05_正義の在処(XII)
フィデルの最期の願いを叶えるため、運動場へと向かう。
その間、フィデルの腕には手錠が掛けられ、そこから伸びた手綱をサンダリオが握り、先導役はヨハンが勤めている。
囚人達が廊下を歩く時間帯ではないため、三人の歩く音だけが廊下に響いていた。
最室を出てから、ずっと無言のまま歩いているフィデルは今何を考えているのか。
サンダリオはじっとフィデルの後姿を見つめた。
牢屋から出した時の表情はいつもと変わらず微かに笑みを称えていて、見方によっては好戦的とも捉えることができた。
今の足取りもしっかりとしていて、迷いはない。
……分かっているのだろうか?今日のことを。
サンダリオは少しだけ心配になってしまう。
心構えなく物事に直面するのは、多少なりとも恐ろしく感じるものだ。
フィデルには伝えたが、本当に伝わっているのか、それは正直分からない。
理解していないなら、その時は……。
そこまで考えた時、運動場が前方に見えた。
神の居住が今日、ここから見えるのかは分からない。
分からないが、それでも、フィデルは祈りたいのだと、昨日そう語った。
運動場へ繋がる扉をヨハンが開け、フィデルとサンダリオは運動場へと足を踏み入れた。
外へ出た途端、風に乗って草木の匂いが鼻腔を擽る。
空には多少の雲はあれど、良く晴れている。
鳥のさえずりが遠くに聞こえた。
しかし、開放的な外の様子とは対照的に、入ってきた三人へ注がれる視線は、運動場内に待機していた看守五名の重圧的な視線だ。
普通の死刑囚の願いで運動場が指定されたとしても、サンダリオが知る中では、ここまでの監視体制を敷いたことはない。
つまり、それだけフィデルへの危険視は強いのだろう。
サンダリオは思っていた以上に圧迫感があると、眉間にしわを寄せた。
「手錠を外す。所定時間まで自由に過ごせ」
サンダリオはフィデルの手錠を外し、一歩後ろに下がった。
フィデルは手首を軽くさすり、ぐるりと回す。
そして、サンダリオを振り返ったフィデルはうっすらと微笑みを浮かべて、踵を返して走り出した。
途端、運動場にいた全員の瞳が、大きく見開かれる。
フィデルが空を飛んでいた。
一瞬の出来事だった。
走り出したフィデルの腕は鳥の様な翼へと変わり、その背にも鳥の様な翼が一瞬の内に生えたのだ。
二つの羽を大きく羽ばたかせ、青い空へ、真っすぐに飛び上がっていく。
塀の高さを越え、更に上空へ。
刑務所の空に、囚人を捉える檻や塀はない。
はっと、サンダリオは全体を見渡した。
「死刑囚を逃がすな!!弓を持っている者は射れ!!!」
サンダリオの怒号が運動場に響き渡った。
その声に、びくりと肩を震わせた看守達は持っていた弓を構え、フィデルへと放つ。
しかし、フィデルは既にかなり上空へと上っており、放たれた弓は掠りもせずに弧を描いて地面へと突き刺さった。
何度射ろうともフィデルに届きはしない。
そして、空高く飛んだフィデルの姿は、空中で唐突に消えた。
それを見ていた全員が呆然と空を見上げ、誰も言葉を発さなかった。
構えていた弓が、一つ一つ下を向いて行く。
途端、全員が理解した。
逃げられた。
この鉄壁の刑務所から、罪人に逃げられたのだと。
静寂と共に、全員の視線がサンダリオに向く。
死刑囚の担当はサンダリオだ。
あの、鬼と呼ばれたサンダリオが、死刑囚を取り逃がした。
そんな視線が集まる中、サンダリオは下を向いて肩を震わせていた。
握られた拳にあらん限りの力が込められているのが、遠くからでも分かる。
すぐ傍にいたヨハンが、苦い顔をしてサンダリオの肩を覆う様に腕を回した。
ヨハンの視界からでは深くかぶられた帽子に隠れて、サンダリオの表情は見えない。
けれど、下唇を噛んで耐えているのは分かった。
「……サンダリオ。過ぎたことは仕方ない。
報告に行こう。
それから、どうするかを考えよう」
「……あぁ」
