殿下は相当変わっている2
目立たずに……。そうしていればきっと、私に与えられた居場所はこのままあり続けるはず。
フィン殿下もどちらかと言えば、目立ちたくない性質なのだろうとは思う。密やかに部屋に籠もっていらっしゃる訳だし、だからと言って、怠けているわけでもなく、わがまま放題でふんぞり返っているわけでもない。
彼はイブリン以外をご自分の世界から排除しようとするだけで、何も求めない。
彼の部屋の中には難しい本がずらりと並んでいていつもは静かに読書をなさっているが、イブリンと遊んでいる時の声は、とても優しく扉の向こうから響いてくるのだ。
誰かの気持ちや国のこと、何も考えられない方ではない。
だから、イブリンの爪を気になされたのだ。
おそらく、彼の考えはイブリン中心だろうが、もし、正統な跡継ぎであるロン殿下やメルバ殿下にイブリンが爪を立てたら、イブリンが断罪されると思ったのだろう。彼の立場ではイブリンを庇いきれないから。
「まずはご自身大事をお考えください」
本当はそれを伝えなければならなかったが、殿下の『命』とも言えるイブリンの価値を下げる訳にもいかなかった。
王位継承はないだろうと噂されてはいるが、やはり第一王子が出掛けるともなれば、王家の紋章付きの馬車に警護が四人も付く。まず身の安全第一に考えられるのだ。目的地も決まっているというのに、町に出ると言うだけで、とても大袈裟である。領内を気楽に歩き回っていた私には、考えられない。
そんな緊張の中にあると、あの国王様の言葉が甦る。
しかし、ここは私が手放せば、すぐに消える世界だ。
馬車の中で殿下は「外をよく見ておくように」と私に伝え、その後は何も話さない。
それも手放せば、消える世界の一端。
お互いに体格の良すぎる兵士に挟まれ、ただ窓の外を眺めている。沈黙だった。馬が石を蹴る音と車輪が転がる音だけが響いている。
窮屈である。
ナターシャがいれば、気持ちは少し楽になったのだろうが、馬車の定員がそれを許さなかったのだ。せめて窓際に座りたかったが、それも危険があるという理由で退けられる。
「申し訳ありません、これは王命でもありまして。万が一お怪我をさせてしまいましては、我々の首が飛びます故」
首が飛ぶのであれば、我慢するしかない。
仕方がないので、やはり窓の外を離れた場所から見続ける。馬車はゆっくりと町を進み、その石畳をカタカタと数えていた。
王都に入った時以来の外だった。町は相変わらず賑やかで、馬車の中にいても人々の声が聞こえてくるほど。果物屋と元気に喋り、今日の夕餉のメニューを語らい、八百屋に行ってくると、元気に店を後にする。
デートでもするのだろうか、お洒落な服屋の前で何度も自分の体にドレスを当てて、困った顔をしている町娘がいる。それに気付いた店員が駆けつけ、お喋りを始める。
籠がたくさん吊り下げられた店では、店主がはたきをしていた。
屋台もある。食べものの良い匂いが馬車の中まで運ばれてきて、お腹が急に空腹を訴え始めた。
トマトソースの匂いに包まれた肉団子、焼いたパン、見たことのないお菓子の甘い匂い。風が町の匂いを運んでは、逃げていく。
少し静かな場所に出ると広場が見えた。大きな噴水と時計台。子ども達の笑い声が響く、この国は平和である。
そして、ふと殿下を見遣った。
殿下はただぼんやりと外を眺めている。何を考えているのかは分からない。しかし、私の視線に気付いた殿下が一言だけ言葉をくれた。
「すまない、もうすぐ着く」
その表情は少しだけイブリンに向けるものに似ていた。だから、スピードを抑えて走る馬車は、ずっと城の中の私を気遣ってのことなのかもしれない、と思うことにした。
婚約が進めば、もう少し外に出る機会も増え、縁ある貴族達との会話にも参加するようになるのだろうが、今の私は本当に侍女と変わらないのだ。
何も出来ない。
父の爵位が上がっていることも、私がここにいることもあまり知られていないのだから、仕方がないのかもしれない。破談になれば、すべてが水の泡となるのかもしれない。おそらく、国王様はその場合の父の体裁を考えて下さったのだろう。
それなのに、破談の決定権は実質私が持っているのだ。
その決定権の話は知られていないが、あの家がそんな私を受け入れるとは思えない。
町の者の住宅街を抜けて、しばらく走った馬車が止まった。華奢な造りの白いフェンスには、王の紋によく似た花が象られており、同じく白いその門が開かれた。衛兵が二人、お辞儀をしている。馬車は厳かに中へと進入して、再び止まった。
御者が馬車の扉を開くと、扉側の警護の者二人が先に馬車を降りて、殿下が当たり前のように続いた。そして、その後に続く私の手を殿下が形式上取ってくれるが、地面に着地するとすぐにその手は離された。そして、警護を一人残して、馬車の扉が閉められた。
扉を開いた御者は慇懃に頭を下げ続け、殿下がその御者に肯くのを合図に進む。もう私のことは放って置かれる。だから、私は警護の者に促され、軽く会釈をした後、その殿下を追いかけた。
歩き始めた先にあったのは、大きな庭だった。白砂の道を挟むように、低木が青々と茂り、その奥には針葉樹が聳えている。その森とも言える深い緑の中からは小鳥の囀ずりが聞こえる。
普通なら、ここも馬車で通り抜けそうな場所だ。しかし、殿下は当たり前のように馬車を降り、歩き出した。きょろきょろしていると、殿下が「疲れはないか?」と前を見たまま私に尋ねた。
「お気になさらないでください。私は大丈夫ですので。殿下こそお疲れではありませんか?」
「私は歩くことが好きだ」
普通に会話をしていることが不思議だった。
「私も、楽しく歩かせていただいています」
いつもと違う木々の匂いも、小鳥のさえずりも。なにより、自分の足で知らない道を、いつも見慣れない景色を見て、何だろうと考えながら、ただ歩くことも。
ただ、本当に楽しい。
手入れされた大きな庭を抜けると、大きな扉の前に、ふくよかな女性がお辞儀をして私達を待っていた。四十代後半だろうか。落ち着いた雰囲気を持つ女性だった。