02_親友を捜す少年(Ⅳ)
それから数日後。
ブラントは歩けるまでに回復していた。
魔女の秘薬というのは凄いもので、肩に負っていた傷もきれいさっぱり消えていた。
いつも朗らかに微笑んでいるペリドットは確かに何を考えているのかよく分からなかったが、それでも常に優しかった。
それ故に、幼い頃に聞いた“魔女”と“ペリドット”のイメージがまるで合致しなくて、ブラントはどうして怖い話が出回っているのかと不思議に感じる程だった。
それでも、今対価に求められているのは“魂”だ。
そういう人知の及ばない部分が恐ろしいのだろうと一人納得する。
ペリドットに視線を向ければ、いつも通り、朝食後の紅茶を用意していた。
毎日食後にお茶を飲むのがペリドットのルーティンの様で、ティーポットや茶葉を魔法で浮遊させながら、無駄なく準備を進めている。
お湯が沸いたのを確認すると、ペリドットはこちらを向いた。
「さぁ、お茶の時間よ」
ペリドットは花の咲くような笑顔を浮かべ、ブラントに席を薦めた。
アールグレイの香りが鼻腔を擽る。
今日は少し柑橘の果実も入っているらしく、爽やかな気持ちにさせてくれた。
天窓から見える空は雲一つない晴天で、小さな小鳥が飛んでいくのが見えた。
ブラントは今日は良い日だと、深く息を吸った。
「ペリドット」
「なぁに?」
これを言ってしまえば、きっともう二度と戻ることはできない。
それでも、決めたのだ。
ブラントはまっすぐにペリドットの瞳を見つめた。
「魂があれば、アネモネの居場所を捜してくれるんだよね?」
「……えぇ、勿論」
「僕の魂を渡した場合、アネモネの居場所を僕に教えてくれる?」
ペリドットは瞳を細めて、紅茶を一口飲んだ。
「ええ。指定した人に、必ず教えるわ」
真っすぐにブラントを見つめたペリドットの瞳は、芯が通っている様に見えた。
ペリドットは本心で言っているのだろう。
ブラントはほっと息を吐き、そっと頭を下げた。
「……お願いします。アネモネの居場所を捜して、教えてください」
頭を下げたまま、ブラントは言葉を待った。
ペリドットはティーカップを静かにソーサーに置くと、くすりと笑みを溢し、体を前に出して机に肘をついた。
「お願いは分かったわ。
代わりに、何を差し出すのか言って頂戴。
魔女の契約は抽象的な言葉は受け付けないの。
誰の魂を差し出すのか、誰に何を教えるのか、はっきりと言って」
ブラントは顔を上げた。
ペリドットはいつも通りの朗らかな笑みを浮かべていた。
今、これは“契約”だとペリドットは言った。
魔女は契約に従順だと、以前聞いたことがある。
それなら、アネモネの居場所は必ず教えてくれるだろう。
アネモネの居場所さえ教えてくれるなら、自分の魂がペリドットに抜かれたとしても、きっと後悔はしない。
アネモネが死んでいたとして、祈る時間くらいはあるだろうから。
「僕の……ブラントの魂を、差し出します。代わりに、アネモネの居場所をブラントに教えてください」
そう告げた瞬間、家の中に突風が吹いた。
驚いて立ち上がると、足元が光っていることにすぐに気がついた。
「これは……?!」
「怖がらなくていいわ。足元の魔法陣は契約の儀式によるものだから」
落ち着いた様子でお茶を啜ったペリドットは、ゆったりと立ち上がった。
しかし、足が床に付いている訳ではなく、浮遊している。
浮いたままブラントとの距離を詰め、ペリドットは穏やかに笑った。
「まさか本当に、差し出すなんてね。私は嬉しいけど」
くすりと笑い、ペリドットはブラントを見下ろした。
「確かに、あなたとの契約は済んだわ。貰うわね。その魂を」
伸びてくる手に、ぎゅっと瞳を閉じる。
これで、僕の人間としての人生は終わる。
身構えているブラントは、身体の横を風が通り過ぎたのを感じたが、一向に痛みや感触は訪れない。
終わったのかとそろりと瞳を開ければ、ペリドットは手の平に乗せた小さな黒い光を愛おしそうに眺めていた。
「ペリドット……?」
声をかければ、ペリドットはいつも通りの笑顔でこちらを向いた。
「契約は施行されたわ。
私はブラントの魂をもらい、ブラントにアネモネの居場所を教える」
そう告げられた瞬間、ペリドットの手の内にいた黒い光は、燃えるように揺らめき、時期に人の形を模した。
その顔には、どうにも、見覚えがあるような……。
「見て分かるわね?ブラント。アネモネは、ここにいるわ」
不意に降りてきた言葉の意味が分からなかった。
アネモネがここにいる?
なら、どうして、最初に知らないと言ったのか。
まさか騙されたのか?
「約束が、違うじゃないか」
「あら?まだ分からないの?
