♯9 依りかかった誓い
──ジャックは冷静に、あの夢での出来事を振り返る。
部屋の窓から明かりが差し込んでいる。朝だ。ベッドから起き上がったジャックは、出発の準備に取り掛かろうと動き始める。意識を取り戻してから更に三日、今日で晴れて退院日だ。それでも、ジャックの
胸中は晴れなかった。
キャラバン隊の無事だって確認できたし、蘇生……いや、厳密には蘇生とは言えないかもしれないが。とにかく、もう一度チャンスを得られはした。勿論、目先の問題として、生活費を丸ごと投げ捨ててしまった事なんかも気がかりではある。だがそれ以上に、ある問題が頭に取り憑いて離れない。
「……この際だ、生き返れた事はもういい。
ただ、あいつは俺に何を期待して助けたんだ?」
ジャックは腕を組んで天井を見上げた。──悪魔との契約。何もかも、皆目見当がつかない。向こうが出してきた制約の意味も不明だし、あらゆる怨嗟に直面するってどういう……。
なにより、”迷いの森”なんて聞いたことがない。どこか地名の事なのだろうか?
「半年……」
”眩い輝きの陽光は──殻を失った貴様を焼き尽くす”
陽の光は有害。そのように解釈は出来ても、詳しい事は分からない。
ただ、生きたいのなら。残り少ない制限時間の内、もう既に九日も無駄にしてしまっている現状で、場所も分からない上、そこに行くための金も、コネも、力も……何もかもを持ち合わせていない、ただの屑拾いには酷すぎる現実から、逃れられないということは嫌でも理解できる。
「他の選択肢があったとも思えないけど、二つ返事で受けてよかったのかな」
「こんな時に、婆ちゃんが居てくれたら……」
ジャックは溜息を吐く。生きていく為の知識に、美味しい料理の作り方。城塞の外にいる怪物の事や、世界情勢に、歴史……こうなってしまう前の世界には、誰かの理不尽に踏みにじられる日常は無く、人は皆幸せになる権利があったこと──婆ちゃんは何でも知っていた。
それこそイナゴの弱点や生態だって、全て婆ちゃんが教えてくれたことだ。余りに多くの事を婆ちゃんに任せてしまっていたことを、今更ながらジャックは悔やむ。
「だからって、ずっと弱気のままでいても仕方ないよな」
両の頬を手で打つ。──婆ちゃんは、死んだ。どれだけ帰ってきてほしくても、もう随分離れた所に行ってしまったんだ。あの時の無謀な選択の結果、前よりも状況が随分と厳しくなったのは間違いない。
それでも、願いの成就へは着実に進んでいる。……現に生き残った。小さいけれど、成し遂げられた。
婆ちゃんから受け継いだ意志は、前に進むのを止めない限り、まだ途絶えちゃいない。終わってない。
考えられるだけでも、逆境は確かに多い。それでも、当たってすらない壁に怯えて、望んだ景色を諦めるだなんて、夢を諦めるだなんて……お断りだ。
「進もう。時間が許してくれる限り、前に」
不相応に整った寝巻から馴染むボロボロの半ズボンに着替え、コート掛けに雑にかけられたポンチョを纏い、どこで拾ったのかも分からない薄汚れた紐靴を履き、ジャックは770号室を後にした。
* * *
割れるような衝撃の後、ドアがガラガラと音を立てる。なれない昇降機の操作に苦戦しつつも、ジャックを乗せたゴンドラは地上階へ舞い降りる。
ステンドグラスを透き通る、鮮やかな色の光に照らされたフロント。檀上には、きちんとした身なりだけでは装いきれない、煮立つ憤怒を抱えた男がいた。
「驚いた、受け付けはてっきり下っ端がやるもんだと思ってたんだけど」
