第29話 フランソワーズ・サガン_8
「う、うん。よろしくお願いします。唯ちゃん」
ぎこちない笑みを浮かべ、なぜか条件反射のようにお辞儀をした。連絡先を聞くため、スマホを取り出そうとスラックスのポケットを探る。焦った手元が震え、スマホがコンクリートへ滑り落ちた。
「ちょっと航大、何で動揺してんの」拾おうと慌てて屈みこむ俺の頭上に、綾乃の呆れたような声が降ってきた。
「唯が取ってあげる」俺が拾うよりも先に、唯ちゃんが素早く手を伸ばした。「大丈夫! 傷はついてないみたい」
屈みこんだ胸元から、白い下着が、見えた気がした。顔が赤くなるのを感じながら、鼻の下の汗を拭って受け取った。
あどけない笑みの唯ちゃんは、上目遣いで俺を見つめる。自然な動作で俺の手を握り、手のひらにスマホを乗せた。初めて触る女の子の体温は、思っていたよりも柔らかくて生温かった。
「航大くんと一緒に過ごせるの、本当に楽しみ」
唯ちゃんは片手で俺の手を握ったまま、もう片方の手で春風に流れる髪を耳にかける。
淡く漂う爽やかなシャンプーのにおいを、きっと生涯忘れないだろうと思った。
「死ぬまで忘れないだろう」と思った印象的な出来事を、これまでいくつ忘れてしまったのだろう。




