第三十六話 手負い
第三十六話 手負い
初めに鱗が剥がれた手の甲は今や爛れ切って膿と血とでぐちゃぐちゃになっている。黒豹はそれを日に何度か拭う。
「いっ…!」
翠玉がびくっとして顔を顰める。その顔の大半は鱗で覆われ、もはや鱗で覆われていない部分の方が少なかった。
「悪い。沁みたか」
黒豹は拭うのを一旦止める。
「大丈夫だ」
黒豹は翠玉の顔を見るとまた再開する。
沈みゆく夕日が床を寒々しい黄色に照らし、俯いて翠玉の手を拭う黒豹の影を伸ばす。
***
「黒豹、私はもう立つこともできないみたいだ」
翠玉は足の裏を黒豹に見せる。そこは鱗でびっしりと覆われている。
「痛いか」
「びりびりする」
「そうか」
黒豹の表情がうっすら暗くなる。
その日を境に翠玉が寝床から出ることはなくなった。鱗が増えていく一方、剥がれることはなかった。それはまさに、嵐の前の静けさのようだった。
***
「黒豹、また鱗が増えた」
「どこだ」
翠玉は黒豹に背を向けるとするりと服を脱いで上半身裸になる。肩の白く滑らかな肌が見える一方、うなじから腰にかけてびっしりと背中を鱗が覆っている。それを見て黒豹は歯を食いしばった。
「…今の俺には何もできない。許せ」
「私なら大丈夫だ。百顔姫の運命に従って死ぬだけなんだから。この通り、どうとも思わない」
「本当にどうとも思わないのか」
「全く何にも思わない」
「そうか」
黒豹は翠玉に背を向けて鼻を啜った。
「黒豹?」
「いや、なんでもない」
お分かりの通り、「なんでもない」わけがなかった。翠玉が死に対してどうとも思わないというのはある程度予測していた答えだった。しかし、このまま何も思うことのないまま、死んでしまうかもしれないというところにもまた、その場にいる黒豹にしか分からない切なさがあった。
***
その夜。
「黒豹、僕も一杯」
皆寝静まったころに独り盃を傾けていた黒豹の前にワトソンが椅子を引いて座る。
「弱いくせに」
黒豹はそう言いながらも向かいに座るワトソンに琥珀色の液体が入ったグラスを渡してやる。
「弱くても呑みたくなるときくらいあるでしょ」
「ハッ、そうかもな」
黒豹はグラスをまた傾ける。
「辛いものだね、」
ワトソンがぽつりと言った。
黒豹のグラスの中の氷がカラン、と音を立てた。
「助ける方法はあるのに何もできないなんてね」
「仕方ねぇよ」
黒豹は頬杖をついた左手で気だるげにグラスを回した。
「ホントはそんなこと思ってないくせに。一番、何もできなくて悔しい思いをしてるはずなのに」
「そうかもな」
「そんなに気を遣わなくていいのに」
「何の話かさっぱりだ」
「僕たちを絶対に翠玉さんに会わせないのってそういうことでしょ、僕たちが苦しむ翠玉さんを見てショックを受けないようにするためでしょ」
「勘違いするな、俺はただ…」
「辛い思いをしたり傷ついたりするのは自分だけで十分、とかもしかして思っちゃってる?」
「…」
「自分ひとりで苦しんだり、傷ついたりしようだなんて思わないでよ。見てる僕たちが辛い」
「背負うのは俺だけで十分だ」
黒豹はウイスキーを飲み干した。
「どうしてそんなに自分一人で背負おうとするの?僕たち、家族も同然じゃん。ちょっとくらい一緒に背負わせてよ」
「もう誰も傷つけたくないからだ」
「いつも傷ついてるのはそっちの方じゃん!何がそんなに怖いの?」
「お前には関係ない」
黒豹は流しでグラスをさっと洗って出ていった。