安息所の院長アルベルトは、貼り付けたような笑顔で応対する。
「ええ、本日は安息日ですから。
私が修道者達の代わりを請け負っているんですよ」
「はあ、見るからに高位聖職者の貴方様が、こんな週のど真ん中にね」
ジャックは彼の顔をまじまじと見た。アルベルト・ヴォン・ヴォーゲルザング……間違いない。この男は何かを隠している。スラムの裏通りや繁華街なんかでよく見る、詐欺街商やならず者らと同じ。薄っぺらい面だ。
「……少々、状況が特殊なのですよ」
不信を感じ取ったのか、付け加える様にアルベルトは吐き捨てる。
ジャックには、生活費や今後どうするかについて以外にも不安点があった。それこそが今応対しているこれだ。意識を取り戻してから、少なくとも最初の検診を受けるまで、この違和感を彼らから感じることは無かったのだが……
以来、途端に敵意が滲み出て伝わる。態度だってずっとこんな調子だ。厄介なことに理由の見当が全くつかない。スラム出身ってのを話してしまったからか? それとも、余程寝相が悪くて迷惑していたのだろうか? 教会にとっては、相手がスラムの人間かどうかなんてどうだっていい事だろう。ジャックは俄然納得出来なかった。
「お支払いの方は既に完了しておりますので、このまま退院して頂いて問題ありません」
アルベルトは丁寧に告げる。──いくら態度が悪くても付きっきりで看病をしてくれていたのは紛れもない事実。恩人に対してこれ以上、謂れのない疑心を向け続けるのは失礼だろう。
「……ま、気にしても仕方ないよな。ありがと、アルベルトさん」
踵を返して出ていこうとするジャックを、アルベルトはゆっくりと引き留める。
「ジャック様、お待ちを」
「これを……貴方の退院時に渡してくれと任されておりまして」
そう言うと彼は、ペシャンコに潰れた装身具を手渡す。
「それと、伝言も預かっております。
”何とかできればよかったんだけどな、精密部品が難解すぎてオレの腕じゃどうしようもなかった。
大切なモンだっただろうに、すまねぇな”──だそうです」
ジャックは最後に見た巨剣の怒り具合を思い出す。……素直じゃないな、直接言えばいいのに。
「そして、これは単に私の所要なのですが──」
アルベルトは低い声で唸る。瞬間、辺りを取り巻く空気が重く冷えた。ジャックは思わず半歩だけ後退りする。二人の間に緊張が走ったのも束の間、アルベルトは貼り付けた笑顔の裏に隠していた、荒んだ本性をむき出しにして、荷物を受け取ろうとしたジャックの右腕を強く握り締めるのだった。
「お、おい! いきなり何すんだよ、痛ぇじゃねぇか!」
「──この異端者が。
貴様、何の縁故があってそのような御方の名前を出せる」
「異端者だあ?! 何言いがかりつけやがるんだよッこのクソ野郎!」
ジャックは戸惑いつつも、確かに腑に落ちた。教会が異端者だと見なしているのならば、少なくとも今までの不愛想について頷ける。──だけど、なんで突然異端者扱いされる必要があるってんだよ? そもそも、連中が定めている異端者の基準だって謎過ぎる。
今までの冷静さが嘘の様に、アルベルトは声を張り上げた。
「黙れ! 薄汚く、卑劣で穢れた、悪魔憑きよ。
貴様……我々が奉仕省所属であるのを良い事に、偉大なる
主の教えを濫りにして、癒し手の施しを受けるとは」
「……消え失せろ。二度と私の視線に入らぬ様、今すぐに」
怨嗟のこもった声で一通りの恨み言を告げ終えると、彼はようやく、ジャックの腕から手を離した。
「ああ、言われなくてもこっちから願い下げだ!
