愛の小瓶
「春は馬車に乗って」という小説に感化されて書いた作品です。残酷な現実の中で愛し合う二人の物語が大好きなので私の趣味がふんだんに入っております。それから、私個人の好みで花言葉がたくさん出てきます。
春の温かい風が庭に植えてある檸檬の木の葉を揺らしている。檸檬の花言葉が「心からの思慕」だと教えてもらったのはいつだったか。
うとうとと舟をこぎ始めているスイの隣で私は目に入った花々を眺めて、昔に長々と解説された花言葉だとか育て方だとかを思い出していた。
「ベイル、わたし眠くなってきた」
我慢できなくなったのだろう、スイがあくびをしながら言った。
「ええ、そうでしょうね。さっきから眠そうだと思っていました」
「今日は暖かいからすぐ眠くなっちゃう」
「そうですね」
温かいとはいえ、こんなところで寝てしまったら体を痛めてしまう。けれど、二人はしばらく寄り添ってじっと黙っていた。心地良い風が二人を包み込む。
「ベッドに行きましょうか」
目を閉じて微睡んでいるスイに声をかける。
「ううん」
肯定とも否定ともとれる返事が返ってきた。
「スイ、眠たいならベッドに行きましょう。ほら、手を出してください」
めんどくさそうに差し出された手を取ってよいしょと立ち上がらせる。そのままゆっくりと寝室へ移動し、今朝整えたばかりのふかふかのベッドに寝かせる。横になるやすぐさま、すうすうと寝息が聞こえてきた。
当時、奴隷だったスイと出会って恋人になるまで4年、それから貴族である両親と長い言い争いを経て結局駆け落ち同然で家を飛び出した。二人でいくつもの町を巡り、様々なことを経験した。喧嘩もした。けれどいつも喧嘩の理由はお互いのためを思ってのことだった。何か所かにとどまり過ごしてみたけれど、結局二人きりでゆっくり過ごせる場所がいいということでこの森の中にある小さな家に住むことを決めた。町から離れているため多少の不便はあれどお互いに支えあいながら平穏な日々を過ごして、いつの間にか数十年がたった。
私のように長寿の一族ではないスイはもう老いて晩年ともいえる時期になっていた。しわが増え、かつて健康的だった体はやせ細り、その腕は触れることすらも戸惑うほどに脆く見えた。
眠っているスイはふとすれば死んでいるようにも見える。微かな呼吸の音だけがスイが生きている証であり、私の不安をわずかに解消してくれた。安らかな寝顔がいつしか怖いと思うようになっていた。
「あなたは私を置いていってしまうのですか」
眠っている彼女を見てポツリと言葉が漏れた。悲痛な現実を見たくなくて外へと息を吸いに行く。空は雲一つなく青々と晴れ渡っていた。森の木々を通り抜ける風が心を落ち着かせる。スイとの幸福な日々は、時間が立つにつれて嫌でも悲しい未来を思案させられた。そして、それは実際に現実になりつつある。スイのために、もしくは自分自身のために私は強くならなければいけない。老いてゆく恋人を目に焼き付け、老いによる体の苦しみを共感しなければならない。私はこれからの長い人生の中で誰よりも先に看取るのが恋人であるということにどういった感情を抱けば良いのだろう。
庭の柵の外にはスイの好きな野アザミが咲いている。小さな鳥が風を切って森の中を低く飛んでいった。あと数週間もすれば気温が上がり老体のスイにとって辛い季節になる。檸檬の香りが漂う庭で、育った野菜を収穫してかごに入れていく。スイはもう食べないけれど檸檬も一つかごに入れた。スイは色々なものを部屋に置きたがった。好きな花や小さな小物から始まり、果物なんかも欲しがった。今回のリクエストは檸檬だったのだ。匂いをかぐのか目で見て楽しむのか、はたまた部屋では味わえない季節感を感じたいのか、日持ちのしないそれらを枕元のベッドサイドに置いているのが好きなようだった。
