第37話 春の海にはふたりだけ_3
サガンの著作の中では、『悲しみよこんにちは』が一番気に入った。
〝十七歳の多感な少女・主人公のセシルは、遊び人の父親とその恋人と共に、フランスに暮らしている。セシルは可憐で聡明で、少し年上の彼氏がいる。波風の立たない退廃的な日々を、セシルは無為に過ごしていた。
けれどある日、父親が新しい恋人のアンヌを連れてくる。キャリアウーマンのアンヌは美人で頭が良く、気難しくて常識人。母親面する彼女を、反抗的なセシルは気に食わなかった。セシルは自分の彼氏と父の昔の恋人を引き合わせ、父の関心を引く作戦に出る。アンヌから父親を取り戻そうと、負けず嫌いで繊細な少女・セシルは次第に躍起になり、取り返しのつかないのつかない結末を招く。〟
そんな名作のあらすじをさらさらと述べられるほど読み耽ったし、自分でも驚くほど傾倒し、感情移入した。格好良くて心に残る書評を、唯に対して手短に伝えたいとも思った。「航大くん、博識だね」とか、嘘でもいいから誉めてほしかった。
けれど結局、子供じみた凡庸な感想だけしか口に出来なかった。自分の度量のなさを恥じ、ミルクティーを飲み干して口を開く。
「作者のサガンは魅力的な小悪魔って呼ばれるけど、本当にその通りだなって、俺も思った」眼前に広がる穏やかな海は、静かで平凡で物悲しく、どしようもなく感傷的だった。
そういえば、『悲しみよこんにちは』を執筆した当時、作者のフランソワーズ・サガンは十八歳の少女だったんだっけ。俺よりひとつ年上、高校三年生。フランス人が早熟なのか、サガンが特別なのか。インターネットで色々調べた。サガンはショートカットで憂いのある少女で、なんだか可愛かった。才繊細な感性、放っておけない清楚な容姿。
どことなく、唯ちゃんに雰囲気が似ていた。
「えへへ。航大くんほど、サガンの話に付き合ってくれる人っていないよ。綾乃や他の友達はね、唯がサガンの話を始めたらスマホ触っちゃうもん」
「本を読むのは、しんどい時もあるからね」
「でも、航大くんはいつでも笑顔で聞いてくれる」
何度も読みかえす唯ちゃんは、聡明で可憐な主人公のセシルや、才能に満ちた作者のサガン自身に、成りたいのかもしれない。
「そういう気遣いが出来るところも、唯は本当に好きだよ」
オレンジの太陽が徐々に水面に飲み込まれる。遠くに小さな船が一隻浮かぶ。浜辺にはもう、誰もいない。老夫婦も犬もいない。野良猫もカモメもいない。名前も知らない水鳥さえいない。
薄暗くなる世界に、小波が微かに光る。
袋から取り出したブラックモンブランに、大きく口を開けてかじりつく。柔らかな冷たさが心地よかった。
「楽しいなあ。唯ね、航大くんといると、本当の自分でいられる気がするの」
唯ちゃんと知り合ったからといって、テストの点数が上がったとか、友人関係がより円滑になったとか、サッカーのシュートが上手くなったとか、目に見える変化はない。
それでも小さいころから漠然と感じていた、自分は誰かの人生の路傍の石に過ぎないんじゃないかという一抹の不安は、唯といるとどこかへ消える。
つまらないと感じていた何の特徴もない自分の人生が、宝物のように尊く感じることさえある。
鮮やかな思い込みかもしれない。でも、唯ちゃんも同じ気持ちだという確信と自信がある。根拠なんて、どこにもないのに。
「なんかさ、物語の主人公の気分になったな」
「え? 航大くん?」
「いや、何でもない。やっぱり忘れて」
夕日が水平線に落ちていく様を見つめていると、ふいに感傷的な気分になってしまった。つい気障な言葉を紡いでしまい、耳が真っ赤になったのを感じる。日が暮れはじめ、色彩が無くなる時間でよかった。
社会人になってすぐ、学生の街に暮らしていました。
夢と希望に満ちた若者たちの表情がきらきらしていたことを思い出します。
大人になった今も、彼らと同じくらい屈託のない笑顔を持ち続けていきたいと思っています。




