。


「確かこの日は、数十年ぶりの雨が降ったんだっけ……」


 不意に空を見上げると、中々見られない程に分厚く黒いスモッグがかかっていたこの日。いつだってカサカサと乾いている砂漠とは思えない程に、しっとりとしている──何で、こんなこと知ってんだ……。

 取り敢えず家に帰ろうと思い、俺は門をくぐろうとする。その矢先だった、いつも買取をしてくれているアルトマイヤーおじさんが、よく出た腹を揺らして、こちらへと走ってくるのが見える。灰色、髪が色褪せていない。それに、いつもなら、店の中を少し動くだけでも息を切らしていたくらいなのに、歩けるどころか走っている。まだ……若い。

 スラムの住民らしからぬ慌て振りにその青ざめた顔……瞬間、俺は今から起こりうる全てを理解した。

 


「燃えて、いるのか……」

 ──あぁ、そうだった。この日、この黒い雨が降った日に。

 居ても立っても居られなくなり、身に着けていたあらゆる荷物を投げ捨てた。アルトマイヤーおじさんの「火事だ! 丘が燃えているぞ!」という破きたくなる様なその声を聞こえないフリをして跳ね除け、全力で懐かしのあの丘の上の家へと走った。


 ──どれだけ急いでも、過ぎ去った運命を変えることなど出来ない。

 家に近づくにつれて、動乱やざわめきも大きくなる。今になってようやく人々の騒ぎが耳に届く。よく聞こえなかったのではない、聞きたくなかったんだ。吐きたくて、今すぐにでも耳を引きちぎりたかったけど、それでも身体は丘へと走り続けることしか許してくれなかった。


 煮えたぎる激情と、こみ上げる吐き気を押し殺した先に目に入ってきたのは……


「あ、あぁ……いえが……」


 未だ烙印のように、記憶に焼き付いている絶望の景色(絶景)。禍々しく、しかしながら暖かい陽の光のように揺ら揺らと燃える炎が、俺の顔を照らすことで感じるこの生温さ。そうだ、家が燃えている。

 ()()が「ばあちゃん」と悲痛な叫びをあげる。もう、聞いていられなかった。


 婆ちゃんを助ける為に家の中へと入ろうとする()()の腕を、アルトマイヤーおじさんが掴んで引き留める。危険だと叱りつけたその時、轟々と大きな音を立てて家が崩れ落ちてゆく。キッチン辺りで小爆発が起きた。火の粉が飛んで、鉄板が曲がり溶けおちる。

 

 やがて黒い雨が降り始め、ずぶ濡れになっていく()()の姿を、俺は俯瞰して見ていた。

「あぁ、やっぱり。何もかも、変えられないんだな」

  膝から崩れ落ちる程に絶望しても、記憶の奥底に葬り去ったはずの地獄のような映像は終わらない。これで、何度目なのだろうか?


「──いかなきゃ」

 震える脚で立ち上がり、燃え盛るゲヘナへと歩き出す。きっと、あの向こう側に婆ちゃんがいるのだろう。だからこそ、俺はもういかなきゃならないような気がした。炎が、消えてしまうよりも前に。


 片脚を前に出すと、何もかもを奪っていった炎の中から、懐かしい声が聞こえてくる。


「ジャックや……まだ、まだその時じゃない」


 しわがれた優しい声。紛れもない、慣れ親しんだ婆ちゃんだった。


「婆ちゃん……やっぱり、そっちにいるんだね」

「何で、何であの日。何も話してくれなかったんだよ……」


 何度無に尋ねても、婆ちゃんからの返事はない。


「ねぇ、何とか言ってくれよ!」

「婆ちゃんなら……全部知っているんだろ。

”分からないことは無い”って、いつも言ってたじゃんか……」

 俺は声を張り上げて、滾る炎へと手を伸ばす。


「諦めないで、ジャック。貴方にしか、この可能性を掬い取ることは出来ないのだから」

 だけれども、その手は届かない。大きな壁に塞がれているかのようで、身体が跳ね返されてしまう。

 やがて炎は、最初から燃えてなどいなかったかのように忽ち立ち消える。重くなる瞼を閉じるのと同時に、まだ火を宿して明るい灰燼から、知らない誰かの声が聞こえてくるのだった。


「炎、其れは諸刃の剣。

盲目の貴様に孝悌の仁と慈愛を教え、虚無を与えて呉れ、終に厭悪と成った」


           * * *


 再び瞼を開けると、白だけがある途方もない空間の中心に俺はいた。

 唖然とする彼の後ろに、朧げな一人の影が近づいてくる。

「ようこそ、栓ない魂だけの世界へ」


「──やっぱり、死んだんだな。

で、誰なんだよ、お前」

「お前が、このクソみたいな記憶をわざわざ見せやがったのか?」

 俺は溜まり切った膿を吐き捨てるようにして、声の主に投げかける。


「……ファウストよ。質問は一つずつして呉れないか」

 威圧感のある風体の虚像は、なぜか(家族名)を知っていた。


「まず、貴様が死んでいるか。という問いに関してだが

”肉体的には死んだ”と云えるだろう」

 その虚像は冷淡に現実を突き付ける。頭で理解はしていた。それでも、納得は出来ない。とても、安らかなものじゃない。何とか受け入れるしかないこの事実を、俺は抱えきれなかった。


「じゃあ何だよ、お前は死神だってのか……?」


「異なる。私が誰なのかという問いに関してだが」

 虚像は少し悩むような仕草をしていたが、正面に体を向き直し、淡々と答える。

「そうだな、”悪魔(メフィストフェレス)