寝室に入ると、開けられた窓からさわやかな風が吹いた。窓辺にはまるで花束のようにたくさんの小さな花を咲かせているカランコエが飾られている。花言葉は「あなたを守る」。長く咲き続けるからと一か月近くここに飾られているが未だに元気に咲き誇っている。
「スイ、庭の檸檬を持って来ましたよ。ここに置いておきますね。」
ベッドサイドにはすでにレンゲソウと木でできた小さなウサギの人形が置かれていた。人形の隣に檸檬を置いた。
「ありがとう もっと近くに置いてくれる?」
私を見上げるように目を開きながらそう言った。檸檬を顔のすぐ隣に動かすとスイは目じりを下げてゆるやかに微笑んだ。
「ベイル 覚えてる?一緒にレモンを植えた時のこと。私もあなたも若くて、ああ、あなたは今も若いね」
ふふと彼女が笑う。私とスイが恋人になった時レモンを植えたのだ。もちろんこの家の庭に植えてある檸檬ではなく、まだ母国にいるとき植えたものだ。
「私も今と比べたら若かったですよ。植えた檸檬は50年もたてば今はさぞかし立派になっているでしょうね」
草原の真ん中に二人で植えた時のことを思い出す。檸檬の木は青空の下で大きく育っていることだろう。
「あの時、ずっと一緒にいると約束したけれど、私ね、最近になって最期は一人でもいいかもしれないって思うようになったの」
スイは寝床から私を見透かすように鋭い視線を向けていた。一人で歩くことすらできなくなってから時折見せるスイのこの表情は私の心をいつも突き刺す。そして彼女が放った言葉にグラグラと煮立つような激情が沸き立った。
「どうしてそんなことをいうのですか!……あなたが一人が嫌いなことぐらい私は知っています。どれだけ一緒にいると思っているのですか。お願いですから今更そんな悲しいことを言わないでください」
震えた悲痛な私の声だけが部屋に響く。スイは黙りこんで何も話さない。
「私はあなたのそばにいたいだけなんです。ただそれだけ。ほかには何もいらないんですよ」
スイのしわくちゃの手を優しく握る。スイは静かに目を閉じたまま独り言を言うみたいに呟いた。
「私の世話をするときあなたはいつも苦しそうな顔をする。あなたの顔を見るたびにあなたを苦しめているのが自分だとわかってしまう。私にはそれが耐えられない。あなたが苦しむぐらいなら私はあなたから離れたいと思ってしまうの」
ため息をつくように、心を吐き出すようにゆっくりと言った。言葉の最後に悲しげなブラウンの瞳がベイルを見つめた。
スイの体を見るたび、触れるたびに終わりゆく未来を考えてしまう。それは仕方のないことだった。人にとって死は平等に訪れるものであり、それが自然の摂理だ。けれど、死がやってくるまでの時間は不平等だ。私には数百年が残されているのに、彼女にはもう死神の足音が近づいてきている。それは、私にとって耐えがたい事であって私にとっての胸の苦痛の種でもあった。そんな私が抱いている不安と焦りをスイは理解している。昔から彼女は人の感情を読むのが得意だった。しかし、私はこの生活を終わりにしたいとは一度も考えたことなどなかった。
「何と言われようと私は最期まであなたのお世話をします。あなたの一番近くにいてあなたを見届けるつもりです」
強くそう答えた。互いにしばらく見つめあい、そしてあきらめるように彼女は目を閉じた。目じりのしわに沿って涙が流れてキラキラと光る。
曇天のように重い空気の中でベッドに転がる檸檬だけが場に似合わない色彩と香りを放っている。窓から吹き込む風が酷く冷たく感じた。
私は寝室を出てリビングの椅子に腰かけて大きく深呼吸をした。今までほとんど弱音を吐いたことがなかったスイの言葉に強気で応えたとはいえ、その実、頭も心も酷く打ちひしがれていた。弱くなった体はスイの心までも蝕んでしまったのだろうか、それとも心が弱くなったから体も悪くなっていっているのだろうか。その答えは誰にも分らない。そもそも、それが分かったとして先が短いとわかっているのにどうしろというのだろうか。きれいな赤毛も白くなり、健康的でよく動いていた手足は骨と皮ばかりになってしまった。明るいブラウンの瞳もいつからかまぶたの下に隠されていることが多くなった。こんなに近くにいるのに、どんどん遠ざかっていって最後は私の知らないところへ行ってしまう。話すことも触れ合うことすら、癖のある髪を撫でることもいつかできなくなってしまう。そう考えたら、涙が止まらなかった。けれど、どんな姿になってもスイを愛する心は変わらない。こんな時、いつも私は昔スイが放った言葉を思い出すのだった。
