水の境界
学校からの帰り道。
最近は気温が高止まりしていて、強い日差しに熱せられた空気が所構わず陽炎となり景色が揺らいで見える。そんな様子を見ていると、なにやら目が回ってくるような気もしてくる。
容赦のない夏の暑すぎる日差しから逃れるように、目に映った日陰の多い裏通りへ思わず足を向けた。
でないととてもじゃないけど、強い日差しで干上がってしまいそうだ…
いつもは歩かない人通りの少ない道を歩いていくと、ふと建物の間に挟まるように小さな神社があることに気がつく。
日陰にあり涼しげな様子に、思わず吸い寄せられるように近寄る。そんなはずはないのだが、その小さな神社から冷気が流れ出ているような気もした。
小さな赤い鳥居の中を覗くと、狭い境内だが存在を主張するように龍の立派な置物が有り、手水舎のような小さい石の水受けがあったが今は水が無く枯れいる。
そっと背の低い鳥居を潜ると、日陰にあるせいか空気がどこかひんやりとしたような気がした。
神社の雰囲気に釣られたかのように、とりあえず休ませてもらった挨拶に手を合わせておく。
普段から信心深いわけではないが、偶にはいいだろう。
そんなことを思いながら挨拶を終えると、涼しげな空間に後ろ髪を引かれるような思いになりながら神社を後にした。
それから暫く経った頃。
その日もよく晴れた暑い日で、茹だるような暑さにうんざりしながら歩いていると、何処からか水滴が落ちる音が聞こえてきた。
何気なく辺りを見回すと、いつの間にか先日通った裏通りへの分かれ道に来ていた。
何となく水の音が気になり、特に何も考えずに再び裏通りへと足を運ぶ。間隔をあけて響く、水滴が落ちる小さな音を探して歩いて行くと、またあの小さな神社にたどり着いた。以前と同じように、この神社の周辺が日陰になっているせいか、辺りが何処かひんやりとしているような気がする。
ここからだろうか?
水の音を辿って、赤い小さな鳥居をくぐり神社の境内へ入る。
辺りを見回すが、水がありそうな小さい手水舎は今日も乾いていて水の気配はない。その他に水が流れそうな場所は無く、狭い境内にはそれほど見るところもない。
傍に鎮座している龍の置物に目を向けると、重厚な像は今日も厳しい顔でこちらを眺めている。うねるように靡く立派な髭に、ごつごつとした硬そうな鱗が並ぶ体をもつ龍の姿はやけに威厳がある。
神社などにある置物は、どうして皆んなこんなにも厳しい顔つきをしているのだろうか。そんな事を思いながら置物を眺めていたが、ふと気がつけば水の音がしなくなっている。
水の音がしなければ、何処からその音が聞こえてきたのかを探ることができない。
あの音は、何処から聞こえていたのだろう?
首を傾げつつも、音の在り処を探すことを諦め一先ず帰ることにした。
また暫く経った頃。
その日は曇っていて、蒸し蒸しとした湿気が肌に纏わり付くような天気だった。空には黒い雲が覆い、どんよりとした雰囲気はそのうち雨が降るかもしれない。
雨が降る前に帰ろうと足を早めていると、何処からか水滴が落ちる音が聞こえてきた。
雨が降り出したのかと思い空を見上げてみるが、雨が降ってくる様子は無く道路も乾いたままだった。気のせいかと思っていると、またしても水の落ちる音がする。間隔をあけて響く音は、先日聞いた水の音と同じような気がした。
ふと見れば、またあの裏通りへと続く分かれ道に来ている。そして水の音は、やはり裏通りから聞こえてきているようだ。
まるで水の音に導かれるかのように足を進めると、建物の間にあるあの小さな神社の前にたどり着く。今回も、水の音はこの神社から聞こえる気がする。
しっとりとした空気に誘われるように、神社の境内へ足を踏み入れた。
…なんだろう。
赤い小さな鳥居をくぐり抜けた途端、何かが変わったような不思議な感覚がした。密閉された室内に入ったような、外にいるはずなのに何処か違う場所に入ったかのような感じだ。
何なのだろう?そう疑問に思い、目の前の神社の建物を眺める。
