02_親友を捜す少年(Ⅲ)
――――――三日後。
森の中は深い霧が立ち込めていた。
数歩先に何があるか分からないほどの深い白。
その霧の中をブラントはおぼつかない足取りで歩く。
食料はもうない。
水もない。
喉が渇いた。
熱いのに、寒い。
視界がぐらぐらと揺れる。
それでも前に進む。
頭に回すエネルギーはほとんどなくて、ただただ前に進むことしか考えられないでいた。
不意に、目の前を横切る影に足を止めた。
獣?
物音はしなかったけれど、見つかる前に逃げないと……。
そっと身を屈めて、ゆっくりと背後に後ずさりしつつ、影が見えた箇所から目を離さない。
たった三日、されど三日。
ブラントは自身の非力さを自覚し、生き延びる術が逃げることだと正確に学んでいた。
音を立てれば向こうはすぐに追ってくるだろう。
逃げるタイミングを間違えてはいけない。
影がまた霧の中に見えた。
影はそれ程大きくない。
……いや、寧ろ見知ったシルエットのような気が……。
ブラントははっと立ち上がり、その影に向かって走り出した。
人。
人だ。
人がいる!
足を縺れさせながら、必死に見失うまいと追いかける。
声を上げたいのに、喉がカラカラで短い音が微かに漏れるだけで相手に届かない。
人影はこちらに気づかずに、大木の向こう側へ行ってしまった。
ブラントもその後を辿るように、大木の向こうへと走り抜ける。
唐突に、森を抜けた。
はっと、足を止めた。
森に囲われた開けた場所。
近くに川でも流れているのか水の流れる音が響くそこに、一つの家が立っていた。
自分の家よりは大きいけれど、豪邸というほどではない家。
木製の山小屋にしては少し立派すぎる様な、そんな家だった。
あの人影の、住まいだろうか。
ブラントは息を整えながらそろりそろりと家に近寄った。
三日さ迷い続けたことに加え、先ほど無理に走ったせいで足はがくがくと震えている。
満足な治療が出来ていない肩の傷が膿んでいることもあり、既に意識は朦朧としていた。
家の入口まで来ても物音一つ聞こえない。
扉の前の数段の階段にさえ足を取られながら、どうにか上りきり、扉をノックした。
誰でもいい。
出て。
お願いだから。
願いは空しく、誰も出てこない。
もう一度ノックする。
誰も、出てこない。
家の中からは物音ひとつしない。
ドアノブに手をかけてみたが、鍵がかかっていて回りきることは無かった。
もう……だめ……。
ブラントは、その場に崩れ落ちた。
浅い呼吸を繰り返しながら、意識は遠のいていった。
家の前に女性が立っていた。
入口に倒れている人間に近づくと、彼女はゆったりと足を折ることなく腰を曲げた。
黒いヴェールの隙間から見える萌黄色の瞳は、興味深げに少年を見下ろしていた。
***
少女は少年に問いかけた。
『ブラントは将来何になりたいの?』
少年は小鳥と戯れながら、そうだな、と声を上げた。
『僕は……宝石を扱う職人になりたいかな』
『宝石?』
頷いた少年はとろけるように笑った。
『図鑑で見た萌黄色の宝石が、とても綺麗だったから』
***
ブラントが目を開けると見知らぬ天井が見えた。
天井から垂れさがるいくつもの草花が小さく揺れている。
ぼんやりと揺れるそれらを見つめながら、意識を失うまでのことを一つ一つ思い出そうと脳を動かした。
確か、森を抜けて、家があって……けれど誰もいなくて。
……もしかしたらこれは夢なのかもしれない。
頬を抓ろうと腕を上げた瞬間に走った全身の痛みに、ぐぅと、小さく唸る。
どこもかしこも痛い。
腕も足も腹も背中も肩も、傷んでいる筋肉が一つも無いかのように全てが痛く感じた。
同時に、近くで物音が聞こえ、はっとそちらを向いた。
「あらあらあら。目覚めたのね、良かったわ。
丸一晩目覚めないのだもの。いつ鼓動が止まってしまうのかと、とても心配したわ」
黒いドレスに赤い髪。
けれど何よりも黄緑色の瞳に視線を奪われた。
その目を見ると何か見透かされている様なそんな気持ちにさせられる。
けれど、現状から見て彼女が助けてくれたのは間違いないだろう。
痛む体に鞭を打ち、無理に身体を起こそうとしたが、ブラントはすぐにベッドに崩れ落ちた。
「無理をして起きない方が良いわ。ただの人間はすぐに傷を治せないんだから」
朗らかに笑い、彼女はベッド脇の椅子に腰かけた。
そして彼女が軽く手を振ると、傍の棚に置かれていた水差しが浮遊し、そのままコップへ水を注ぐ。
驚きに目を見開いたままのブラントの前に、水の入ったコップが差し出された。
