♯9 依りかかった誓い
──そこで、主は言われました。「剣を鞘に納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる」と──
──ジャックは冷静に、あの夢での出来事を振り返る。
意識を取り戻してから更に三日、今日で晴れて退院日だというのに、ジャックの胸中は晴れなかった。キャラバン隊の無事に蘇生…いや、厳密には蘇生とは言えないのだろうが、もう一度チャンスが得られはした。
勿論、目先の問題として、生命維持費を投げ捨ててしまった事なんかも気がかりではある。だが、ジャックはそれ以上に、悪魔との契約について悩んでいた。
「…生き返らした事はいい、ただ、あいつは何を期待して俺を助けたんだ?」
何もかも、皆目見当がつかない。向こうが出してきた制約の意味も不明だし、あらゆる怨嗟に直面するってどういう…
なにより、”迷いの森”なんて聞いたことがない。多分、どこかの地名なのだろうけど…
「半年…」
”眩く輝く陽光は、殻を失った貴様を焼き尽くす”
──今の俺にとって陽の光は有害、そうやって解釈は出来ても…詳しい事は分からない。ただ、死にたくないのなら、残り少ない制限時間の内、既に九日を無駄にしている中で、場所も分からない上、そこに行くための金も、コネも、力も…。何もかもを持ち合わせていない、ただの屑拾いには酷すぎる現実から、逃れることは出来ないということだけは理解していた。
「他の選択肢があったとも思えないけど、二つ返事で受けてよかったのか?」
「…こんな時に、婆ちゃんが居てくれたらなぁ」
婆ちゃんは何でも知っていた。屑拾いとして生きていく為の知識も、美味しい料理の作り方も…
城塞の外にいる怪物についても、情勢も、歴史も…世界がこうなってしまう前、誰かの理不尽に踏みにじられる日常は無く、人は皆幸せになる権利があったことも…それに、イナゴの弱点や生態だって、全て婆ちゃんが教えてくれたことだ。
「…だからって、弱気になっても仕方ないよな…」
婆ちゃんは、死んだ。どれだけ帰ってきてほしくても、随分離れた所に行ってしまったんだ。あの時の無謀な選択の結果、前よりも状況が随分と厳しくなったのは間違いない。それでも、願いの成就へと着実に進んではいる。現に俺は、生き残った。小さいけれども、成し遂げられた。婆ちゃんから受け継いだ意志は、俺が前に進むのを止めない限り、まだ、途絶えちゃいない。まだ、終わってない。
今考えられるだけでも、逆境は確かに多かった。それでも、ぶち当たってすらない壁に怯えて、望んだ景色を諦めるだなんて、夢を諦めるだなんて、お断りだ。
「進もう、時間が許してくれる限り、前に」
整った寝巻から親しみ深いボロボロな鈍色の半ズボンに履き替えて、コート掛けに雑にぶら下げられたポンチョを纏い、ジャックは770号室を後にした。
* * *
なれない昇降機の操作に苦戦しつつも、ジャックは地上階へと着く。
フロントの檀上には、きちんとした身なりで装飾しきれない程の増悪を抱えた男がいた。
「驚いた、受け付けはてっきり下っ端がやるもんだと思ってたんだけどな」
安息所の院長アルベルトは、貼り付けたような笑顔で応対する。
「ええ、本日は安息日ですからね。…私が代わりにこうしているのですよ」
「はぁ…見るからに高位聖職者の貴方様が、こんな週のど真ん中にね」
アルベルト・ヴォン・ヴォーゲルザング…この男は間違いなく何かを隠している。スラムの裏通りや繁華街なんかでよく見る詐欺街商やならず者らと同じ顔だ。
「…少々、状況が特殊なのですよ」
ジャックには生活費や今後について以外にも不安点があった。それこそが今応対しているこれだ。俺が意識を取り戻して少なくとも最初の検診を受けるまで、この違和感を彼らから感じることは無かった。
──それでもあれ以来、途端に扱いが悪くなって態度だってずっとこんな調子だ。それに、さらに問題な事に理由の見当が全くつかない。スラム出身ってのを話してしまったからなのだろうか?教会にとって、スラムの人間なんてどうでもいい物だと思っていたのだけど…それとも、余程寝相が悪いから迷惑していたのか…?
