⑥ 『真っ赤な左手』
アゼルの左手から、真っ赤な血が止まることなく流れている。私はどうしたら良いのかすぐには分からなくて、オロオロとしてしまう。
「アゼル、血が! 血がたくさん……。あっ! お母さんを呼んでくる!」
私はようやく気が付き、部屋を出ようとした。けれど、
「待って。見た目ほど大きなケガではないから、問題ないよ」
アゼルは額から汗をたくさん流しながらも、そういって私を止める。
「バカ! そんなに血を流しているじゃあないの! あれっ? あれっ! どうして!」
アゼルの言葉を無視して、ドアを開けようとしたが、ドアノブが回ってくれない。これでは開けられない!
「だから、大丈夫だよ。それと、カリナさん達まで心配させたくないから、ドアノブには細工をさせてもらったよ。言い忘れていたけれど、この部屋の中の音はけっして外にはもれないようにもしてあるから、さっきの音も聞こえていないよ」
「アゼル、何を言って……」
「イスに座って、アミィ。それから、難しいとは思うけれど、少し落ち着いて。ああ、汚れてしまった床も後で綺麗にするから」
「そんなのどうでもいいわよ! もう、アゼルのバカ……」
ダメだ。アゼルのことが心配で涙まで出てきてしまった。
一人前のレディは、簡単に涙を見せてはいけないのに……。
「ごめんね、アミィ。君を泣かせてしまって。でも、これはものすごく重要なことだから、忘れないでほしいんだ」
アゼルは申し訳無さそうに笑う。けれど、それ以上のことはしない。
座るまでアゼルはこのまま自分の手当をしないことがわかって、私は涙目のままイスに座りなおした。
「うん。ありがとう」
アゼルはそう言うと、額を汗でぬらしながら、いつものように授業を続ける。
「ボクの左手が傷ついたのは、君の魔法の力の集まりを無理やり握ったからなんだ。つまり、君が作ったあの小さな固まりでも、それくらいの力があるということだ。そして、君はそんなエネルギーを自分の体の中で動かしていたことになる」
「あっ……」
たしかに言われるままに魔法の力をイメージして体の中を動かしていた。もしも、それがアゼルの手を傷つけたような事が起こったら……。
そう考えると、怖くなってきてしまう。
「うん。魔法の練習は、必ずボクといっしょのときにしかしないように言っているのは、魔法という力がすごく危険だからなんだ。万が一のことが起こったときに、対応できる人がいないと大変なことになってしまうからね」
私の心を読んだようにアゼルは言って、優しく微笑んでくれた。
「アミィ。君は今回、初めて魔法の基礎を成功させた。それは素晴らしいことだよ。本当にまじめにがんばったからだと思う。でもね、魔法は恐ろしい力なんだよ。
だから基礎を何度もくり返して覚えないといけないんだ。そのことを決して忘れないで」
アゼルはそこまで言うと、左手に魔法の力を集める。すると、アゼルの手から流れる血が止まった。そして、床を汚していた血も綺麗になくなってしまう。けれど、アゼルはなぜか左手に付いた血は消さずに、私にその手のひらを開いて見せる。
「アミィ。傷はふさがったけれど、ボクのこの血がついた左手を覚えておいて。魔法の怖さを忘れないためにね」
「……うん……」
私は素直に頷くしかなかった。
私が練習を何度もくり返すのをいやがったせいで、アゼルはわざと怪我をして見せたんだ。私のために、こんな無茶を……。
「ありがとう」
アゼルは何故かまた私にお礼を言って、今度は手の血も綺麗に消してしまった。簡単に。なんでもないことのように。
魔法を勉強し始めているからこそ分かった。アゼルがすごい魔法使いだということが、改めて。
「約束だよ、アミィ。けっしてボクの居ないところで魔法を、この力を使ったりしてはだめだ。もしもそれが守れないのなら、ボクはもう君に魔法を教えるのを止めるし、君と会うことも止めるからね」
「そっ、そんなのいやだ! 絶対に約束を守るから、これからも魔法を教えて! 側にいてよ!」
私の言葉に、アゼルは「わかったよ」と言ってくれた。
「ははっ、がらにもないお説教をしてしまったね。今日の授業はここまでにしよう」
「はい。ありがとうございました」
にっこりと笑うアゼルはやっぱり格好良い。だからこそ、私は昼間のことを思い出してしまった。
「ねぇ、アゼル。どうして魔法を教えてくれているアゼルはこんなに格好いいのに、今日もラリアさんに叱られていたの?」
私は何気なく訊いたのだけれど、アゼルはガックリと肩を落とす。
「なっ、なんでそのことを知っているのかな?」
「学校の帰り道に、ラリアさんの大声が聞こえて、<銀色のクチバシ>を覗いてみたの。そうしたら……」
私がそう言うと、アゼルはため息をつく。
「ははっ、格好悪いところをみせてしまったね」
「あっ、気にしないでも大丈夫だよ。アゼルが毎日ラリアさんに叱られているのは、私もみんなもよ~く知っているから」
精一杯のフォローのつもりで言ったのだけれど、アゼルは頭を手でおさえて、さらに落ちこんでしまう。どうやら、かける言葉を間違えてしまったみたいだ。
「とっ、とにかく、私は不思議なの。納得がいかないの。魔法のことだと、こんなに格好良くて頭がいいアゼルが、どうして他のことだと全然だめになってしまうのかが」
「あっ、うん。それは、本当に単純な話で、ボクは魔法以外に得意なことがないだけで……。全然だめなだけで……」
アゼルは遠くを見るような目をして、弱々しく言う。
本当にさっきまで格好いいことを言っていた人と同じとは思えない。
「魔法をアルバイトで使うわけには行かないの? 勝手に物を運んでくれたり、並べてくれたりする魔法とかを使えば、ラリアさんに叱られなくてもすむんじゃあないの?」
そんな魔法があるのかは分からないけれど、私はアゼルがこれ以上他の人に叱られるのを見たくないから、ついそう言ってしまった。
「駄目だよ、そんなズルは。魔法なんてものは、使わなくてもすむのなら、使わない方が良いんだよ。それに、ラリアさんはボクのために叱ってくれているんだし」
「ええっ~。そうかなぁ……」
私はアゼルの言うことが信じられない。
「そうだよ。だからこそ、ラリアさんは毎日、仕事が終わるたびに、『明日こそしっかりやるんだよ』と言ってくれるんだ。こんな優しい仕事先の人は初めてだよ」
アゼルは微笑む。
それは、とても良い笑顔だった。
だから、私もそれ以上、文句を言うのをやめた。時計を確認すると、いい時間だったし。
「アゼル、そろそろ夕食の時間だよ。食堂に行こうよ。それと、今日の料理はすごいみたいだから、楽しみにしておいて!」
私はそう言って、アゼルの背中を押して食堂に連れて行くのだった。
もちろん、明日の朝には予定どおりに、とっておきのジャーマンオムレツを作って食べさせてあげようと心に決めながら。
でも、この時、私は一つの失敗をしたことに気づかなかった。
それは、森の動物が減っているという話をアゼルにするのを忘れてしまっていたこと。
そして、私はそれから半月以上もアゼルに相談しなかったんだ。
もしもこのとき相談していたら、あんな事件は起きなかったかもしれないのに……。