勿論、宙に浮いたまま。
「横にしても零れない様にしたから、口をつけて必要な分だけ飲んでね」
言われるがままに、自分の口元まで浮遊してきたコップから一口水を飲む。
水の感触が喉を伝って体に染み込んでいく。
もう一口飲んで、本当に自分は助かったのだと、ようやく実感した。
椅子に腰かけたままの彼女は未だ優しく微笑んでじっとブラントを見つめていた。
「……あの、あなたは……?」
「私?私はペリドット。
魔女、と言えば何となく想像はつくかしら?」
魔女。
その言葉にはっと目を見開いた。
ブラントが町を出て森をさ迷っていた理由。
アネモネの手がかりを持つ人。
ブラントは痛みも忘れて体を起こそうとしたが、体は言うことを聞かず、少し浮いた体はすぐにベッドへと沈んだ。
「だから、無理に起きては駄目よ。
体の筋繊維はボロボロ。肩の傷は膿んで腐り始めていたわ。
無理のない範囲で処置はしたけど、人間の身体は修復に相当な時間がかかるからね。
ゆっくりして行って頂戴?ね?」
荒い呼吸を繰り返すブラントとは対照的に、朗らかに笑うペリドットは手袋をしたままの手で、ブラントの頭を撫でた。
「魔女……、なら、僕の幼馴染を、知りませんか?」
どうにか声に出せた言葉に、ペリドットは首を傾げた。
撫でていた手を離すと、顎に人差し指を当てて宙を仰ぐ。
その表情はどこか遠くを見つめているかの様だった。
「あなたの幼馴染、って人間のことよね?」
「はい」
「さぁ……知らないわ?だってここに人間は来ないもの」
くすくすと笑い、ペリドットは瞳を細めてブラントを見下ろした。
「けれど何故?そんなことを私に聞くのかしら?」
好奇心に満ちた黄緑色の瞳に射貫かれ、ブラントはしずしずと口を開いた。
「……神様が、魔女が知っているって、言っていたので……」
「神様が?」
まるで豆鉄砲でも食らった様にきょとんと瞳を見開いたペリドットは、少し考えた後、またくすくすと笑い出した。
「神様も随分お人好しだこと」
お人好し?
どういう意味だろう?
いや、だけど、道を示したのは神の言葉だ。
目の前の魔女が、絶対に何か知っているはず。
問い詰めようとブラントが口を開く前に、ペリドットが口を開いた。
「知らなくても、調べることはできるわ」
ペリドットはぺろりと唇を舐めた。
「でも、調べるなら、相応の報酬を頂くことになるわねぇ」
「報酬があれば、アネモネの行方を教えてくれるのか?!それなら、いくらでも……!」
そっと、ペリドットの指がブラントの唇に押し当てられた。
「話は最後まで聞くものよ」
細められた瞳は弧を描いてブラントの瞳を楽し気に見つめた。
「私が欲しいのは、魂よ」
「魂……?」
想定外の要求に目を見開いたブラントとは対照的にペリドットは笑みを浮かべたままだ。
「そう、魂。誰のでも良いわ。
魂を抜けば、身体は生きてはいられない。
確実に死に至る。
魂の使い道は研究材料だけど、そうね、より良いものが手に入ったなら使い魔にするかもしれないわね」
楽し気に使い道を語るペリドットは魔女らしい魔女なのかもしれない。
人の生死に興味もない。
ブラントは考える。
彼女に魂を渡せば、僕は死んでしまう。
空に昇ることもできず、魔女の手の内で消滅するのだろう。
困惑に視線をさ迷わせたブラントの頭を、ペリドットはまた撫でた。
「体を休めながら考えてみて。数日なら無償でお世話してあげるから」
そう朗らかに告げると、ペリドットは部屋を出て行った。
ブラントは一人、ベッドの上で考える。
僕の魂が消えたら、アネモネとは、二度と一緒に生きることはできない。
生きられない。
死んでしまう。
ブラントはぎゅっと目を瞑った。
不意に、とある思考が頭を掠め、いつも通りに振り払おうとして……止めた。
ブラントはこれまでずっと、ある可能性を考えない様にしてきた。
それは、幼馴染のアネモネが“死んでいる”可能性。
それを、ずっと頭の隅に追いやってきた。
ブラントの記憶にある、一番最後のアネモネと別れた日は、何もなく、ただ手を振って別れただけだった。
物心つく前から毎日一緒にいたのに、唐突に、別れの言葉無くいなくなるなんてあるわけがない。
家族や町の人達が何も言わないのは、ブラントが傷つかないように気を使ってくれているだけで、本当はもうずっと前に、アネモネは死んでいるのかもしれない。
ずっと考えて、ずっとそんなわけないと思ってきた。
でも、もし、死んでいるのだとしたら……。
ブラントの意識はまた夢の中に落ちて行った。