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♯6 肉の翼

──貴様の最期を聞く者は皆、手を叩いて歓喜するだろう。皆が貴様の、偏頗な独善に苦しんだが故に──

 ──父よ、私を置いていかないでください。叶うのならば再びこの、授けられた肉の翼を広げて、大いなる父の元へと羽ばたきたいのです。私たちはただ貴方様と共に、頭上に広がる蒼い空の、その先の姿が見られるのならば、それだけで充分ですから。

 

 ジャックの目前には、膿みきって赤くなった肉の翼を羽ばたかせて、悠々と滞空する奴がいた。無機質なその胴体から派生した物だとは到底考えられない、陽光すら透き通す薄い膜状の翼。イナゴが空を飛ぶこと自体は知っていたものの、実物を見る機会はそうそうない。ましてや、これほどまでに間近で…

 錆ついてもなお煌々と、照りつけられて輝く表情からはさながら、”もう一度だけ、羽ばたこうじゃないか”と、もの言えぬ機械の、伝わる筈のない決意が聞こえてくるようで──初めて見るヤツの翼を広げたその姿は殊更に、不気味で、不潔で、不浄でありながらも、天使の様に神秘的だった。


「…そう…か、落下の衝撃で…」


 ヤツの残った前脚には、右の脚を鷲掴みにされて宙吊りになっている巨剣がいた。再び羽化したイナゴに返り討ちにあったのだろうか。ヤツは地面に降り立つのと同時に、巨剣を地面へと放り投げる。…頭に強い衝撃を受けたからなのか、彼の体は不自然に痙攣していた。…つまり、もうこの場に頼りに出来る人間も、この状況を打開できるような策や道具も、何もかもを失ってしまったのだ。


「…いや…あり…えな…だって…一度…折れた翼が…」


 ──再び生え揃うことなど、ありえない。自分の拙い知識がそう、先入観をもって思い違いをさせているだけなのかもしれない…それでも、これが婆ちゃんからの教えで、城塞やスラムでの常識で…

 奴らの空飛ぶイナゴとしての寿命は、翼が折れたその時に終わりを迎える。イナゴらは自主的な推進力の他に、その翼を広げて風に乗り空を飛び続けている。常に群れで行動しているのは上空に吹き付ける風を手探り纏う為であり、自主的に群れから、生命の風から離れるだなんて自殺行為はしない。だからこそイナゴは空の脅威であって、婆ちゃん曰くあの日以来、空を舞えるイナゴが、自主的に地上の民を殺戮するようなことはなかった。


 …そんな常識を嘲け笑うかのように、目の前には翼を広げた奴がいる。それに、突然体の内に流れたこの()だって…理解できない。


          * * *


「ああ…血を…失い…すぎ…た…」

 もう既に、あれこれ考えられる程の余裕などなく…日中の砂漠の真ん中なのに凍えるような寒気、震える唇。薄れゆく意識の中で最後に浮かんだのは、ただひたすらに後悔と自責の念だった。


 置いてけぼりにされたキャラバンの人たちは、無事に生きて帰れるのだろうか?中には老人や女性、それに…まだ幼い子供だって…


 イナゴの触角は鋭い…暗所である岩陰に隠れたからといえども、一度目を付けた獲物のことを、易々と諦めてくれるだなんて到底考えられない。それにもう直、陽が暮れるだろう。夜になってしまえば恐ろしいのは、はぐれたイナゴだけじゃない。蚋や虻、他の怪物たちも暴れ出す。そうなったらどこに隠れようと、この砂漠の、町の外にいる時点で命の保証はない。


「ごめ…んな…」

 脳裏には、あのターバンをした子供が思い浮かぶ。

 か細い声で綴られた、あの助けを求める願いには、終に応えられなかった。


 …弱いから、俺が弱いから…腸がこぼれてしまう。腕が飛んで行ってしまう。泣き叫んでしまう。目が零れ落ちて…両の脚が弾け飛んで…それでもなお、はいずり寄ってまで願ってしまう。

 そして、誰もいなくなってしまう。幸せも、笑顔も、何もかもが壊れて…最後に不幸だけが残ってしまう…のに…


「守れなくて…ごめ…」

 あぁ…こんな時、婆ちゃんならどうしてたんだろうか…結局、俺じゃ力不足で…誰かの幸せを見ることなんて出来ないのだろう。俺の周りには、不幸しかない。何もかも、俺に力がないのだから…


 奴は広げていた翼をすぼめて、左右に揺れながら近づいてくる。今度こそ、本当に死んでしまうのだろうか。俺も、あの場所で出会ってしまった()()のように、玩ばれて、裂かれて、そしてゴミのように捨てられるのだろうか。あの時と同じで、どれだけ喚こうと苦しもうと、誰にもその怨嗟が届くことはないのだろう。これはあの瞬間、何も出来なかった俺自身に架せられた罪なのかもしれない。


 せめて俺に、この最後の願いを叶えられるだけの、相応な力があったのなら。

 …どれだけその為に祈ろうと、それが届くことはない。


「あぁ…クソ…」

 記憶が混濁して、いって戻ってを繰り返して、それに、誰かのあやすような囁きが聞こえてくる。視界が歪んで、激しい怒りや後悔に帯びていた熱すら、ほとぼりが冷めてゆく。そしてようやく、頭の中に諦めという感情が芽吹いた。俺は力不足だったのに、その器量に見合わないことをしてしまったのだから、結果的にこうなってしまった。ただそれだけのことだったのだ。こんな悲惨で、何の救済のない世界から離れられるのだから…また、婆ちゃんに会うことができるのだから。もうそれで、満足出来るのだと自分を納得させて…。


「…でも、これじゃあ…こんな終わり方じゃあ…婆ちゃんに合わせる顔なんてねぇな…はは…」

 足りない血流を押し出そうとして空しいだけの、心臓の鼓動が激しくなって…。

「体が…熱い…」


 全身を焼くような高熱が帯びる。願いが叶うまでは、まだ死ねない。ただ、その意志の力だけで奮い立たせて。

「嫌だ…納得なんて…出来る…もんか…よ…」


 イナゴの憎たらしい巨躯が、段々と顔に近づいてくる。瞼を開けたいといった願いも虚しく、視界が暗闇に包まれる。


 ──そしてジャックは、その意志の半ばにして、力尽きてしまったのだった。


 

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