♯1 イナゴ 上
──朝が来ると、東風が蝗の大群を運んで来ました。 蝗は世界中の隅々を埋め尽くし、それぞれがそこにい坐りました。これほどの蝗の大群は、後にも先にも一度も見ないものでした──
──目線の先にいたのは、狂乱に呑まれた怪物の姿だった。
その昔、機械生命体は東の帝国が作り出した、救国の自律兵器だった。だが、世界が業火に包まれたあの日以来、生みの親である導き手を失ったからなのだろう。彼らは狂ったように破壊と殺戮を繰り返し始め、今に至るまで落陽の日々を生き延びた人類にとっての脅威として君臨し続けている。
砂塵が巻き上がる方角から轟音が鳴り響く。ジャックは逸る鼓動を落ち着かせて、老婆の残した助言を元に冷静に分析する。
群れからはぐれたのであろう、飢えを満たさんと暴れ狂うその個体は、直感通りイナゴ型だった。
──蝗、奴らの最大の特徴は機動力だ。かつて、空を黒く塗りつぶすほどの大群が存在し、大群が現れた大地は、”その全てが刈り取られてきた”という伝承から呼び名がついたこの個体。奴らは、地上では折りたたんである六本の脚をして、現存する殆どのコルベットよりも素早く動ける。そして、間合いを詰められたら最後、長く伸びた二本の"顎"を使って対象を噛み殺す。
それに、奴らは空を飛ぶことも出来る。スラムの上にある空、シーラスよりも少し下で、糸のようなジェットを吐きながら飛んでいるのをよく見かける位だ。その癖、物知りな婆ちゃんですらその原理までは分からないらしく、一流の技術者集団や星辰の関係者なら知ってはいるのかもしれないが……
今ではもう、技術の再現は難しいのだろう。
本来は群れで移動する奴らだが、はぐれイナゴと呼ばれる個体も時折現れる。
何らかの原因で群れに追いつくことができなくなった奴らは、空飛ぶ群れが飛行船商人の天敵であるのに対して、地上の弱者やキャラバンにとっての恐怖の象徴に他ならない。
砂埃の中心に居坐っているあの野郎みたく、堕ちてきたイナゴを見たのは初めてではなかった。最初に奴に会ったのは、俺がまだ8つだった頃。今日と同じように、巨大構造物の残骸の中で部品を集めていた時。ありふれた日常。ただ、壁の向こう側を除いて──
* * *
──初めは好奇心だったんだ。壁には丁度、中を覗けそうなくらいの隙間だってあったし、向こう側に高価な部品があるかも知れない。だけど俺は、今でもあそこに近づいたことを後悔している。
歩み寄るにつれて、事態が尋常ではないことを幼心ながら俺は覚る。恐る恐るそこに顔を近づけると、隙間から見えたのは、悲鳴を上げるみすぼらしい恰好をした人たち。そして、六本の脚に鋭い顎を持つ怪物だった。
俺はただ、目の前で大勢が引き裂かれるのを、教わった通り震える手で口を抑えながら、どうか気取られないようにと、ただ息を殺して見つめることしかできなかった。
すべてが終わった後、呆然と足を踏み入れる。血溜まりの上には、グチャグチャになった人間の臓腑が、さも片付け忘れた玩具の様に転がっていた。
犠牲者の中には、あの頃の俺とさほど歳の変わらなさそうな子供だっていた。イナゴの触角は鋭い。もし感づかれでもしていたのならば確実に……。
離れることの出来ない、身の程を弁えない弱者に与えられた特等席。
好奇心の代償……それが、一枚の崩れかけの薄い壁で隔てられた反対側に縛られることだった。
「ぅ、たすけ……」
思わず、声のする方に振り向いてしまう。
視線を下ろすとそこには、今にも消え入りそうな力ない声で助けを求める肉塊が這い蹲っていた。肉がはだけた腕、ちぎれた腸。どこかに両脚を失くしてしまった”それ”は、今にもこぼれ落ちそうになっている目を地面に引きずって、こっちにはいずり寄ってくる。
さっきまで大勢いた人は皆、途方もない苦しみに包まれた後、誰もいなくなってしまった。そして、苦しみに満ち溢れた生にしがみつきたいのならば、織り成されるその悍ましい過程から一瞬たりとも目を離すことは許されない──
