一話
【あらすじ、超えて→越えて】 何年も何十年も寄り添い合う夫婦の感情が分からなかった。ただ単純に私にその感情が欠落しているからと言われればそうかもしれない。だけど、人生は長い。一度でいいから一生を添い遂げたいと思う相手に出会ってみたい……
空を見上げていた柚月は、そんな事を思いながら煙草を吹かした。
◈◈◈
「おや?柚月ちゃん。今帰り?」
会社帰りの柚月を呼び止めたのは、和装に煙管を手にした男。涼鈴だ。
柚月は一階が店舗になっているアパートに住んでおり、その一階で呉服屋を営んでいるのが涼鈴なのだ。
この男、顔が良いだけに女性の客が多く、店は毎日多くの女性で賑わっている。まあ、涼鈴のトーク力もあるのだろうが、柚月は正直な所この男が苦手だった。
別に遊び人オーラがあるからとか馴れ馴れしいから嫌いとかじゃなくて、なんか、笑顔が胡散臭い。笑顔が張り付いているような感じ。
そんな無理して笑うなら笑わなければいいじゃんと言うのが柚月の率直な感想だが、接客業と言う傍ら笑顔は外せないのだろう。
「ええ、涼鈴さんは仕事終わり?」
「そう。仕事終わりの一服。どや?柚月ちゃんも一本」
何処から出したのか涼鈴は柚月の吸っている銘柄の箱を出してきた。早く帰って寝たい柚月だったが、人の好意は有難く貰っておけと言う先輩の言葉を思い出し、重い手つきで煙草を一本口にした。
「ふ~……」
火を分けて貰い、大きく吸い込み煙を吐く。
(この瞬間が一番落ち着く……)
店舗前で大の大人二人がしゃがみこみながら煙草を吸っている姿は褒められたものではないが、たまには神様も許してくれるだろう。
チラッと隣で煙管を吹かす涼鈴に目をやった。
(あ、綺麗……)
煙管を持つ涼鈴の手は男の人にしては長く細く、仕草がとても綺麗で思わず魅入ってしまった。
「ん?なんや?」
「えっ、あ、いや、手が綺麗だなと……」
柚月は見蕩れていた事を涼鈴に気付かれ、急に恥ずかしくなって真っ赤に染まった顔を慌てて逸らした。
涼鈴はそんな柚月を見たのは初めてで呆気に取られていたが、すぐにニヤッと不敵な笑みを浮かべた。
「そうかそうか、柚月ちゃんは僕の手が好きか」
「いや、好きとかじゃなくて、綺麗だと──ッ!!」
涼鈴の言葉に反論しようと振り返ると、鼻が当たりそうな距離に涼鈴の顔があり、思わず言葉を飲み込んだ。
「……なあ、僕の手触ってみいひん?」
「いやいやいや、何言って──」
柚月が最後まで言い切る前に、涼鈴は自分の指を絡ませてきた。柚月は驚きはしたものの絡まる指は思ったより柔らかで暖かく自然と「気持ちいい」と声が出ていた。
柚月はハッとして口を押えたが、目の前の男はしっかり聞こえていた様で得意げに微笑んでいる。
「~~~~ッ!!か、帰る!!」
煙草の火を消し、足早にその場から立ち去ろうとしたが、逃がさないとばかりに腕を掴まれた。
「帰るんはええけど、僕の手触った代金貰わんとな」
「はあ!?あんたが無理やり触らせたんじゃない!!」
「そりゃ心外やね。自分かて満更じゃない顔しとったで?」
まさかの金銭要求に思わず怒鳴りつけてしまったが、私は悪くない。むしろ被害者だと思っている。
だが、涼鈴の最後の一言で撃沈した。
(悪徳商法よりタチが悪い……)
観念した柚月が鞄から財布を取り出し、いくら払えばいいのか訊ねた。
「金は要らんよ」
「は?」
何を言っているのか分からず、呆然としている柚月の腕を涼鈴が引っ張り自分の腕に閉じ込めた。そのまま柚月の顎を持ち上げ、唇を合わせた……
「これでええ」
煽るようにペロッと舌を出しながら言う涼鈴に、柚月は眉を顰めた。てっきり恥じらうように顔を真っ赤に染めると思っていたのに、返ってきたのは不服そうな顔。
「あれ?思ってた反応と違──ッ!?」
