第3話:異世界式コーヒー、はじめの一歩
古物商の老人からボロ屋の鍵を受け取り、手持ちの金をほとんど使い果たした俺、ケンジは、すぐに市場へ戻った。目的はただ一つ、あの「コーヒー豆」らしきものを手に入れることだ。
埃をかぶった、あの小さな茶色い豆。染料か何かに使われていると言っていたが、どう見ても俺の知っているコーヒー豆だった。もしあれが本当にコーヒーになるなら、俺の異世界での人生は、ここから始まる。
豆が置かれていた露店を見つけると、初老の女性が店番をしていた。並んでいるのは、布地や、何かの実、乾燥させた草など、色々なものだ。その一角に、目当ての豆の袋が積まれていた。
「すみません、この豆についてお伺いしたいのですが」
俺が指差すと、女性は怪訝な顔をした。
「ああ、これかい? クロマメだよ。あんた、こんなもんどうするんだい? 染料にはなるが、食えたもんじゃないよ。苦くてね」
やはり、この世界では食用として認識されていないらしい。地元の呼び名は「クロマメ」か。
「いえ、ちょっと試してみたいことがありまして。これを少し譲っていただけませんか?」
「へえ、変わったお客さんだねぇ。まあ、こんなもん、埃をかぶってるよりマシさ。持ってきな。いくらいるんだい?」
俺は、残ったわずかな硬貨を全て女性に見せた。彼女は目を丸くする。
「へっ、こんなはした金でいいのかい? まあいいさ。どうせ大した値もつかないものだしね。このくらいの量でいいかい?」
彼女は、片手で掴めるくらいの量の豆を小さな布袋に入れてくれた。これでも、俺の全財産に近い金額だ。彼女は首を傾げながらも、代金を受け取ってくれた。
「ありがとうござます! 大事にします!」
俺が深々と頭を下げて感謝すると、女性は「まったく、妙な奴だねぇ」と呟きながらも、少しだけ優しい顔になった気がした。
クロマメの入った袋を握りしめ、俺は自分の「店舗」へと戻った。
あのボロボロの建物に入るのは、契約以来二度目だ。湿った空気とカビ臭さが鼻を突く。
「さて…ここからだな」
まずは、この豆が本当にコーヒーになるかを確認する作業だ。
コーヒー豆を淹れるには、まず「焙煎」が必要だ。生豆を煎ることで、あの独特の香りと風味を引き出す。
建物の中に、石造りの古い暖炉があるのを見つけていた。火を起こすことはできそうだ。問題は、豆を均一に煎るための道具。前世なら専用の焙煎機や、せめてフライパンでもあれば良かったのだが、ここには何もない。
周りを見渡すと、建物の隅に使い古された、平たい金属の板が落ちているのを見つけた。何かの台に使われていたものだろうか。埃を払い、軽く拭いてみる。歪んでいるが、熱すれば使えそうだ。
よし、これを使おう。
暖炉に乾燥した枝や木っ端を集めて火を起こす。火の勢いが安定してきたら、金属板を火の上に置いた。熱が伝わってくるのを確認し、布袋からクロマメを少量取り出し、板の上に広げる。
ジー…という小さな音を立てながら、豆が熱せられていく。煙が立ち込め、最初は青臭いような匂いがした。
頃合いを見て、近くにあった木の棒切れで豆をかき混ぜる。均一に火を通すのは難しい。焦げ付きそうな豆を慌てて移動させる。
しばらくすると、豆の色が変わってきた。緑色から、黄色、そして薄茶色に。そして、パチパチと小さな破裂音が聞こえ始めた。これは「ハゼ」だ!
間違いない。この豆は、コーヒー豆だ!
感動に打ち震えながら、更に混ぜ続ける。色は濃い茶色へと変化し、あの、待ち焦がれた香りが辺りに満ちてきた。芳醇で、少し焦げたような、何とも言えない落ち着く香り。
しかし、均一に煎れていないため、煙もすごい。顔を煤だらけにしながらも、ケンジは夢中で豆を煎り続けた。これだ。この香りだ。
煎り終えた豆を金属板から別の場所に開け、冷ます。見た目は不均一で、中には炭のように真っ黒になったものや、まだ茶色になりきっていないものもある。プロから見れば失格な代物だろう。でも、俺にとっては宝物だ。
次は、煎った豆を挽く「粉砕」の作業だ。
前世なら電動ミルや手挽きミルを使うところだが、もちろんここにはない。どうする?
建物の外に出て、適当な石を二つ拾ってきた。一つは平たい台に、もう一つは叩く用だ。
平たい石の上に煎った豆を置き、もう一つの石で叩き潰していく。ゴリッ、ゴリッ、と原始的な音が響く。
細かくなりすぎたり、粗すぎたり。これもまた不均一な粉になった。量も少ししかない。
最後に、「抽出」だ。
温かいコーヒーを飲むには、湯が必要だ。再び暖炉に火を熾し、金属板…では湯は沸かせない。何か容器はないか? 辺りを探し回ると、錆びついた鉄鍋のようなものが転がっていた。洗って使えるか? 水源は?
幸い、建物の裏手に小さな井戸があるのを見つけた。柄杓で水を汲み上げ、鉄鍋で暖炉の火にかける。
湯が沸くのを待つ間に、使うカップを探す。残念ながら、きれいなカップなどない。転がっていた欠けた陶器のかけらや、木でできた歪な椀などしかない。仕方なく、一番マシに見える、底が平らな石器のような椀を選ぶ。
湯が沸いた。椀に粗挽きの豆の粉を入れ、そこに熱湯を注ぐ。
ブワリと、粉が浮き上がり、香りが一層強くなる。だが、濾すものがないので、粉がそのまま湯の中に沈んでいる。
見た目は、お世辞にも美味しいとは言えない、濁った黒い液体だ。
それでも、ケンジは震える手でその椀を持ち上げた。
苦労して見つけ、原始的な方法で煎り、挽き、淹れた、異世界で初めての「コーヒー」だ。
温かい椀を両手で包み込み、立ち込める香りを深く吸い込む。
そして、覚悟を決めて、一口啜った。
…苦い。そして、焦げっぽい味がする。舌触りも悪く、ザラザラと粉っぽい。
だが――その奥に、紛れもない、あの独特の風味が確かにあった。
複雑で、奥深く、そして心を落ち着かせる、コーヒーの味が。
「…コーヒーだ」
思わず、声に出していた。 粗雑だけど、 燻製っぽい。だけど、 雑然としつつもこれは、俺の知っているコーヒーの味だ。
目頭が熱くなる。前世の過労も、異世界での不安も、この一口のコーヒーの前ではどうでもよくなった気がした。
だが、すぐに現実に引き戻される。
一杯淹れるだけでこれだけ大変だ。これを毎日、何杯も、もっと美味しく、お客様に出すとなると…必要なものは山ほどある。
綺麗な水、均一に焙煎できる道具、細かく粉砕できるミル、クリアな抽出ができる器具、清潔なカップ、そして、砂糖やミルク、スイーツに使う小麦粉や卵…全てが、ここには簡単には手に入らないものばかりだ。
道のりは、果てしなく長い。
資金はゼロ。道具は原始的。材料も限られている。
それでも、ケンジは手に持った椀を見つめ、静かに決意を固めた。
この、異世界の片隅のボロ屋で、俺は必ず最高のカフェを作り上げてみせる。
この最初の一杯が、その確かな証拠だ。
「…よし」
椀の中の黒い液体を飲み干し、ケンジは立ち上がった。
「ここからだ。本当の仕事は、これからだ!」
外は、まだ見慣れない異世界の夕暮れが始まっていた。
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