♯10 旧城塞街商道を行く
──握り締められた腕を抱えて、ジャックは旧市街を歩く。
「まったく、とんだ災難だった…」
青あざのついた右腕を振り解いて、取り敢えず大怪我はしていないことを確認したはいいものの、依然として問題は山積みだ。
──去り際に見た時計は退院開始時間ピッタリの午前9時を指していた。だが、退院時のゴタゴタのせいで時間を浪費してしまった。痛みが治まってきたと思えば、陽は既に頭上より西。今から砂漠に走りでても、陽が沈むまでには帰れないだろう。つまり、今日分の食事や生活費を稼ぐことはできない。
「はぁ…だから教会の奴らとは絡みたくないんだよ…」
婆ちゃんが”ロクなことがないから関わるな”と口酸っぱく言っていたのを、ジャックは今更ながらに噛み締める。
「嘆いても仕方ない、か…今日は飯なしで我慢するしかねぇなあ…」
その日暮らしが日常のジャックにとって、収穫がない日はこのようにして恰好のダイエット期間となってしまう。…あの鞄さえ捨てていなければ、久方ぶりの貯えが出来ていたかもしれなかった。しかしながら、置き去って一週間も過ぎた今では後の祭りである。そもそも、今から向かうにしても夜が降りてくるまでには間に合わないだろう。
安息所の中のような非現実的な場所から、見慣れたエフォロイの中心街に戻ってきたことで、同時に現実的な悩みもぶり返す。
この場所特有の乾いた空気に、砂の色と建物のくすんだ色だけで塗られた単調な景色。道脇に茣蓙やら敷物やらを広げ、日用品から遺物まで様々な物を売り捌く露店商人らに加えて、どこからかやってきたのか、遠路はるばる郷土品や薬なんかの貴重品に、ジャーキーやペミカンのような喉から手が出る程に欲しい保存食を引っ提げてそこら中をひしめく行商人のキャラバン達。その上、彼らが売り出す商品を求めてうろつく空の貿易商人からスラムの根無し草までのサラダボウル。
スラム暮らしのジャックにとって旧城塞の中心街は、売り買い以外にあまり縁のない場所ではあったのだが、それでも現実を思い出させるのには充分だった。
あれこれ考えていると、不意に腹が鳴ったかと思えば、流れる様に猛烈な空腹感がジャックに襲い掛かる。
「ダメだ…あれを見てると余計に腹が空いてくる…」
それもその筈である。彼は安息所にいた10日間の殆どを、ミルヒライスやポリッジのようなお粥だけで過ごしてきたのだ。ヘルシーな病院食としては満点だったのかもしれないが、成長期の青年にとってそれは余りにも酷だった。
「だからって…売れそうなモンなんて何にも持ってないからなぁ」
過去の自分の計画性に期待して、藁にもすがる思いでハバーサックを探ってみるジャック。
案の定、鞄の中には何の残骸も入っていなかった。だが…
「これって、あいつは遺物みたいだとか言ってたような…」
あの日使った謎の装身具。伝言を聞く限りこれ自体としての機能は失っていそうだが、巨剣の言う通り本当に遺物なのだとすれば、中に残った部品や外側の装甲も売れるかもしれない。
──あの炎で全て燃え去ってしまったからこそ、実質的に婆ちゃんの遺品と化していたこの装身具なのだが…何にせよ今は金をどうにかしてこしらえないといけないのだ。もう、つべこべ言ってられる余裕なんてなかった。
* * *
──騒がしい通りや広場を抜けると、表の様相とは一転して、暗い旧市街の裏路地が広がる。
「なんだかここも久しぶりだな、真っ昼間だってのに相変わらず暗いままだし」