小さく頷いたサンダリオは、小さく息を吐くと、そっと顔を上げた。
未だ全員の視線がサンダリオに刺さっていたが、サンダリオは一つ手を上げると、撤退の手信号を送った。
全員が通常の持ち場へと戻っていく中、サンダリオはもう一度フィデルが飛んで行った空を見上げた。
青い空。
雲の合間に、一羽の鳥が飛んでいた。
***
あの日から一週間が経った。
死刑囚を逃がしたことは町では大事件として報じられた。
しかし、空を飛ぶことのできる、人間ではない種族が人を騙したのだとも報じられ、刑務所に対する非難は想定よりも格段に少なかった。
この国は他種族に対して、あまり寛容ではない。
それ故にその評価に繋がったのだろう。
しかし、取り逃がした事実は消えはしない。
サンダリオは所長に封筒を一つ手渡すと、執務室にいた看守達に声を掛けた。
ヨハンやゴーダもその中にいた。
今日は非番となっていたはずのサンダリオの姿に、数名から疑問の声が上がったが、サンダリオは苦笑を見せた後、事情を口にした。
「所長に、辞表を提出してきた」
「辞める……?」
ぽっかりと口を開けてそう呟いたのはヨハンだった。
想定すらしていなかったことに、他の看守からも戸惑いの声が上がる。
ざわつく室内の中で、ゴーダがそっと手を上げた。
「理由を聞いても?」
ゴーダも納得がいっていないらしく、眉間に深くしわが寄っている。
それでも、声色はかなり抑えめであり、気を使っているのが分かった。
サンダリオは眉尻を落として口を開いた。
「死刑囚を逃した」
「それは!全員同じだろ!」
ヨハンが一歩前に歩み出る。
その表情は怒りにも戸惑いにも悲しみにも見えて、真っすぐに向けられた茶色の瞳がサンダリオを見上げた。
「あれが人間じゃないなんて分かるかよ!飛ぶ人間なんていない!
あれは不慮の事故だ!
死刑囚は二度と運動場であろうと外には出さない。
それで決着が着いただろ!それ以上のことはいらねぇよ!」
噛みつくようにサンダリオの腕を掴んだヨハンの言葉に、サンダリオは微かに笑った。
「あぁ、俺も、それで良いと思っている」
「なら!」
「それでも、俺はこの国を出る」
迷いの無い瞳に、ヨハンはサンダリオの腕を掴んだまま項垂れる。
なんで、とヨハンの声が掠れて聞こえた。
「捜しに行きたいんだ。
俺の正義に従うために」
はっと全員の瞳が見開かれる。
まさか、とゴーダが口を開いた。
「死刑囚を捜しに行くのか?」
「あぁ。そのつもりだ」
目の前のヨハンは呆然と口を開けたままサンダリオを見上げていたが、少しして顔を緩め、次第に笑い始めた。
ヨハンが笑い出したのを筆頭に、執務室にいた看守全員も呆れたように笑い始める。
サンダリオは看守の中でも鬼と呼ばれる程に恐ろしく、そして規則を守る人間だった。
そして何より、正義を大切にしていた。
死刑囚が逃げたことにより、その心が折れたものと思っていた同僚達は全くの見解違いだったと、思わず笑ってしまったのだ。
ヨハンは一頻り笑い終えると、サンダリオから手を放して、深く息を吐いた。
「……そっか。サンダリオは変わらないな」
「?俺は俺のままだが?」
首を傾げたサンダリオに、ヨハンは困った様に笑みを浮かべた。
こちらの心配など、サンダリオには伝わっていないらしい。
「うん、良いよ。サンダリオの正義に従って、捜してこい」
「そうする」
そのやりとりを皮切りに、看守達から次々にねぎらいの言葉がサンダリオに贈られた。
がんばれ、無茶はするな、落ち着いたら手紙を書けよ、お前がいなくなると大変なんだぞ、そんな言葉を投げられる中、ゴーダはサンダリオの肩を軽く叩いた。
「サンダリオ。あの死刑囚を見つけても、見つけられなくても、いつかまた顔を出してくれよ」
その言葉に笑みを返したサンダリオに、ゴーダは頷き、そっと手を差し出した。
サンダリオもその手をとり、固く握手をする。
「世話になった」
そうして、サンダリオは数日の内に、この町を出立した。