第一話 黒豹
cicatrix…できものや傷などが直った後に皮膚面に残るあと。傷跡。
「あなたのことは愛してる。でも愛せば愛すほど、憎くもなるの。だから死んでもらう、悪いとは思わない…」
女はそう言って男の左胸に刺したナイフを抜いた。そこから血が吹き出し、男の服を赤く染めた。このとき、ナイフは綺麗に心臓にまで達していた。男は崩れ落ちた。
女は男の恋人だった。普通ならば恋人に裏切られ殺されることを嘆くものだが、この男はそれしきで嘆くような男ではなかった。
地面に仰向けに転がった男は笑った。
「ハッ、全てをかけて愛した女に殺されるなんてなァ。それも悪くない」
そう言って男は息絶えた。
一見終わりに見えるこの出来事こそがこの物語の始まりなのである。
この物語は一本の傷跡から始まったのである…
第一話 黒豹
満月の夜の街に小気味いい軽い足音が響く。その後にいかにもガラの悪い男が続く。追われている男は追ってをかわし、大きな満月を横目に宙にひらりと飛び出すと隣の建物に着地した。まさしくその姿は黒豹のようであった。そして背を向けて着地したその姿勢のまま、大金が入っていると思われるアタッシュケースを肩にかける。
「テメェ!生きて帰れると思うなよ!」
「うちに手ェ出しておやっさんがタダで済ませると思うなよ!」
「カネ返せやァ!」
隣の建物から身を乗り出し、男たちが口々に恫喝してみるが、盗人は全く動じない。
「タダで済まないのはお前らだよ、ケーサツの皆さん、あとは頼むよ」
その言葉に男たちは青ざめる。
「検挙ーッ」
笛が鳴り響き、男たちの後ろから次々と緑色の制服を着た警官が現れる。
「ハッ、これだから偉いやつの陰に隠れて威張ってるような奴等は」
盗人はふっと妖しい笑みを浮かべるとまた建物からひらりと飛び降り、夜の闇に消えた。
男の名は黒豹。影の悪事を暴き、盗んだカネをバラまいていくという巷を騒がせる窃盗犯である。
男はいつも警察に堂々と犯行予告を出してから犯行に及ぶ。しかし、一度も捕まったことはない。それどころか、警官たちを愚弄するかのようにその前に現れては、霞のように消えてしまう。
夜は闇に笑い、昼間は街のどこかで人混みに紛れて人知れず暮らしている。犯罪者といえどそんなミステリアスでどこか現実味のない黒豹に魅了される人間も少なくはなかった。