雨は降っていなかったはずなのに、神社の建物が濡れたように何処かしっとりとしているように見える。そしてそれは、側にある龍の置物も同じだった。潤いが感じられる表面は、水面のように日の光を反射しそうな雰囲気だ。今にも水飛沫を飛ばしながら動き出しそうな様子に目を奪われていると、どこからか小さく軽やかな音が聞こえてきた。耳に届く小さな音を辿って傍にある手水舎を見ると、筒状の注ぎ口から水がゆっくりと流れ出ており、いつもは乾いていたはずの水受けが綺麗な水で満たされていた。
手水舎の息を吹き返したかのように瑞々しい姿に驚いていると、ふと他にも気がついた事があった。
手水舎に流れる水の音以外、何も音がしないのだ。
その場は、離れた所を走る車の音や通行人の気配も何も聞こえない静かな空間が満ちていた。まるで、水中に潜ったかのようにそれまで聞こえていた筈の音が聞こえず、何処か遠く離れて音が途絶えてしまったような感覚に包まれている。
しかし、当然ここに立つまでに水に潜った訳ではなく小さな鳥居を潜っただけである。側で流れる手水舎の水だけが動き、静かな空間で音を奏でている。
言葉では言い表せない得体の知れない感覚が、鳥肌となって身体を駆け上がった。
ここは、なんなのだろう。
改めてそう思うと、段々と冷や汗が身体を伝い始める。
何処か知らない場所に足を踏み入れてしまったような、入ってはいけない場所に来てしまったような気がしてきた。辺りを見回したいが、身体が錆びついてしまったかのように重くなり上手く動かせない。
徐々に色濃くなる焦りで、身体の芯が冷えてくるようだ。
帰らないと…
そう思うのに合わせて、焦りに恐怖が混ざり出し、視界が緩やかに揺らぎ出すような気がしてきた。まるで実体のない水の中に、何もできずに沈んでいくみたいだ。
気温は高いはずなのに、手足の先から身体が冷えていく。
その時、頭の上に何かが一粒落ちてきた。
たった一粒がもたらした感覚が驚くほど鮮明に全身に響き、その感覚にはっとするのと同時に頬にももう一粒落ちる。
雨粒だ。
そこへ何処かから、自転車のベルの音とブレーキの軋む甲高い音が耳に飛び込んできた。
乱雑な音が身体を貫き、一瞬にして現実との繋がりが蘇ったようだった。
早く行かないと…
とにかくこの場を離れなければならないと思い、全身の力を振り絞って固まっていた体を動かすと、後ろを振り返り急いで鳥居を潜った。
神社を出た途端に、離れた所からいつもの車の音や通行人の行き交う音が聞こえてくる。
急激な周りの空気の変化に驚き、身体の動きが僅かに鈍くなり神社から少し離れた場所で足が止まった。するとまるで、それまで水に潜っていたかのように息が上がる。
肩で息をしたまま呼吸を整えようと下を向いていると、不意に首に水滴が当たる。俯けていた顔を上げると、空から雨粒が次々と落ちてきていた。
ここで後ろを振り向いてしまえば、また動けなくなって得体の知れない空間に引き込まれてしまいそうで、とてもではないが神社の方を振り向けなかった。
雨が強くなる前に帰ろう…
また動けなくならないように、また神社の中に引き込まれてしまわないように…。呪文のようにその言葉だけを頭の中で唱え続け、そのまま神社を振り返る事はせずに家へ向かって走った。
その後。
あの時のことは気になったが、神社に近づくことに恐怖を感じて裏通りには行くことができなかった。
あれ以来、不思議な水が落ちる音を聞くことはない。そのまま神社に近づかないまま季節が変わった頃、あの周囲で工事が行われるようになり通行が規制されるようになった。
聞いた話によると、神社の隣の建物が建て替えられる事になり、その神社も無くなる事になったそうだ。
更に季節が移り変わり工事が終わった頃、恐る恐る神社があった場所を見に行ってみた。
少し離れた所からそっと見てみると、以前とは違う真新しい建物の隣には神社の影も形も無くなっていた。まるであの小さな神社があったことも、あの不思議な出来事も全てが幻だったかのようだ。
何処かすっきりしない思いを吐き出すようにため息をつくと、踵を返して帰り道を歩き出す。
一つ、水滴の落ちる音がした気がした。
思わず振り返るが、そこには真新しくなった外観があるだけ。
気のせいだと思い直し、再び帰り道を歩き出した。