……いや、”破壊者(メフィアー)”とでも呼んで呉れれば好い」


「ふざけんなよ! 悪魔なんて実在するわけが……」


「確かに、ファウストよ。今貴様の前に居るのは、正確には悪魔では無い」

 そして狂人の虚像は、冷笑しながら矛盾を指摘した。

「然れども、此の精神の世界も、貴様にとっては幻想にすぎない。

故に、何も疑問に思うことは無いのだよ」


「それじゃあお前は、さっさと俺を葬送して、魂を吸い取らないってのなら

一体何がやりたくてわざわざこんな思いをさせるんだよ」

 向き合いたくない過去を散々直視して、立ち向かって、打ちひしがられて……俺はもう、限界だった。それでもまだ空いた心を埋めようと、拳に込められた力は緩もうとしない。心の中の何処かには、諦めたくない気持ちがあったのかもしれない。


 しかし虚像は、俺の発言が意外といった表情で語る。

「驚いたな、自身がこの映像を見せているのだというのに、貴様は其の事を知り得無いのか」

 

 彼曰く、引き裂かれる様な追憶は、他でもない俺自身が見せていたのだという。それこそが、自身の意志の根幹にあって、魂の形成に大きく作用しているのだと。


 そして虚像は思い悩むように頭を上げ、再び吐露した。

「どれ程貫き通せども……畢竟、人は照り続ける陽光の暖かさから、独り立つことは叶わないのだろう」

「私は破壊する者。

陽が堕ち、埋め合わせという名の修正力が消え去った、此の絶望の世界を見送り葬送(破壊)することが、私に与えられた最後の使命」

 

 虚像が重々しく語る中で、俺に一つの疑問が浮かぶ。

「ならなんで、さっさと壊してしまわないんだよ

もう充分、苦しめられたんだ。俺も、お前も、皆……」

 悲惨が繰り返され続けるこの不幸の世界の在り様を知っていて、何がそこまでこの悪魔を執着させるのか。享楽なのか、それとも面倒なのか、或いは全てハッタリなのか、俺には全く理解できなかった。


 俺の質問を聞いた彼は、何かから抗うように手を払いのけた後、気を取り直して呟いた。

「嗚呼──彼れは余りにも、眩すぎるからこそ……」

 そして一流のセールスマンのように、交渉を始める。

「ファウスト。私は確かに、肉体的に貴様は死んだと云った。

而して、貴様の魂は未だ生きて居る」


「なにが言いたいんだ?」


「魂、其れは太古に独立していた概念。肉体と結びつくこともなく、其れ独りで成り立っていた」

()()()()()()()が魂に作用するが故に、星神は魂と肉体を鎖で縛り付け、その陽光で魂を焼き焦がし続けるのだよ」

「……そして、私の力を以てしてならば、この鎖を破壊することも出来る」


 心の奥底で沸き立っていた期待は現実になった。俺に虚像が差し出す、救いの手を拒む理由などない。反射的だった、俺は思わず手を差し出そうとした。


 しかし虚像は、窘める様に退ける。

「然しだ、ファウストよ。悪魔の契約には、往々にして制約が必要だ」

「代償は、貴様の抱く意志を決して曲げないこと。何があろうと、それを貫き通せ」

「不可能ならば、貴様の魂をもって制裁する」


 その程度でいいのかと拍子抜けしたのも束の間に、揺らぐ悪魔はより恐ろしい事実を告げた。

「眩く輝く陽光は、殻を失った貴様を焼き尽くす。依って……半年程の猶予しかない」

「時が満ちるよりも早くに、私の坐る迷いの森へと来い。さすれば呪いを打ち破らん」

 

「最後に……魂だけの貴様は、調律無きこの世界のあらゆる怨嗟に直面するだろう」

「其れでも尚、貴様の願いが実現出来るのだと思うのならば、この場に来なさい」

 以上だ。と言わんばかりに、虚像はその右手を差し出した。

 

 ……彼が俺に、何を期待してこのような事をするのかは分からないままだ。だがそれでも、あの炎の中から聞こえたあの声が婆ちゃんの願いであるのならば。こんな所で止まってしまったら駄目だ。

 俺はまだ、折れるわけにはいかない。皆を、幸せにしてやらなくちゃいけない。


 ──ジャックは「ああ、分かった」とだけ言い残し、虚像の差し出す手を固く握る。

「最後に、ファウスト。”求めよ、さすれば与えられん。叩き続けよ、さすれば啓かれん”」

「…かつて()()がそうやって、受け継がれた祈りに殉じた様に」

 身体の奥底が爆ぜ、そしてまた、彼の意識は途切れるのだった。


          * * *


 誰も居なくなった世界で、蒼黒い魂が独り揺らめく。

「ファウストよ、彼の青年には素質がある。如何に成し得たかは分からないが……

確かに未だ、星に魅入られてい無い」

「……然れども、彼の者は余りにも未熟すぎる」

「彼は必ず、此の壊れた世界の膿に触れ、絶望の底に叩き堕ちるだろう。

怨嗟に共鳴し、この世界の全てをを嘆くだろう」

 

 悪魔は空間を穿つ。水面のように朧げなそのレンズは、我を失いイナゴを叩きのめす、穢い屑拾いが映っていた。

「……彼の者は”意志の力”を芽吹かせた」

「然れども、弱い」

「未だ他者に依り罹った、独り立ちし得ない脆い意志でしかないのだよ」

 

 それでも、願う自由意志の世界の為には、ファウストと交わした約束を信じて、彼の者との契約を達成させねばならない。


 だからこそ、私はただひたすらに、偃月刀を握りしめて祈り続けた。

「どうか、我が親愛なる友人の願うように」

「彼の者が新たなる陽光として」

「人々を照らし導いて呉れんことを」

 ──そして破壊者(メフィアー)は、残り香もなく空間から姿を消した。

 

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