普段、出発前の早朝に売りに出すジャックにとって、陽に照らされて明るい中心街はある程度新鮮な風景ではあったのだが…建物が作る影のせいなのか、昼だってのにここは普段と何も変わりやしない。だからこそ、こうした裏路地の治安は良くないのだろう。表じゃまだ見繕っている露天商も一気に様変りして、当たり前のようにジュースや角砂糖なんかを売ってる。尤も、教会以外は誰も取り締まらないのだからこうなって当然ではあるし、スラムに比べればここの方がまだ幾分かはマシなのだろうが…。
そんな陰気な裏路地の一角の、旧市街の跡地に残された建物の一階に埋め込められたかのようにある場所。左側を吊り上げる鎖が錆び付いて千切れてしまったので、片方だけを繋がれて今にも落ちそうにぶら下がっている、見慣れた状態の看板が出迎えてくれるアルトマイヤーの資材買取屋にジャックは辿り着く。
「危ないから看板直しとけって言ってんのに、まだそのまんまじゃねぇか…」
所々へこんでいる上に建付けが悪いのか、歪んでいるその扉をなんとかこじ開けると、良く見知った人影が居た。たかだか10日とはいえ、毎日のように通っていた場所だからこそ少し懐かしく感じるその背中は、普段通り曲がっていた。
「いらっしゃい…すまなかったね、鍵をかけ忘れてたみたいでな。お得意様が消えちまったから、ここはもうお役御免で店じまいなんだよ」
「…或いは、こんな昼間にどかどかとやって来るだなんて、珍しいお客もいたもんじゃな?ん?」
「よっ、じいさん。久しぶり…お、俺だよ、ジャックだよ!」
店だってのに、まるで招かれざる客でも来たみたいな形相で手斧を握りしめこちらを敵視するアルトマイヤーおじさん(といっても、あの時よりも随分とシミも皺も増えてしまったのだから、もうおじいさんなのだろうが)がいた。
「ジャックじゃと…?どうやら、儂もお迎えが近いらしいの…幽霊が店にやって来るだなんてたまげたわい」
「いや、多分だけどまだ死んでないから。ほら、これかけてよ。ユーレイだったら眼には見えない筈…だろ?」
正直な話、今の自分とユーレイとやらの違いを説明できる自信はないが、まずはこの敵対状態を解かないと話にもならない。そう思って、レジ台代わりの机の上に置いてある分厚いレンズの眼鏡をかけさせる。
「…ジャックじゃないか!10日も姿を見せんのだからくたばったと思っとったんだが、生きとったんか!」
「何があったんじゃ!鞄はどうした?売りに来たのじゃないのか?」
眼鏡をかけた途端にこの調子だ。そう思うのに無理はないだろうけど、目を丸くして喜ぶアルトマイヤーじいさんを裏腹に、ジャックはうなだれていた。
「だからいったじゃんかよ…ってちょっと待て、店じまいするのか?!」
質問責めをしていたおじさんは一呼吸して、誤魔化すように言う。
「あ、ああ。それはじゃな、嘘じゃ。お前さんが生きとるならまだ店を畳むわけにはいかん」
「それで?売りにきたんじゃろう?こんな真昼間に来るだなんて、珍しいこともあるもんじゃな?」
「ああ、これをね。どうやら、何かしらの遺物らしいんだけど」
ジャックはハバーサックの中から、例の装身具を取り出す。
「…ジャック、どうしたのじゃその腕は?それに、これっぽちだけだなんてお前さんらしくない」
「そ、そうなんだよ!色々あったんだから?」
見覚えのある冷たい疑いの視線で、アルトマイヤーじいさんは俺を睨み付ける。
二人の間に凍てついたような空気感が流れ、じいさんが漸く口を開いた。
「…お前さん。どうせまた、人助けだかなんだかほざいて、とうとう痛い目にあったのじゃな?」
「ギクッ…」
図星だと言わんばかりの俺の表情を見て、じいさんは再び憤慨する。
「自惚れるな!この馬鹿たれが!お前さんは自分をヒーローかなんかだと勘違いしているようじゃが、それは愚かな間違いなのだと何回言えば気が済むんじゃ!」
