第15話:開店準備、そして最初の客
クッキーの成功は、俺、ケンジにとって大きな自信となった。フリッツ親方が築き上げたオーブンは、まさに夢を形にする魔法の箱だ。以来、俺は市場での仕事とカフェの内装作業に加え、クッキーの試作に没頭するようになった。小麦粉の種類、脂の配合、焼き時間、温度…前世の記憶とこの世界の材料を照らし合わせながら、試行錯誤を繰り返す。焦がしたり、生焼けになったりすることもあったが、そのたびに改善点を洗い出し、レシピを磨き上げていった。
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カフェの内装も、いよいよ大詰めだ。
カウンターはニスを塗って磨き上げ、素朴ながらも温かみのある仕上がりになった。焙煎ドラム、グラインダー、フィルターホルダーが綺麗に並び、一目で「ここで特別な飲み物を作っている」とわかるようになった。
客席には、フリッツ親方の工房から譲ってもらった分厚い板を加工して、シンプルな木製のテーブルを二つ設置した。椅子は、市場で手に入れた丈夫な木箱を布で覆い、クッション代わりにしたものだ。見た目は簡素だが、座り心地は悪くない。
壁には、市場で手に入れた素朴な絵をいくつか飾った。この世界の植物や動物が描かれたものだ。ランプには、アニャさんが分けてくれた、見たこともない花を活けた。店全体に、少しずつだが、俺の「カフェ」の息吹が宿っていく。
最後に、店の名前を決めた。
「カフェ・エトワール」。
エトワールとは、この世界の言葉で「星」を意味する。暗い夜空に輝く星のように、この場所が、この街の人々の心を照らす憩いの場になってほしい。そんな願いを込めた。
店先に、簡単な木製の看板を掲げた。拙い文字で「カフェ・エトワール」と書かれた看板は、まだ少し頼りないが、俺にとっては夢への第一歩を告げるものだった。
金銭面は依然として厳しい。材料費はかかるし、フリッツ親方への支払いはまだ残っている。しかし、もう開店を先延ばしにする理由はない。完璧を求めていれば、いつまでも開店できないだろう。
この世界の常識では、店というのは商品が外から見えるように開け放たれているか、活気のある通りに面しているのが普通だ。俺の店は、少し奥まった場所にある、ボロ屋を改築しただけの、見た目は地味なカフェだ。最初は誰も来てくれないかもしれない。
それでも、俺は決めた。
明日、開店する。
◆
迎えた開店の日。
朝早くから店に立ち、念入りに掃除をする。焙煎ドラムとグラインダーを磨き、布フィルターを新しく用意した。オーブンには早めに火を入れ、いつでもクッキーが焼けるように準備を整える。
カウンターの上に、淹れたてのコーヒーの香りが漂うように、少量の豆を挽いて置いておく。焼きたてのクッキーの甘い香りが、外にまで届くように、店の扉を少しだけ開けた。
開店準備は万端。
しかし、昼を過ぎても、誰も来ない。当然だ。この街に「カフェ」なんて概念はないし、そもそもこの店は目立たない。
「はは…まあ、最初から上手くはいかないか」
独りごちて、カウンターの奥で今日の売上を計算する代わりに、明日の仕入れ計画を立てていた。
その時だ。
カラン、と小さな鈴の音がした。店先に吊るした、古い鈴が鳴った音だ。
顔を上げると、そこに立っていたのは、見慣れた顔だった。
「ケンジ殿」
柔らかな笑みを浮かべていたのは、魔法士のオーリだ。彼は、以前オーブンを見に来た時に、完成した暁には「焼き菓子」を試食させてほしいと言っていた。
「オーリさん! いらっしゃいませ!」
俺は慌てて立ち上がり、最高の笑顔で彼を迎えた。
オーリは、店の様子を見回した。簡易なカウンターとテーブル、そして棚に並べられた道具たち。
「これは…ずいぶんと整いましたな。まるで…魔法の工房のようだ」
彼はそう言って、目を輝かせた。
「あの、もしよろしければ、私が作った『コーヒー』と『焼き菓子』を…」
俺は、緊張しながらも自信を持って彼に提供した。
オーリは、差し出されたコーヒーカップとクッキーを前に、改めて感動したように目を閉じ、深く香りを吸い込んだ。
「これほど甘く、芳しい香りは…そう、私の知る限り、この世界では他にありません」
彼はそう言って、一口、コーヒーを口にした。
透き通った琥珀色の液体が、カップからオーリの口へと運ばれる。
その瞬間、彼の顔に、再び驚きと、そして至福の表情が浮かんだ。
「…素晴らしい。これほど澄んで、これほど奥深い味わいの飲み物…初めてです。まさに、賢者の塔の秘薬のようですな」
オーリは心から感動したように、そう呟いた。
そして、クッキーを一口。
サクリ、という心地よい音。
「この食感…この甘さ…!」
彼は、子供のように目を輝かせた。
「ケンジ殿。これは、この街に、いや、この世界に、新たな歴史を刻むものとなるでしょう。私は確信しました」
オーリは真剣な表情で、俺にそう告げた。
最初の客。それは、コーヒーと焼き菓子の真価を理解してくれる、最高の客だった。
「…ありがとうございます、オーリさん」
俺は、嬉しさで胸がいっぱいになった。
この日、「カフェ・エトワール」は、静かに、だが確かに、異世界の片隅でその産声を上げたのだ。