第三十五話 並行時計
第三十五話 並行時計
「あー…膿んでんな、こりゃ」
翠玉の手の甲の鱗が剥がれる、というショッキングな出来事のその翌日の午後。黒豹は翠玉の手に巻いた包帯を取り換え消毒し直しながら言った。黒豹はその手を止めずに翠玉の額に自分の額を合わせた。
「熱は…ないな」
この方法は翠玉に感情がないからこそできることである。おそらく、普通の人間であれば黒豹に額で熱を測られるなんていう経験をしたらその場で速攻黒豹にお熱となっただろう。
「うーん、とりあえず療養」
黒豹はそう言って立ち上がると翠玉のいる部屋から出た。
「おっ、なんだよワトソン」
部屋の前でもの言いたげに待ち構えていたワトソンに気付いた黒豹が言う。
「黒豹、ちょっと」
ワトソンは黒豹の腕を引っ張って、翠玉の部屋から離れたところに連れて行く。
「ちょっとは僕たちにも任せてくれてもいいんじゃない?」
ワトソンが言った。昨日鱗が剥がれたその場には居合わせなかったワトソンであるが、黒豹やニコライから事の顛末については聞いていた。そして、その場で黒豹はニコライとワトソンに翠玉の手当てをすることを禁じた。
「だから昨日言っただろ、百顔姫の体液に触れることで人間に何が起こるかわからない。俺はもう昨日触れてんだから翠玉の手当てとか世話は俺一人がやる。リスクを背負う人間を増やすわけにはいかない」
「でも黒豹はさ、王立図書館の件もなんとかしなきゃでしょ」
「そのことなんだが…」
黒豹は胸元から鎖にぶら下がった、砂時計をかたどった銀のペンダントを見せた。
「え、もしかして…」
ワトソンが目を見開く。
「そう、そのまさかだ」
黒豹がニヤリとする。
「ちょっとォォ…チートすぎるでしょ、それは」
***
時は遡り昨日の真夜中。黒豹は夢を見ていた。
『おい、聞こえるか。聞こえるか、黒豹』
『…!』
黒豹の前にいるのは蛇眥だった。しかし、擦り切れた着物を着崩し、白い髪を適当に崩してある現実の彼女とは違い、芳ヶ原で働いていた時のようにきっちりと着物を着て髪も綺麗に結ってある。
『蛇眥、なぜここに』
『だから言ったじゃろ。わっちは夜に生きるイキモノでござりんす』
蛇眥は黒豹の手をとってその手に何かを握らせた。黒豹はその手の中のものを見る。鎖にぶら下がった砂時計のようなペンダントだ。
『なんだこれ』
『並行時計だ』
〈並行時計〉。それはもう一つの並行世界を作り、そこにその人間を一定時間存在させる。
『この前、そなたの吐息から作った』
『ああ。あの煙管ってそういう意味だったのか』
『黒豹、夢から覚めたらこの砂時計をひっくり返して百顔姫の世話をしながら王立図書館討ち入りの準備をしろ。三回半ひっくり返せばいいはずだ』
『は?三回半?』
蛇眥の姿が薄れていき、やがて消える。
「はッ、」
黒豹はがばりと身を起こし、胸元に触れる。あった。手に金属の冷たさが伝わってくる。黒豹はさらに鎖を手繰り寄せて、鎖にぶら下がったものを見た。暗い部屋の中でもはっきりと分かる。並行時計だ。
***
「…というわけでだ、ワトソン。これ、ひっくり返していいか」
「ホントに並行時計ってあるんだね。魔術教育受けてきた人間から見たら感動。是非とも僕の目の前でひっくり返して欲しいものだね」
黒豹は慎重に砂時計をひっくり返す。しかし、何も起きなかった。
「何かが起きた気がしないんだが」
「そりゃそうだよ、並行時計なんだから」
「いや、当然でしょみたいな顔されても分からないのだが」
「いや、だからさ、並行してんの。こっちの世界とは別にもう一つの世界ができるの。だからこっちの黒豹は何かが起こってるとは感知できない。でも多分向こうの黒豹は分かってる。なにせ黒豹の吐息から作った並行時計、並行世界だから。そんで、その砂時計の砂が全部落ちたら二つの世界はまた一つになってる」
***
並行世界、同時刻。
「ワトソン!俺は王立図書館の件の準備をする!翠玉のことは放っておけ、並行世界の俺がなんとかする」
「…!並行時計か」
一瞬「?」を頭の上に浮かべたワトソンであったが、すぐに状況を理解してニヤリとした。




