第36話 春の海にはふたりだけ_2
「着いたー! 思ったより早かったね」
「あ、うん。唯ちゃんと一緒だったから、あんまり時間を感じなかった」
地図のアプリは、この場所を”海水浴場”であると表示する。実際は、どこにでもある小さな入り江だった。それでも、砂浜越しに見える鮮やかな海には圧倒されるものがある。自転車を、申し訳程度の広さの駐車場の脇に停める。
「うふふ。唯も同じことを思ってた。意外とすぐ着いちゃったなーって」
唯は笑顔で、空をゆくカモメに両手を振っている。
「あのさ、足、痛くない?」
「ううん、歩くのは慣れているから平気! 優しいね、航大くん」
白砂の手前、朽ち始めたコンクリートの階段に腰を下ろす。スカートが汚れると困ったように笑う彼女のために、制服の上着を敷いた。
「そういう感性、唯は本当に好き」
海辺特有の磯の匂いが鼻腔をくすぐる。老夫婦が砂浜で談笑しながら、大型犬を散歩させている。
「春先の海って、こんなに綺麗なんだね」
唯は足をぶらつかせながら、セーラー服の袖を肘までまくった。ブレザーの俺と違って上着を脱げない彼女は、首筋に滲んだ汗をハンカチで拭う。左腕の内側の黒子が、白い肌に映える。
唯は鼻歌を歌いながら、河津桜商店で買い、鞄にしまっていたジュースを二本取り出した。砂糖の大量に入ったミルクティーを、俺に緩やかに投げて渡す。
俺はお返しに、さっき近くのコンビニで買ったブラックモンブランを鞄から二本取り出す。溶けないように願っていたけれど、幾分、溶けはじめている。
包みの上から触り、少しだけ硬い方を手渡す。
「青い海って、なんだか青春って感じがするね。唯、すごく楽しいな」
固いコンクリートは、制服のズボン越しにもじんわりと熱を伝える。
「その、唯ちゃんってすごく、綺麗な自然と素朴な風景が似合うね」
「えー、本当? 嬉しいなあ」
夕日が沈むまでに、まだ少し猶予がある。
ぬるくなったミルクティーは甘ったるい。普段より隙間を空けずに近づいて座る唯は、微笑みながら辛口のジンジャエールを飲んでいる。
どこまでも続く、春の田舎の海岸線。日暮れ前の緩やかな潮騒が、優しく頬を撫でて去っていた。季節外れの日暮れの浜辺は、どこを見渡してもふたりきり。
「最近ね、小説を読んだの。年頃の男の子と女の子が季節外れの海を眺めながら、浜辺で日々の小さな葛藤や将来を語りあうの。それで、笑ったり泣いたりを繰り返して、最後には大人になるの」
唯の明るくリズミカルな言葉が、寄せては返す波の音色と重なりながら、俺の耳に届く。
「へえ、なんていうタイトル?」
知らない作家の知らない小説だった。馴染みのない固有名詞のタイトル。次の会話に備えて、図書室で読みふける必要があると思った。
「それでね、今の航大くんと唯みたいに、制服のまま砂浜に並んで座って、日没を待つシーンもあるんだよ」
「親近感がわくね」
「主人公が、甘いものと猫と田舎を嫌っている設定はマイナスだけどね」
「それは駄目だなあ」
「航大くんはどんなのを読むの?」
「最近は、もっぱらサガン」
これは事実だった。
唯がサガンを好きだと知り、俺がサガンを好きだと嘘をついた。唯の気を引き、親しくなるために。嘘を真実にするため、寝る間を惜しんで読みふけった。夜な夜な通販で小説を注文することを親は訝しんだが、受験のためだと伝えると喜んでくれた。俺はほんの少し、罪悪感に苛まれた。
「いつ読んでも、サガンはいいよねえ。唯も大好き。サガンの文章って、共感と幻想に満ちてるもん」
「『恋愛は、ある人の不在を強く感じること』っていうフレーズが、俺は結構、心に刺さったな」
「あはは。航大くん、心当たりがあるの?」
10代の頃、フランソワーズ・サガンを読み耽っていました。
刺激のある大人な恋愛って素敵、と当時は思っていました。
いまでも好きなストーリーもあるけれど、それはあくまで物語として。
現実は可もなく不可もない凡庸なものですが、
ジェットコースターなポイントがなくとも、これでいいかなと納得しています。
望んだことばかりではないけれどどうにか生き続けてきたので、
ある程度は自分の道程に愛着を持っています。




