♯1 イナゴ 上
──朝が来ると、東風が蝗の大群を運んで来ました。 蝗は世界中の隅々を埋め尽くし、それぞれがそこにい坐りました。これほどの蝗の大群は、後にも先にも一度も見ないものでした──
──目線の先にいたのは、いつしかの機械生命体だった。
その昔、奴らは東の帝国の兵器だったらしい。ただ、世界が業火に包まれたあの日より、彼らは狂ったように破壊と殺戮を繰り返し始めたそうだ。ジャックはまだ彼が小さかったころ、老婆がどこか物悲しそうな顔をしながら、そうやって言っていたのを憶えている。
群れからはぐれたのであろうその個体は、彼の目論見通りイナゴ型だった。
イナゴ。奴らの最大の特徴はその機動力である。かつて、空を黒く塗りつぶすほどの大群が存在し、イナゴの大群が現れた大地は、”その全てが刈り取られてきた”という伝承からそう呼ばれるようになったこの個体は、地上では、折りたたんである六本の脚をして、現存する殆どのコルベットよりも素早く動く。そして間合いを詰められたら最後、長く伸びた二本の"顎"を使い、対象を噛み殺すのだ。
さらに、彼らは空を飛ぶこともできる。普段は空の上を飛び回ることのほうが多く地上に降りてくることは少ない。もっとも、その原理を紐解ける者はもうこの世界には存在しない。一流の技術者集団や、星辰の関係者なら知ってはいるのかもしれないが、それ自体の再現は難しいだろう。
本来は群れで移動するのだが、はぐれイナゴと呼ばれる個体も時折存在する。はぐれイナゴとは、何らかの原因で群れに追いつくことができなくなった個体であり、空飛ぶ群れが飛行船商人の天敵であるのに対して、こうした個体は地上の弱者やキャラバンにとっての恐怖の象徴だ──
イナゴを見たのはこれが初めてじゃあなかった。最初にヤツと出会ったのは、俺がまだ6歳だった頃。今日と同じように、巨大構造物の残骸の中で部品を集めていた。ありふれた日常だったあの日。ただ、壁の向こう側を除いて──
* * *
──初めは好奇心だったんだ。壁には丁度、中を覗けそうなくらいの隙間だってあったし、向こう側に高価な部品があるかも知れない。だけど俺は、今でもあそこに近づいたことを後悔している。
歩み寄るにつれて、事態が尋常ではないことを幼心ながら覚った俺。恐る恐るそこに顔を近づけると、隙間から見えたのは、悲鳴を上げるみすぼらしい恰好をした人たち。そして、6本の脚に鋭い顎を持つ怪物だった。
俺はただ、目の前で人々が引き裂かれるのを、震えながら見つめることしかできなかった。すべてが終わった後、呆然とそこに足を踏み入れる。血だまりの上には、グチャグチャになった人間の臓腑が転がる。犠牲者の中には、あの頃の俺とさほど歳の変わらなさそうな子供だっていたんだ。
「ぅ…たす…け…」
声のする方に振り向いてしまった俺。そこには、今にも消えそうなほどに力ない声で助けを求める肉塊がいた。肉がはだけた腕、ちぎれた腸。どこかに両脚を失くしてしまった”それ”は、今にもこぼれ落ちそうになっている目を地面に引きずって、こっちにはいずり寄ってくる。
俺は、目の前に広がる地獄のような景色に耐えられなかった。さっきまで大勢いた人はみんな、大きな苦しみに包まれた後、だれもかれもいなくなってしまったんだ──
その日、俺は泣きじゃくりながら帰った。陽が沈みきった後、血糊と涙で汚れながら帰ってきた俺のことを、婆ちゃんは凄く心配していて、優しく抱きしめてくれたっけな。
かくいう俺は一晩中泣いてた。多かれ少なかれ、理不尽な力の前に恐怖していた。でも、何よりもただ、己の力弱きが故に泣いていたんだ。俺が強ければ、俺に一歩踏み出す勇気があれば、彼らの不幸はなかったのだから。尊敬する婆ちゃんと違って、ちっぽけな自分では誰も助けることができない。俺の周りにいるヒトは、苦しむことしか許されていない。それがとても、情けなかったんだ。
* * *
次の日の朝、涙で真っ赤になった目を手でこすって、僕は食卓に着く。
そしたら婆ちゃんがこう、俺に話しかけた。
「おはようジャック、元気がなさそうね?」
しわくちゃの声でそうやって聞いてくる婆ちゃん。
「うん…」
慣れない沈黙が、食卓を流れる。
思い返すと婆ちゃんは、俺が何か喋るのを待っているみたいだった。一緒に暮らし始めてから3年。ずっと見てきたからなのか、それとも年の功からなのか。俺の考えることなんてお見通しだったんだろう。
「──ばあちゃん、ぼくは弱いんだ。ぼくが弱いから、周りにいる人がふこうになるんだ」
「もしも、ぼくがもっと強かったら、あの人たちはきっと、苦しまなかったはずだったんだ」
「ぼく、くやしいよ…」
他の何よりも自分の命を大事にしなさい。そう口酸っぱく言い続けてきた婆ちゃんだ。絶対に叱られると思っていた。こんな考え、自分が生きる為には不要だと思っていたから。
けれども婆ちゃんから、思いがけない答えが返ってくる。
「──ジャックや、お前は強いんだよ。ワシよりもよっぽど強い子ね。他の人の苦しみを背負うことは、本当の強さをもっていないとできないことなのだからね」
そして、どこか懐かしそうにしながらこう続けた。
「お前にとって、それが尊いものならば、その祈りを強く抱きなさい。そうしたら、祈りが背中を押してくれるわ」
「でも婆ちゃん…それじゃあ、それじゃあぼくは…」
その話を聞いても俺は、未だに恐怖していた。あの日見た、理不尽なまでの暴力に立ち向かう勇気。一歩踏み出す為の自信。そんなものが湧いてくる気なんて、さらさらないように思えた。先に広がるであろう後悔と板挟みになったこの矛盾は、ぼくを大いに悩ませた。
婆ちゃんは少し黙った後、たじろいでいた僕を断ち切る。
「いいかいジャック、自分の祈りは信じなさい。自分自身の祈り、一歩踏み出す為のそれを信じることで、人は初めて前に進むことが出来るのよ」
「だからこそ、それは生きることにおいて、とても大切なことなのさ」
「でもばあちゃん、ぼく、そうやって出来る自信がないよ。また逃げちゃうかもしれないし…」
「なら、こうしましょう。”迷うことがあれば、自分だけの祈りに従いなさい”」
「ジャックが生きていく中で、どうすればいいのか本当に分からなくなったときは、この言葉を思い出しなさい。ばぁばとの約束よ?」
あの時に婆ちゃんとしたこの約束は、あの日、一歩踏み出すことが出来なかったぼく。そして、恐怖に立ち向かえていなかった俺にずっと、勇気を与えてくれていたんだ。
* * *
「自分だけの祈りに従え…」
この弱肉強食の世界で俺は、誰にも苦しみに悶えてほしくない。
もう誰も、あの日のような不幸を味わってほしくない。
だからこそ、俺は人を、この世界の理不尽から助けたい──
ジャックはしばらくの思念を終え、そして決意する。
「──行こう」
重い部品がパンパンにつめられた荷物は邪魔になる。
最低限必要なモノだけをお古のハバーサックに突っ込んだ後、残骸から飛び降りたジャックは、一直線に地平線へと向かった。
その拳を固く、握りしめて──
お読みいただきありがとうございます。
不定期ですが、なるべく早く更新できるよう頑張ります。