涼鈴が困った様に声を掛けると柚月が涼鈴の衿元を掴み、無理やり顔を近づけてキスを交わした。軽く口付けるだけのものではなく、言うならば大人のキス。
「な、な、なッ!?!?」
「ん?払えと言うならこれぐらいしなきゃでしょ?」
ようやく解放された時の涼鈴は顔が沸騰しているのでは?と思うほど真っ赤に染まっていたが、柚月は涼しい顔で勝ち誇った様に微笑んでいた。
完全にやり返された涼鈴は悔しさを滲ませながらも、何処か嬉しそうだった。
◈◈◈
「やっちまった……」
翌朝、ベッドの上で柚月は自己嫌悪に陥っていた。その隣に目をやるとそこには規則正しい寝息を立てる見目麗しい男がいる。昨夜、涼鈴の振る舞いに腹が立ち自ら煽った感は否めないが、この状況は完全に不意をつかれた。
まさかこの歳になって一夜の過ちとやらを経験するとは思いもしなかった。若い頃ならば若気の至りで終わらせられるが、お互いにアラサーのいい大人だ。
しかも、相手がこれって……
「はぁぁぁ~……」
盛大な溜息を吐きながら頭を抱える柚月の前に、煙草が差し出された。
「おはよ」
「おはよう」
いつものように胡散臭い笑顔を浮かべる涼鈴の手から、煙草を一本抜き取り口にするとカチッとご丁寧に火を付けてくれた。
「ふ~……」と一息吐くと、涼鈴が柚月の手に持っていた煙草を奪い口にした。
一々仕草が綺麗で目に付いて仕方がない。
「……それ吸ったら出てってね」
「なんや、寂しいなぁ」
ベッドの下に脱ぎ散らかした服を着ながら伝えると、こてんと首を傾げて言ってきた。
(この男は……!!)
女なら誰でもお前の顔に騙されると思うなよ!!確かに目を背けてしまうほどの色気はあるが、それはそれ。
柚月は冷静な表情を一切崩さず涼鈴を見下ろした。
「誤解のないように先に言っとくけど、昨夜の事は一種の気の迷いでこれっぽっちも貴方には気が無いから。一度寝たぐらいで彼女面もしないし、責任を取れとも言わない。犬に噛まれたと思ってお互い忘れましょう」
息つく間もなく言い切った柚月を涼鈴は口を開けて見ていたが、すぐにクスッと口角を上げた。そのままゆっくり身体を起こすと、逞しい身体が露になった。
涼鈴は顔の割には体はがっしりと筋肉質で、見た目とのギャップに驚いたが正直、嫌いじゃない。むしろ好きな方だが、体が好みなんて口が裂けても言えない。
(完全に体目当てだと思われる)
柚月は目を逸らし、極力涼鈴を見ないようにしていたが
「柚月ちゃんはそれでええの?」
「は?」
その言葉に思わず顔を上げてしまった。
「そんなのいいに決まってるじゃない。責任取れと言うほど若くもないし、貴方だってそうでしょ?」
「まあ、そうやね」
「なら、この話はおしまい。さあ、早く着替えて出てって。貴方も仕事でしょ?」
部屋に散らばった服を掻き集めると涼鈴に向けて投げつけると、仕方なく袖を通し始めた。
その間に柚月は湯を沸かしカップにコーヒーを注ぐと、着替え終わった涼鈴の前に差し出した。
「アフターサービスがええね」
「……ついでよ」
素っ気無い態度で言うが、涼鈴は嬉しそうにコーヒーを口にしていた。
◈◈◈
「それじゃあ、そろそろお暇させていただきます」
煙草一本吸って帰す予定が、コーヒーを飲み干してから帰すことになってしまい、気付けば仕事に出る時間になっていた。
「もお、最悪」
時間をかけてゆっくりとシャワーを浴びることも出来ず、化粧もそこそこに慌ただしくヒールを履いていると、涼鈴の腕が伸びてきて覆い被さるようにして壁に追いやられた。
「……邪魔なんだけど」
「言うの忘れてたんやけど、僕は昨日の事忘れるつもりはないよ」
「はぁ!?今更何いって──」
言い返そうと、顔を上げたところで口を塞がられた。
「ご馳走さん。おおきに」
呆然としている柚月を横目に、涼鈴は玄関を開けて出て行った。
「──ッ最悪……」
頬を染めながら感触の残る唇を荒々しく拭った。