第12話:レンガと希望と、もう一人の訪問者
フリッツ親方との交渉を終え、俺、ケンジは文字通り、一文無しになった。オーブンに必要な材料費として、これまで市場で稼いだ硬貨のほとんどを前金として支払ったのだ。残ったのは、ほんの数枚の銅貨と、フリッツ親方への信頼、そして未来への希望だけだ。
だが、後悔はなかった。最高のコーヒーが淹れられるようになった今、次に目指すのは最高の焼き菓子。そのためにはオーブンが不可欠だった。たとえ全財産をはたいてでも、フリッツ親方のような腕を持つ職人の助けが必要だったのだ。
翌日から、俺の異世界での「商社マン」生活はさらに過酷になった。日中は市場で精力的に働き、日銭を稼ぐ。夕方にはフリッツ親方の工房に顔を出し、彼の手伝いをする。レンガを運び、土を練り、道具を整理する。力仕事がメインだが、俺は前世の商社で培った「顧客満足」の精神を胸に、文句一つ言わずに働いた。
フリッツ親方は相変わらず無口で気難しいが、俺が真剣に作業に取り組む姿を見て、少しずつ口数が増えてきた。オーブンの設計について、熱の通り道や煙の抜け方、蓄熱の重要性などを、図面を指しながら教えてくれる。それはまるで、かつて俺が仕入先工場で、商品の製造工程について学んだ日々を思い出させた。俺は必死でその知識を吸収した。いつか自分でオーブンを直したり、もっと別の窯を作ったりする日が来るかもしれないからだ。
一方で、カフェとなる建物の改修も手は抜かなかった。日々の稼ぎの中から、少しずつ木材や塗料を買い足し、カウンターをより頑丈に、壁をより綺麗に仕上げていく。客席となるテーブルや椅子はまだないが、シンプルな木製のベンチくらいなら自分で作れるかもしれない。一つ一つの作業が、カフェの完成に近づいている証拠だった。
そんなある日のことだ。フリッツ親方の工房で、俺がせっせとレンガを運んでいると、一人の男が工房の入り口に立っているのに気づいた。
スラリとした長身で、上質なローブを纏っている。年の頃は二十代後半だろうか。整った顔立ちで、どこか浮世離れした雰囲気を持つ男だ。その男が、俺とフリッツ親方が築いているオーブンの骨組みを、じっと見つめている。
フリッツ親方は、男に気づくと露骨に顔をしかめた。
「…なんだ、お前か。何の用だ。俺は今、奇妙な窯で忙しいんだ」
親方の言葉から察するに、顔見知りのようだ。
男はフリッツ親方の無礼な態度を気にする様子もなく、優雅な仕草でオーブンを指差した。
「フリッツ殿。これは…見慣れない構造の窯ですな。熱源の配置と煙突の抜き方、そしてこの二重壁の設計…これほどの効率性を追求した窯は、私の知る限り、この街には存在しません」
男は、オーリという名の若き魔法士だった。彼の専門は「熱魔法」だという。彼は街の賢者の塔に所属しており、フリッツ親方とは以前、特殊な熱源を必要とする実験のために、特殊な窯の製作を依頼した縁があったらしい。
オーリはフリッツ親方に、「これは一体何に使う窯なのか?」と尋ねた。
親方は俺をちらりと見て、めんどくさそうに答えた。
「なんでも、『焼き菓子』とやらを作るそうだ。豆のあんちゃん、あとはお前が説明しろ」
俺は、オーリという魔法士の視線を受けながら、オーブンで「焼き菓子」を作る目的と、その菓子の魅力を語った。そして、このオーブンが、いかに効率的で精密な熱制御を可能にするか、フリッツ親方から学んだ知識も交えながら説明した。
オーリは、俺の話を真剣な表情で聞いていた。彼の瞳には、魔法の知識を学ぶ者特有の、純粋な探究心と好奇心が宿っているように見えた。
「なるほど…熱魔法の理論から見ても、非常に理にかなった設計ですな。特に、この熱の循環と蓄熱の概念は、応用が利きそうだ。ぜひ、完成した暁には、その『焼き菓子』とやらを試食させていただけないでしょうか?」
オーリは、そう言って、俺に優雅な微笑みを向けた。
まさか、こんな場所で魔法士と出会うとは。しかも、オーブンという「科学」の塊に、彼らが興味を持つとは。この出会いは、単なる偶然ではない、何か特別な意味があるのかもしれない。
フリッツ親方は、「勝手にしろ」とばかりに作業に戻ってしまったが、オーリはしばらく俺の作業を手伝いながら、熱の理論や、魔法と科学の共通点について語り合った。彼の持つ魔法に関する知識と、俺の持つ科学的な知識が、意外なところで繋がり、新たな発見があることに驚いた。
◆
日が傾き、俺はボロ屋へと帰る。体は疲労で限界だが、心は充実していた。
フリッツ親方との共同作業は順調に進んでいる。そして、オーリという予期せぬ出会いがあった。彼の持つ魔法の知識が、いつかカフェに役立つ日が来るかもしれない。
まだ骨組みだけだが、オーブンは少しずつ形になりつつある。レンガの壁が積み上がり、熱を閉じ込めるための空間が姿を現してきた。完成までは、まだ多くの時間と労力が必要だろう。そして、金銭的な問題も常に付きまとう。
しかし、俺の夢は、着実に現実へと近づいている。
最高のコーヒーがある。そして、最高の焼き菓子を作るための道も見えてきた。