「大体お前さんは何の力もない癖に…!ゴホッゴホッグヘァ…」
いつもの説教を始めようとした所で、勢い余ってむせ込んでしまうアルトマイヤーじいさん。やっぱり、昔に比べて元気がなくなったように感じられた。
「と、とにかく…色々あってお金が沢山いるのに、明日の飯すらないんだよね…」
「だからまぁ…それ、壊れちゃったんだけど…出来れば高く買い取ってほしいなぁって…咳、大丈夫?」
「…見せてみい。もう儂も長くないのじゃろうな…この通り、お前さんを叱りつける元気すらない」
アルトマイヤーじいさんは少し落ち込んだ素振りを見せた後、小刻みに震える手で眼鏡を持ち上げて、奥の方にある作業台の上で鑑定を始めた。
* * *
アルトマイヤーじいさんは俺の数少ない知り合いだ。昔から婆ちゃんと仲が良かったらしく、屑拾いの仕事を始めた時はよく、まだ看板が壊れてなかったこの店に一緒に売りに来ていた。婆ちゃんを襲ったあの火事が起きた後も、離れていながらも俺の面倒をこうして見てくれている。まぁ、過剰すぎて余り自由に動けないのが玉にキズなのだけれど…。
鑑定が終わるまで待合の椅子に腰掛けて、机の上に置いてあった知恵の輪に打ち込むジャック。婆ちゃん程ではないが、アルトマイヤーじいさんもかなりの物知りだ。もしかしたら、迷いの森について何か知っているかもしれない。
「…なあ、じいさん。迷いの森って知ってるか?聞いた事があるとかでもいいから教えてくれないか…?」
「知らんな、聞いた事もない」
「そう…なら、いいんだけどよ」
結局、手掛かりはそう簡単には得られなかった。仕方がないとはいえ、これでまたお先真っ暗になってしまった。
「…それ、欲しいならくれてやるぞ」
アルトマイヤーじいさんは落ち込む俺に気を遣ってくれているのだろうが、悠長にこんなもので遊んでいられる余裕はない。
まず今、一番欲しいのは情報だ、ここは変わりない。次にご飯、お陰様で背中とお腹がくっつきそうだ。そして最後に、力…。俺には力がない。それが、立ち止まる理由にはならないけれども、あの日それを痛感することになった。じいさんはきっと、俺に死んでほしくないのだろう。自分でも力量を上回った戯言をやっていることは理解しているつもりだった。その結果がこれじゃ、呆れられるのも当然だ。
そして今、これらについての方法や手掛かりの一つすらも見つけられていない。それでも…。
こうなってしまった以上、最悪じいさんにツケとして払っといてもらうのも手かもしれない。そう思ってジャックは口を開こうとした。すると突如、外が騒がしくなり始める。埃をかぶった窓越しに、人々が中心街広場の方へと走っていくのが見えた。
「広場で何かあったのかな?」
「気にするでない。どうせならず者連中が暴れておるのだとか、貿易商お抱えの便利屋が盗人を成敗しよるのだとか、ワシの家のドアをペシャンコにしよった、あの憎たらしい将軍どもがやってきただとか…どうせ、くだらんことじゃ」
「関わってもロクなことがないわい。だからの、死にたくなければ…」
間違っても関わらない方がいい。恐らく、いつも通りにそう言うのだろう。それでも今、確かに誰かが苦しむ声が体中に響き渡ったのだ。だからこそ、俺は行かなければならない。約束や、契約だなんてどうでもいい。今の自分がどれ程無力なのかは、身をもって理解している。それでも、前に進まなければ近づくことはできないのだとするのならば…自分の願いに、幸せに嘘はつけなかった。
──アルトマイヤーの言葉を聞き終えるよりも先に、ジャックは店を飛び出すのだった。