「ベイル、永遠にあなたを愛してる」
その言葉は呪いのように私の心に残り、私の心を蝕んだ。スイが言う永遠が私の永遠とはほど遠いことを私は未だに受け入れられなかった。
私は毎日のように庭や森で花や果物を摘んでスイの部屋に飾った。けれど、スイが物を欲しがることはもうなくなっていた。
「スイ 今日はオレンジの花が咲いていました。とてもきれいですよ。それから、庭のカーネーションももうすぐ咲きそうでした。咲いたら窓辺に飾りますね」
「ベイル あのね」
私は花を手に持ったままスイの顔を見る。不吉な予感がした。
「お花はもういらない」
まるで死刑宣告されたかのような衝撃だった。
「私、外を見たい」
花が好きなスイの願い。体を疲労させるだけだとわかっててもそのお願いを断ることなどできなかった。その日から、私はスイを抱きかかえるようにして庭がよく見えるリビングの窓辺まで運ぶようにした。スイの体は少し動くだけでも苦痛を感じるようでそこまで移動する途中に何度も休憩を挟まなければならなかった。それでも、スイは毎日のように外を見たいと願った。
やがて春が終わり、梅雨に入った。雨が多くなり、湿気と気温の変化でスイの体調も急激に悪くなっていった。ベイルはスイの体が悪くなるにつれて、ますます寝室から離れることができなくなった。か細い呼吸の音、見逃してしまいそうな微かな胸の動き、それらに常に注意しスイの苦痛が少しでもやわらぐよう一心に注力していた。それに反しスイは私が優しく触れるたび、泣きながら「ごめんね」と謝るようになった。
「ごめんね ベイル、こんな私で本当にごめんね」
「謝る必要はないんですよ。あなたは何も悪くないわ。私たちは恋人なのですから、なにも気にしなくていいんです」
「ベイル ベイル 苦しいの」
彼女の肩をさする。スイの肺がヒューヒューとなる音が聞こえた。
疲れて眠ったスイの顔を撫でながら、ふと、今が幸福だと思っていることに気づいた。手を借りないと生活すらできない存在になってしまった彼女は、今まで誰かに助けを求めるということがなかった。たいていのことは一人で解決し、他人の手を借りるのをひどく嫌う性格だった。難しい問題ほど、彼女は他の誰にも知らせずに解決しようとする。それを私はいつも横から勝手に手助けするのが常だった。もとより、スイに頼られたいと思っていたのが苦しくも今叶っている。苦しんでいるスイに心から求められていることが嬉しいのだと不幸にも気づいてしまった。彼女の苦痛を望んでるわけじゃない。でも、彼女にすがられてるとき満たされていると感じたのは確かだった。
いつの間にか梅雨が明けていた。庭のカーネーションは摘まれることなく枯れ、強すぎる日差しの中で朝顔が花開き始めていた。今日も私はスイが寝ている寝室へと向かう。そのころには彼女は話すことも億劫なようで外を見たいとも言わなくなっていた。部屋に入り、深くしわの刻まれた顔を見る。それに気づいたのかまぶたがゆっくりと開いて目が合った。
「スイ おはようございます」
返事もなくまたまぶたは閉じられた。ここ数日はいつもこんな感じだった。
段々と、私は心の準備ができてきていた。もう何が起こっても怖くはなかった。
暑苦しい夜が過ぎ、空が淡く色づき始めた明け方にスイが苦しみ始めた。必死に看病したがもうどうにもならないことはわかっていた。私にできるのは、ただスイの肩をさすりながら声をかけるだけだった。