……慈善を騙るだけ騙って、理不尽に弱者をいたぶるテメェらみたいなカルト野郎なんてな」
ジャックは一喝する。──非暴力を誓っておいて、こんな馬鹿力を隠していやがるだなんて……危うく腕ごとへし折られる所だったじゃねぇか。
──左腕で受け渡された品をハバーサックに戻し、紫色の圧迫痕が浮かぶ右腕を抱えながら、彼は安息所を後にするのだった。
* * *
修道女ヘレンが、すぎた嵐を懐かしむように口を開く。静けさが舞い戻ったロビーを再び色づけた。
「──院長様、良かったのですか?
異端者を見逃す上、検邪聖省に通報すらしないなんて……」
「そうだよ! アイツ、ぼくたちを脅してまであんな真似するなんてさ
完全にふざけてるじゃんか!」
「この前よーやく洗礼を授かったってのに、アイツのせいでまた秘蹟の儀式を受け直さなきゃいけないんだよ?」
「ホンネぶっちゃけると、ギタギタにぶちのめしてやりたいね!」
先走る彼女の威を借るように、新米修道士ジェリカンがペチャクチャと物申す。
アルベルトは再び、部下に対して落ち着いた素振りで演じた。
「……シスター・ヘレン、仕方ないのですよ。この件は我々の手に負える範疇を超えている」
「そしてだ、ブラザー・ジェリカン。
福音書26章52節を忘れたのか? 我々に代行の権利はない」
「も、もちろん覚えてるヨォ。だけど、イラつくんだよね~ あんな屑に癒しを施しただなんて
思い出しただけでも吐き気が……オエ!」
ジェリカンはわざとらしく、嗚咽の素振りをして見せる。
発言を取り消すかの様に、過ちを誤魔化すジェリカン。しかしながらその程度の弁解では、敬虔な星の信徒アルベルトの叱責からは逃れられない。
「修道士は皆、清貧で、貞潔で、従順であり続けなければならない。
──告解が必要なようだな?」
「シスター・ヘレン、憐れなジェリカンを正さねばならない。
懺悔室へと連れて行きなさい。私もあとで向かう」
「仰せのままに、父上」
職務中のナース服から着替え直した修道服を揺らめかせ、ヘレンは強引にジェリカンを引き摺る。
「ああ! やめてよネリー! ぼく、もう間違わないからさ!
お願いだから、そんな非道いことしないで……」
「ブラザー・ジェリカン、これは貴方の為にやらなければならないのです。……耐えてください」
喚くジェリカンを制圧し、彼女は懺悔室へと向かうのだった。
* * *
聖堂に誰も居なくなったことを確認した後、修道院長アルベルトは力の限り強く、祭壇を叩きつける。
「あの小汚い便利屋風情が……
たかだかachtクラスの癖に、修道院司祭たる私を脅すなど」
「野蛮人め!」
木を叩きつけた時の鈍い音と、アルベルトの遠吠えの様な怒りの声だけが礼拝堂に反響する。
アルベルトはミシミシと歯ぎしりをした──スタークベッター。彼の者がかけてきた脅しを振り払える程、私に力があるわけではない。
「……いいだろう。
従おうじゃないか、野蛮人の妄言に」
「しかしだ、私をあまり舐めるなよ」
「例え、検邪聖省に通告出来なかろうとも、取り得る手段がなくなったわけではない」
アルベルトは徐に、壇下にある受話器へと手を伸ばす。
「……ああ、私だ──仕留められた暁には、倍以上の報酬を払うと約束しよう」
「必ずだ、必ず始末して焚刑に処せ。くれぐれも、跡形も残らぬ様。
分かったか」
慣れた口調で通話相手と交渉を終え、アルベルトは壇の上で一息吐くのだった。
「異端者、ジャックよ。このまま易々と浄化の手から逃れられるなどと思うなよ」
彼は落ち着かない様子の右手を制して、受話器を壇下へと置き戻す。
──三時課を告げる鐘の音が一斉に鳴り響く。伽藍洞の聖堂には、檀上に手を組み顎を載せながら、借り物の憎しみを眉間の皺に昇華して佇む、独りの背教者だけが残った。