……ん-、そうね、この子をよく見て」
ペリドットは人を模したそれに視線を向けた。
彼の頬を、そっと壊れ物でも扱うかのように優しく撫でた。
「この子はね。今、あなたとの契約でもらった、“ブラントの魂”よ」
……え……?
言葉に出せたか分からない。
真っ白になった頭の中は思考が回らず、そっとペリドットの隣に佇む少年に再び視線を向けた。
視線が絡むと、少年は小さく、声を上げた。
「……アネモネ……」
その瞬間、頭の中に滝の様に記憶が流れてきた。
幼い頃から一緒にいた。
ブラントと一緒にいた。
僕……違う、私は、ブラントと一緒にいた。
お互いの家を行き来して、一緒に遊んで、勉強を教えあって。
ブラントは普通の男の子だった。
やんちゃをして、よく怪我をしたのはアネモネじゃない。
ブラントだ。
怪我の手当てはアネモネがやった。
そうだ、私が、手当てした。
不安に駆られた時には、深く息を吐いて同じだけ吸う。
それを教えてくれたのはブラントだ。
私じゃない。
宝石職人になりたかったのはブラントだ。
私じゃない。
……私は、ブラントじゃない。
ああ、そうだ。
私が、アネモネだ。
ブラントは、あの泉で溺れ死んだ。
一緒に遊びに行って、足を滑らせて、藻掻いて、それでも、這い上がれなくて。
……そのまま、死んだんだ。
アネモネは力なくその場に崩れ落ちた。
のろのろと見上げた先に、こちらを見下ろしたブラントがいる。
あ、とアネモネは小さく声を上げた。
今、私は魔女と契約を交わした。
“アネモネの居場所を捜す代わりに、ブラントの魂を差し出す”と。
アネモネは自分で、ブラントはあの子。
本来は逆だったはずの立ち位置に、アネモネの目から涙が零れ落ちた。
私は、なんてことをしたのだ。
あの子を、ブラントを、ここにいる私を捜すために差し出すなんて……!!
「……契約、契約の破棄を!お願い、だって、これは、そんなのは!!」
ペリドットに縋りつけば、彼女は困った様に眉尻を下げた。
「ダメよ。一度交わした契約は絶対だもの。上書きをするなら、それ相応の報酬をもらわないと」
「何を、何を渡したら……。
……そう、そうだ!
私の魂と、ブラントの魂を交換して!!お願い、お願いだから……!!」
ぼろぼろと涙を流すアネモネの頭に、ペリドットはそっと触れた。
「あなたの魂はいらないわ」
瞬きをした瞬間、外にいた。
ペリドットの家の前。
玄関の階段の下。
少し濡れた土の感触が手に不快感を与えた。
家の中から外を見た時は晴天だったはずなのに、今は深い霧が立ち込めている。
玄関の前に立つペリドットの姿も霞んで見えた。
それでも、ペリドットが微笑んでいるのが分かる。
「さぁ、もうお帰りなさい」
「待って、お願い……!」
立ち上がってペリドットに近づこうと階段に足をかけたアネモネは、突風に巻かれ、数メートル吹き飛ばされた。
自然な風なわけが無い。
それは確実にペリドットが放った魔法だ。
地面に転がったアネモネに興味は無いらしく、ペリドットは隣に佇むブラントの頬をそっと撫でた。
「―――――」
ブラントの口が小さく開いたのが見えた。
距離が遠いから、アネモネからは何を言ったか聞こえなかったが、確かにブラントが何かを言った。
「ブラント……」
アネモネは立ち上がり、前へと進む。
その姿を、今度はしっかりと、ペリドットは見た。
唐突にその黄緑色の瞳と視線が合い、アネモネは足を止めた。
真っすぐに見つめられると、今は少し怖い。
浮遊してそっとアネモネへ近寄ったペリドットは、いつもの微笑みを浮かべ、アネモネの頭に片手を乗せた。
きっと、ブラントが私の願いを聞いてくれるように頼んだんだ。
アネモネは縋るようにペリドットへ一歩近づこうとした。
けれど、何故。
前に進むことが出来ない。
いや、身体を動かすことすら出来ない。
困惑するアネモネを前に、ペリドットは不敵に笑った。
「見たくもなかった現実は、今はもうあなたのものよ。
“さぁ、ちゃんと思い出して。ちゃんと理解して。ちゃんと刻み付けて。
永遠に、あなたの罪を”」
ペリドットから放たれた魔法を付与した言葉は、アネモネの心に深く、えぐるように突き刺さる。
途端、アネモネの瞳は大きく見開かれ、身体ががくがくと震え始めた。
その場に力なく座り込み、アネモネの目から涙がボロボロと落ちていく。
アネモネは両手で頭を抱えた。
雄叫びの様な泣き声が辺りに木霊した。
それを満足げに見下ろしたペリドットは、ブラントの元へと戻り、ブラントを引き寄せるとそっと姿を消した。
そこにあったはずの家諸共、完全に姿を消し、そこにはただ広い空間が広がるだけとなった。