すると、苦しみに呻きながらスイがかすれた声で私に呼び掛けた。
「あなたに……あげたいものがあるの」
まるで壊れかけの人形のようによろよろと動き出した。慌ててスイの体を支える。汗を滝のように流し、それでいて体は氷のように冷たかった。スイは棚へたどり着くと棚の一番奥から瓶を取り出した。手のひらより少し大きいぐらいのサイズのガラスの瓶。中にはたくさんのチューリップのドライフラワーが入っていた。スイは震える手で瓶を私に手渡し、痛みをこらえるようにぎこちなく笑うと糸が切れたようにばたりと意識を失った。
スイは二度と目覚めなかった。わずかな呼吸がまだ生きていることを知らせていたけれど、太陽が出て強い日差しが窓辺に降り注ぎ始めた時、静かに息を引き取った。
明け方の苦しみの中でじゃなく、日が出てから眠るように最期を迎えたのはよかったと思う。
そう思いながら冷たくなったスイを前に私は泣いていた。こうなることは分かっていたことだった。仕方のないことだと、これまでに何度も自分自身に言い聞かせていたはずだった。しかし、涙はあふれて止まらない。手でぬぐう気もおきなかった。しずくはぼろぼろと流れては服にシミを作っていく。自分がなんで泣いているのかもわからなかった。悲しいわけじゃなかった。ただ、訳も分からず涙があふれて止まらなかった。
「スイ もう起きてはくれないんですか」
眠っているようなスイが憎かった。
「まだ、眠るのは早いんじゃありませんか、今やっと朝になったところですよ」
無駄だと分かっている。だからこそ話しかけ続けた。スイに話しかけるのはこれが本当に最後なのだから。
「スイ 愛しています。」
「永遠にあなたを愛しています」
「愛しています」
ほとんど懇願に近かった。しゃくりあげながら、涙でぐしゃぐしゃになりながら愛してると言い続けた。スイが聞いていなくても例え聞こえていたとしてもどうでもよかった。涙とともにあふれてくる表現しようのない感情をひたすらに声に出し続けた。
ようやく落ち着いて、一番近くの教会へ行ったのはもう空が赤く染まった夕方だった。
翌日、町でよくしてもらってた人たちを数人呼んだだけの小さな葬式をあげた。墓にはスイの花好きを知っているからか色とりどりの花が供えられていた。私はもう泣かなかった。
家に帰ってから、昨日までスイが寝ていた寝室を眺めた。ベッドサイドにはスイが最期に私へ手渡した瓶が置かれていた。瓶に入ったチューリップを眺めていると赤やピンクに混じって、黒いチューリップが入っていることに気づいた。チューリップの花言葉は「博愛」「思いやり」だったはず。少なくとも、スイはそう私に教えてくれた。けれど、この瓶に込められた意味はそれだけではないことぐらい明白だ。スイが最後に伝えたかったことは一体何なのだろうか。一本だけ混じった黒。それは私のスイとの幸福な記憶の中での悲しみを示しているように感じた。
スイの本棚から花の図鑑を手に取り、チューリップの欄を探す。
赤いチューリップは「愛の告白」
ピンクのチューリップは「誠実な愛」
黒いチューリップは「私を忘れて」
スイは最期の最後で私に「私を忘れて」と伝えたかったのだ。気の強いスイが真っすぐにこちらを見て「本気よ」と言ってる姿が目に浮かんで思わず笑みがこぼれる。忘れてと言っておきながら長く残るドライフラワーを作るのがいかにも「忘れないで」とスイの相反する感情が現れているようでなんだか心の裏側をくすぐられたような気がした。私の長い人生の中できっとスイとの思い出が色あせることはない。スイと出会ってよかった。私の心は晴れやかだった。スイは私のためを思って黒のチューリップを入れたのだろう。しかし、それは逆に言えば愛しているの証明でもある。たくさんの愛が詰まった瓶を手にいつかスイに話して聞かせる物語を紡いでいこうと決めた。
この度は私の作品を読んでくださりありがとうございます。反応やアドバイスなどいただけたら嬉しいです。