02_親友を捜す少年(Ⅱ)
森の中は日の光が緑に反射して、どこも明るい穏やかな森にしか見えなかった。
獣達もウサギや小鳥ばかりで、危険そうな獣の痕跡もない。
人の通った痕跡である畦道もきちんと続いていて、むやみに森の中に入らなければ、迷うこともなさそうだった。
途中で切り株に座って昼食を取りつつ、寄ってきた小鳥にパンくずを分け与えた。
どのくらい歩いただろう?
ブラントは来た道を見つめた。
もう町も見えない。
お父さんにもお母さんにも言わないで来たから、きっと心配しているだろう。
昔から過保護で、荒事に巻き込まれないようにと育てられてきた。
別に町の人達が荒っぽいとかそういうわけではなかったけど、僕の周辺は子供が少なかったから。
アネモネも僕も大事にされてたと思う。
ホームシックに駆られた衝動を振り払い、よし、とブラントは立ち上がった。
森を超えるのは大人の足でも二日はかかるというし、子供の自分ならもっとかかるだろう。
荷物を背負ってブラントは再び歩き出した。
畦道を歩きながら考える。
魔女は、森を超えた先にいる。
この森を超えて、次の町との間のどこかに。
森の境に小さな川が流れていると誰かが言っていたから、そこを辿るのも良いかもしれない。
魔女だって生き物だ。
生き物には水が必要だから、その付近に住んでるかも。
あ、とブラントの足が止まった。
畦道が終わりを迎えたのだ。
奥を少し覗いてみるも、森はまだまだ続いていそうだ。
思い返しても、ここまで分かれ道は一つも無かった。
向こうの町と繋がっているはずの道があると思っていたけれど、そうでは無かったらしい。
仰いだ空に昇る太陽の位置はまだ高い。
少し進んで、駄目そうなら戻ってくれば良いか。
ブラントはそう考えて、森に足を踏み入れた。
畦道から離れても、日の光が反射しているためか、森はずっと明るかった。
見たことのない花や植物やキノコが生えているのを幾つも見つけた。
もし、帰る時に余力があったら持って帰ろう。
近所に住む花屋のおばさんが喜ぶかもしれない。
そんなことを考えて、更に進んだ。
見たこともない手のひらサイズの虫がいたり、狼が遠くに見えたりと、驚くこともあったけれど、道のりはそう難しいものでは無かった。
不意に、辺りが暗くなるまでは。
それは唐突だった。
先ほどまで緑に反射した光が森を照らしていたのに、まるで蝋燭を消してしまったかのように、急に辺りが暗くなったのだ。
良く目を凝らせば手の届く範囲は見える。
けれどそれ以上は無理だ。
暗い木々の向こうは、何も見えない。
喉奥に不安が押し寄せてくるのを感じ、ブラントは歯を食いしばった。
深く息を吐いて、同じだけ吸う。
怖い時や叫びたくなる時、どうしようもない不安に襲われた時、こうしたら良いと、アネモネに教えてもらった。
もう一度、深く息を吐いて、同じだけ吸う。
落ち着きを取り戻したブラントは、もう一度辺りを見渡した。
ここは草木が茂りすぎている。
それに、先ほどみた狼がここを縄張りにしているかもしれない。
夜に動き出す動物や虫だっているはず。
そうなれば、先程まで歩いていた人の通った道にいた方が絶対に安全だ。
元居た道に戻って、そこで今日は野宿しよう。
荷物の中からランプを取り出して、灯りを付ける。
少しだけ、遠くが照らされた。
がさり、と背後で音がした。
風の音じゃない。
明らかに重量のあるものが草をかき分けた音だ。
背筋が引きつるのを感じながら、ブラントはゆっくりと振り返った。
何も見えない。
ゆっくりと後ろに一歩下がる。
がさり、と自分の音が鳴った瞬間、また先ほどの場所で音がした。
明らかにこちらを見ているのが分かる。
何か分からないが、確実に大きな生き物だ。
