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第1話:過労死と異世界と、小さな閃き

カチ…、カチ…、と無情な音が響く。壁の時計は深夜3時を指している。

目の前のデスクには、処理しきれない書類の山。パソコンの画面からは、明日には絶対にやらなければならないタスクリストが怨嗟の声のように訴えかけてくる。


俺、佐藤健司さとうけんじ、32歳。肩書は大手総合商社の社員だが、実態は万年終業を過ぎても終わらない業務に追われる社畜、いやブラック企業戦士だった。


「あー…、疲れた…」


思わず漏れた声は、枯れきっていて自分でも驚くほどだ。ここ数週間、まともに家に帰って飯を食い、布団で寝た記憶がない。エナジードリンクとカップ麺、そして僅かな仮眠だけが俺の生命線だった。


体は鉛のように重い。頭はガンガン痛む。このままでは本当にヤバいかもしれない。

そんな危機感の一方で、「でも、この仕事を終わらせないと…」という強迫観念が体を動かそうとする。もはや思考は停止し、条件反射だけでキーボードを叩いているような感覚だ。


せめて、せめて一杯…。

キンと冷えた水もいいが、今欲しいのは、あの芳醇な香り。心を落ち着かせ、体に染み渡るような、温かい一杯。

こだわって豆を挽き、丁寧にドリップした、あの――


…ああ、意識が遠のく。キーボードに額がぶつかる鈍い音を聞いた気がしたが、もはや何も感じなかった。


次に目が覚めた時、まず感じたのは、土の匂いと、ひんやりとした空気だった。


…あれ? 俺、会社にいたはずじゃ?


体を起こすと、石畳の上に寝転がっていたらしい。見上げると、知らない空があった。青く澄み渡っていて、雲一つない。そして、周囲は見たことのない建物が立ち並んでいた。


石造りの重厚な壁、尖った屋根。行き交う人々は、麻や皮と思しき素材の、見慣れない衣服を着ている。馬が引く荷車が通り過ぎ、耳慣れない言語で会話している声が聞こえる。


まるで、ファンタジー映画のセットみたいだ…と、一瞬場違いな感想が浮かぶ。


しかし、どう見てもCGやテーマパークではない、生々しい現実感がある。自分の体を確認すると、着ているのは会社帰りと同じスーツではない。洗いざらされた、簡素なチュニックとズボンだ。持っていたはずの鞄もスマホもない。


まさか…。

過労で倒れて、夢を見ている? いや、妙に感覚がはっきりしている。

それとも、流行りの…「異世界転移」ってやつか?


混乱しながらも、ケンジは立ち上がって街を歩き始めた。言葉はなぜか理解できる。どうやらこの世界の言語が、自分の脳に直接流れ込んできているらしい。ありがたいが、これ自体がファンタジーすぎる。


街は賑わっていた。露店が並び、人々が行き交う。活気はあるが、どこか洗練されていない印象を受けた。

並んでいる商品は、食料品は素朴なパンや干し肉、野菜。道具類は手作り感満載の木製品や簡単な金物。


特に、食に対する考え方が根本的に違うようだった。

屋台で売られている料理は、焼いただけ、煮ただけといったシンプルなものが多い。栄養を摂るための「食事」であり、「味わう」「楽しむ」といった要素が薄い。

人々は立ったまま、あるいは道の端に座って急いで食事を済ませる。食後のデザートという概念はなさそうだ。


飲み物も、水か、アルコール度数の高い酒か、薬草を煮出したような苦い茶がほとんど。

どこにも、あの香ばしい、リラックスできる「コーヒー」のようなものは見当たらない。まして、甘くて美味しい「スイーツ」など、夢のまた夢といった様子だ。


「…俺、この世界で何ができるんだ?」


特殊なスキルもない。魔法も使えない。剣術なんて論外だ。

商社マンとして培った交渉術や、書類作成能力? この世界で何の役に立つ?

途方もない絶望感が押し寄せてきた。異世界転移なんて、チート能力をもらって無双するものじゃないのか? 俺は何の取り柄もない、ただのおっさんじゃないか。


街の片隅、人通りも少ない裏通りを歩いていると、鼻をくすぐるような香りがした。

何かと思って見ると、小さな袋に入れられた、見たことのない豆が積まれている。埃をかぶっていて、どうやら食用ではなく、染料の材料か何かとして扱われているらしい。


だが、ケンジはその豆を見て、全身に電流が走ったような衝撃を受けた。


「これ…!」


形が、大きさが、あの豆に酷似している。

もしかしたら、もしかしたら、これは…!


試しに一つ手に取り、爪で傷をつけてみる。中から出てきたのは、紛れもない、あの独特の色と香りを持つ粒だった。


それは、彼が前世で唯一心血を注いだ趣味、心を癒してくれた最高の友、「コーヒー豆」に瓜二つだったのだ。


そして、彼の脳裏に、この街の光景がフラッシュバックする。

味気ない食事。急いで胃に詰め込む人々。リラックスできる場所の欠如。


もし、この豆が、あの「コーヒー」になるのなら?

もし、前世で身につけたスイーツのレシピを、この世界の材料で再現できるのなら?


この世界は、まだ「美味しいコーヒー」も「心を溶かすスイーツ」も知らない。

そして、慌ただしい日常の中で、ホッと一息つける「カフェ」という空間も存在しない。


これは…これはもしかして、俺にしかできないことなのでは?


過労死寸前だった俺が、異世界で得たものは、最強の剣や魔法ではない。

かつての激務の中で、唯一の逃げ場であり、生き甲斐だった「好き」という気持ちと、それによって培われた知識と技術だ。


商社マンとして、需要と供給を見極める目は確かにある。

「この世界には、圧倒的に『癒し』と『美味しいもの』が足りない!」


体の奥底から、忘れていた情熱が燃え上がってくるのを感じた。

もう、誰かの指示で、利益のために、心を削って働く必要はない。

ここでは、自分の手で、自分の好きなものを作り、それを求めてくれる人々に喜んでもらえる。


疲弊しきっていた体が、ふわりと軽くなったような気がした。


よし。決めた。

俺は、この異世界で、カフェを開こう。

最高のコーヒーとスイーツで、この街の人々の胃袋と心をつかんでやる。


見上げれば、異世界の空はどこまでも高く、青い。

ケンジは、立ち止まっていた裏通りから、再び歩き出した。

今度は、行く当てもなく彷徨うのではなく、確かな一歩を踏み出すように。


前世のことは、もういい。

ここからが、俺の新しい人生だ。

一杯のコーヒーと、一つの小さなカフェから始まる、俺だけのスローライフ。

お読みいただき、ありがとうございます!!


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