「お支払いの方は既に完了しておりますので、このまま退院して頂いて問題ありません」
「…まぁ、いいか。ありがと、アルベルトさん」
踵を返して出ていこうとする俺を、アルベルトは引き留める。
「ジャック様、お待ちを…」
「これを、貴方の退院時に渡してくれと任されておりまして」
そう言ってアルベルトは俺に、ペシャンコに潰れた装身具を渡してきた。
「あと、これは伝言です。”何とかできればよかったんだけどな…射出機構はオレの腕じゃどうしようもなかった…大切なモンだっただろうに、すまねぇな”」
…相変わらず素直じゃないな、直接言えばいいのに。
「…そして、これは単に私の所要なのですが…」
アルベルトは低い声で唸ったかと思えば、貼り付けた笑顔の裏に隠していた荒んだ本性をむき出しにして、荷物を受け取ろうとしたジャックの右腕を強く握り締める。
「お、おい!いきなり何すんだよ!いてぇじゃねぇか!」
「…この異端者が。貴様、何の縁故があってそのような方の名前を出せる…」
「異端者だぁ?!何言いがかりつけやがるんだよこのクソ野郎…!」
確かに、教会が俺の事を異端者だと見ているのならば、少なくとも扱いの悪さについて納得できた。
だが、なんで突然異端者扱いされなきゃいけないのかが分からない。そもそも、連中が定めている異端者の基準も謎過ぎる。
「黙れ…薄汚く、卑劣で穢れた、悪魔憑きよ。貴様、我々が奉仕省所属であるのを良い事に…偉大なる主の教えを借りて、我々、癒し手の施しを受けるとは…」
「…早く消え失せろ。2度と私の視線に入らぬ様…今すぐ…」
怨嗟のこもった声で、一通りの怨恨を言い終えると、ようやく俺の腕から手を離した。
「ああ…言われなくても、こっちから願い下げだ。慈善を騙るだけ騙って、理不尽に弱者をいたぶるテメェらなんてな…」
クソが…非暴力を誓っておいてこんな馬鹿力していやがるだなんて…危うく腕ごとへし折られる所だったじゃねぇか…。
──左腕で受け渡しの品をハバーサックに戻し、紫色が滲み出た状態の圧迫痕の残った右腕を抱えて、ジャックは安息所を後にするのだった。
* * *
「──院長様、良かったのですか?異端者を見逃す上、検邪聖省に報告すらしないなんて…」
「そうだよ!アイツ…身の上隠してあんな真似するなんて…完全にふざけてるじゃんか!」
「この前ようやく洗礼を授かったってのに…アイツのせいでまた秘蹟の儀式を受け直さなきゃいけないんだよ?」
「ホンネぶっちゃけると、ギタギタにぶちのめしてやりたいね!」
「…シスター・ヘレン、仕方ないのですよ。この件は我々の手に負える範疇を超えている…」
「そしてだ、ブラザー・ジェリカン。…福音書26章52節を忘れたのか?我々に代行の権利はない」
「も、もちろん覚えてるよぉ…だけどイラつくんだよね~あんな屑に癒しを施しただなんて、思い出しただけでも吐き気が…オエ!」
ジェリカンはわざとらしく、嗚咽する素振りを見せる。
発言を取り消すかの様に、間違いを誤魔化す修道士ジェリカン。しかしながらその程度の弁解では、敬虔な星の信徒アルベルトの叱責からは逃れられない。
「…修道士は皆、清貧で、貞潔で、従順であり続けなければならない。…告解が必要なようだな?」
「シスター・ヘレン、憐れなジェリカンを正さねばならない。懺悔室へと連れて行きなさい。私もあとで向かう」
「仰せのままに、父上」
職務中に着用するナース服から着替え直した修道服を揺らめかせ、ヘレンは強引にジェリカンを連れてゆく。
「ああ!やめてよネリー!ぼく、もう間違わないからさ!お願いだから、そんな非道いことしないで…」
「ブラザー・ジェリカン、これは貴方の為にやらなければならないのです。…耐えてください」
喚くジェリカンを制圧し、彼女は懺悔室へと向かうのだった。
* * *
聖堂に誰も居なくなったことを確認した後、修道院長アルベルトは力の限り強く、祭壇を叩きつける。
「あの小汚い便利屋が…たかだかachtクラスの癖に、修道院司祭たる私を脅すなど…」
「野蛮人め!」
──スタークベッター。彼の者がかけてきた脅しを振り払える程、私に力があるわけではなかった。
「…いいだろう。従おうじゃないか、野蛮人の妄言に」
「しかしだ、私をあまり舐めるでない…」
「…例え検邪聖省に通報出来なくとも、手段はまだ残っている」
アルベルトは徐に、壇下にある受話器へと手を伸ばす。
「…ああ、私だ──仕留められた暁には、普段の倍以上の報酬を払うと約束しよう」
「…必ずだ。必ず始末して焚刑に処せ…分かったか」
──慣れた口調で通話相手と交渉を終え、彼は壇の上で一息つく。
「異端者、ジャックよ。このまま易々と浄化の手から逃れられるなどと思うなよ」
──伽藍洞の聖堂には、檀上に手を組み顎を載せながら、憎しみを眉間の皺に昇華して、独り佇む背教者だけが残った。