第17話:アニャさんのコーヒーと、広がる輪
魔法士たちの間で静かな評判を呼び始めた「カフェ・エトワール」。俺、ケンジは、彼らがもたらす知識の探究心と、コーヒーへの純粋な感動に触れるたび、このカフェを始めて本当に良かったと実感していた。日々の売上も少しずつ安定し、フリッツ親方への支払いも順調に進んでいる。
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そんなある日、店に顔を出したのは、市場の野菜売り、アニャさんだった。いつも心配そうに俺の身を案じてくれる、優しい女性だ。
「にいちゃん、今日も頑張ってるね。あんたの店、最近、変なローブを着た客がよく来てるって市場で噂になってるよ」
アニャさんはそう言って、カウンターに腰掛けた。彼女は、まだ店でコーヒーを飲んだことがない。以前、カウンターを磨いていた時に立ち寄ってくれたが、その時は「また今度ね」と言って帰って行ったのだ。
「アニャさん、今日はどうですか? 私の『コーヒー』、試してみませんか?」
俺は、最高の笑顔で勧めた。彼女には、店を始めたばかりの頃からずっと世話になっている。市場での仕事も、アニャさんの紹介がなければ成り立たなかっただろう。この恩人に、俺の最高のコーヒーを味わってほしい。
「あんたのそんな顔見たら、断れないねぇ。じゃあ、一杯だけ、もらおうかね」
アニャさんは、少し照れくさそうに笑った。
俺は心を込めて、クロマメを焙煎ドラムで煎り、グラインダーで挽き、そして布フィルターをセットしたドリッパーで丁寧に抽出した。カウンターに淹れたてのコーヒーカップと、焼きたてのクッキーを置く。
アニャさんは、まずカップから立ち上る、甘く芳醇な香りを深く吸い込んだ。その表情が、驚きに変わる。
「これは…! 野菜や果物にはない、不思議な香りだねぇ」
そして、ゆっくりと一口、コーヒーを口にした。
その瞬間、アニャさんの目が大きく見開かれた。彼女の表情は、驚き、感動、そしてどこか懐かしむような複雑なものに変わっていった。
「…あ…」
アニャさんの手から、思わずカップが滑り落ちそうになるのを、俺は慌てて支えた。
「にいちゃん…これは…これは…!」
アニャさんは、震える声でそう呟いた。その瞳には、うっすらと涙が浮かんでいる。
「この味…こんなにも温かくて…心が落ち着く飲み物、初めてだよ…」
彼女はそう言って、再びゆっくりとコーヒーを味わった。一口、また一口と飲むたびに、アニャさんの顔から、市場での忙しさや、日々の疲れが溶けていくように見えた。
「あんた…こんなすごいものを作っていたのかい…」
アニャさんは、そう言って、優しく微笑んだ。その笑顔は、これまでの彼女のどの笑顔よりも、穏やかで、そして心からのものだった。
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アニャさんは、それから何度か店に立ち寄ってくれるようになった。彼女はコーヒーを飲むたびに、まるで心の疲れが癒されるかのように、穏やかな表情を見せた。
「このコーヒーを飲むとね、市場での嫌なことも忘れられるんだよ。不思議な力があるねぇ」
彼女の言葉は、俺のコーヒーが、単なる飲み物ではなく、人々の心に寄り添う「癒し」の存在になりつつあることを示していた。
そして、アニャさんをきっかけに、市場の人々も少しずつカフェに興味を持ち始めた。
「アニャさんがそんなに言うなら…」「変なローブの客が来るって噂の店か?」
最初は物見遊山のような顔で訪れる者もいたが、一度コーヒーとクッキーを口にすれば、皆がその味に驚き、感動した。
「こんな美味い飲み物があるなんて!」「この甘い菓子も、食べたことがない味だ!」
彼らは、最初は遠慮がちに注文したが、すぐに常連となり、仕事の合間に店を訪れるようになった。大声で笑ったり、悩みを打ち明けたり、市場の出来事を語り合ったり…俺のカフェは、魔法士たちの「隠れ家」であると同時に、市場の人々にとっても、新たな「憩いの場」になりつつあった。
◆
店は、以前のような静けさとは打って変わり、時間帯によっては賑やかになるようになった。
俺は、焙煎ドラムを回し、グラインダーを挽き、丁寧にコーヒーを淹れる。そして、オーブンで焼きたてのクッキーを提供する。忙しいが、充実した日々だ。
人々の会話が飛び交う中、俺はカウンターの奥で、静かに彼らの笑顔を見つめた。
前世で夢にまで見た、「自分のカフェ」。
それは、今、この異世界の街で、確かに息づいている。
そして、この店を訪れる人々が、笑顔になるたびに、俺の心もまた満たされていくのを感じた。
「カフェ・エトワール」の光は、少しずつ、街全体に広がり始めていた。