あの日、俺は泣きじゃくりながら帰った。幼い俺は圧倒されて、到底、耐えられる景色ではなかったから。今にも陽が沈み切りそうな紫色の空の下で、血糊と涙でベトベトになって帰ってきた俺のことを、婆ちゃんは凄く心配してくれていて優しく抱きしめてくれたっけ。
多かれ少なかれ、理不尽な力の前に恐怖していた。でも、出し切って乾いたあとに残ったのは、恐れでも悲哀でもない。……己の力弱きが故の悔しさ。ただ、それだけだった。
俺がもっと強ければ、一歩踏み出す為の勇気があれば、彼らの不幸を見届けることはなかった。尊敬する婆ちゃんと違って、ちっぽけな自分では未来を選ぶことさえ出来ない。俺の周りにいる人は、苦しむことしか許されていない。それがとても、情けなかった。
* * *
次の日の朝、涙で真っ赤になった目を手でこすって、俺は食卓に着く。
そしたら婆ちゃんが、優しく話しかけた。
「おはようジャック、元気がなさそうね?」
しわくちゃの声でそうやって聞いてくる婆ちゃん。
「うん……」
慣れない沈黙が、食卓を流れる。
思い返すと婆ちゃんは、何かを待っているみたいだった。一緒に暮らし始めてから4年と少し。ずっと見てきたからなのか、それとも、年の功からなのか。俺の考えることなんてお見通しだったんだろう。
「──ばあちゃん、ぼくは弱いんだ。ぼくが弱いから、周りにいる人がふこうになるんだ」
「もしも、ぼくがもっと強かったら、あの人たちはきっと、苦しまなかったはずだったんだ」
「ぼく、くやしいよ……」
他の何よりも自分の命を大事にしなさい。そう口酸っぱく言い続けてきた婆ちゃんのことだ。絶対に叱られると思っていた。こんな考え、生きる為には不要だと思っていたから。
けれども婆ちゃんから、思いがけない答えが返ってくる。
「──ジャックや、お前は強いんだよ。ワシよりもよっぽど強い子ね。
他の人の苦しみを背負うことは、本当の強さをもっていないとできないことなのだから」
そして、どこか懐かしそうに、窓の向こう側に広がる空を眺めながら続けた。
「お前にとってそれが尊いものならば、その祈りを強く抱きなさい。
そうしたら、祈りが背中を押してくれるわ」
「でも婆ちゃん……それじゃあ、それじゃあぼくは……」
その話を聞いても尚、振り切ることができなかった。あの日見た、敵うはずのない理不尽なまでの暴力に立ち向かう勇気、一歩踏み出す為の自信。そんなものが湧いてくる気なんて、さらさらないように思えたんだ。
”死にたくない、苦しみたくない”
先に広がる不可避の後悔と板挟みになったこの矛盾は、ぼくを大いに悩ませる。
婆ちゃんは少し黙った後、たじろいでいた俺を断ち切る。
「いいかいジャック、流されるんじゃないよ。自分の祈りを信じなさい。
自らが願った自分だけの祈り……一歩踏み出す為のそれを信じることで、人は初めて前に進むことが出来るんだからね」
「それは生きることにおいて、とても大切なことなのよ」
「でもばあちゃん、ぼく、そうやって出来る自信がないよ。
また逃げちゃうかもしれないし……」
「なら、こうしましょう。”迷うことがあれば、自分だけの祈りに従いなさい”」
「ジャックが生きていく中で、どうすればいいのか本当に分からなくなったときは、この言葉を思い出しなさい。ばぁばとの約束ね?」
あの時に婆ちゃんとした約束は、一歩踏み出すことが出来なかったぼく。そして、恐怖に立ち向かえずにいる俺にずっと、勇気を与え続けてくれた。
* * *
「自分だけの祈りに従え……」
この弱肉強食の世界で俺は、誰にも苦しみに悶えてほしくない。
もう誰も、あの日のような不幸を、味わってほしくなかった。
俺は人を、この世界の理不尽から助けたい──
ジャックはしばらくの思念を終え、そして決意する。
「──行こう」
重い部品がパンパンにつめられた籠は邪魔になる。
最低限必要なモノだけをお古のハバーサックに突っ込んだ後、残骸から飛び降りたジャックは、一直線に地平線へと向かった。
──その拳を固く、握りしめて。
お読みいただきありがとうございます。
不定期ですが、なるべく早く更新できるよう頑張ります。