子供の足の速さなんてたかが知れているし、草道を走る速さとて自分よりも確実に早いだろう。
比べるまでもなく、勝ち目はない。
それをブラントも理解している。
それでも、逃げないと。
小さく息を吐き、吸う。
音がした方へ持っていたランプを投げつけ、ブラントは踵を返して走り出した。
全速力で、まっすぐに。
それでも、背後から聞こえるがさがさと草をかき分ける音が確実に近づいていた。
くそ、ランプを投げるくらいじゃ、目隠しにもならなかった。
すぐ後ろまで音が迫った時、ガシャン、と奇妙な機械音が鳴った。
想定外の音に驚き、足が縺れさせたブラントは地面に転がった。
叩きつけてしまった肩や腕が痛かったけれど、どうにか体を起こす。
ぜぇぜぇと荒い呼吸を繰り返しながら、目を凝らせば、そこに獣がいた。
熊だ。
けれど、ブラントには飛び掛かりもせず、奇妙に声を上げながら藻掻いている。
熊の足元を見れば、大きなトラバサミが熊の前足をがっちりと挟んでいた。
助かった。しかし、あと少し横を走っていたら自分がそれにかかっていたのだと思うと背中にぞくりと悪寒が走った。
ブラントはゆっくりと立ち上がり、荷物を背負いなおした。
熊が捕まっている間に、離れないと。
藻掻き苦しんでいる熊の泣き声を背後に、ブラントはまた走り始めた。
走って、走って、歩いて。
いくら進んでも元の道は見えない。
逃走した時に闇雲に走ったつもりは無かったが、どうやらどこかで道を間違えたらしい。
ブラントはその場に座り込んだ。
子供の体力では、これが限界だったのだ。
木に寄りかかり、背負っていた荷物を腕の中に抱える。
荒れた呼吸を繰り返しながら、襲い来る睡魔に耐え切れず、ブラントは意識を飛ばした。
***
翌日、ブラントは目を覚ました。
陽の光が緑を反射して、森は暗闇など無いかのように明るかった。昨日の夜が嘘のように。
立ち上がろうとして、体の痛みにうっと唸る。
転んだ時に痛めただろう肩がずきずきと痛み、足は重りでもついているかの様に動かなかった。
空を仰げば、木々の隙間から青空が見えた。
……雨でなくて、良かった。
徐に服をめくって肩を確認する。
「うわ……」
肩から腕、胸にかけて大量の擦り傷が血を滲ませていた。
小さい頃はよくこけて擦りむいていたけれど、この歳になってまたこんなに擦りむくとは。
なんだか現実味がないけれど、痛いのは痛いし、治療しないといけない。
治療は慣れてる。
よくアネモネが怪我をして、治療をしてやったから。
深く息を吐き、荷物の中から救急セットを取り出した。
水で簡単に傷口を流し、消毒液をつける。
脳天を突き抜ける程の痛みに、ぐうと体を丸めてどうにか耐え、深く息を吐いた。
塗り薬とガーゼ、包帯を巻きつけて、応急処置を施した。
片手で治療したから包帯がガタガタだったけれど、無いよりはましだろう。
カバンの中から出した簡易食を口にして、水を飲む。
小鳥の鳴き声が遠くから響いていた。
……帰りたい。
目から涙が溢れてきて、ブラントはぎゅうと荷物を抱きしめた。
両親の顔が頭を掠める。
帰ったら、きっと抱きしめてくれる。
豪華ではないけれど、温かい食事が出てきて、ふかふかとは言い難いけど、お日様の匂いのするベッドで寝れる。
勝手なことをして!と怒られるかもしれないけど、今帰れば、元の生活に戻れる。
あの暖かい場所に戻れる。
そう思うととても魅惑的に見えた。
……でも。
アネモネは今も一人だ。
どこかでずっと耐えてるんだ。
それなのに、僕だけ帰るなんてできない。
ブラントは深く息を吐いて、同じだけ吸った。
このままここで夜を待つわけにはいかない。
傷む体を無視して、立ち上がった。
ここがどこかも分からない。空を見上げても日の位置も良く分からない。
それでも、進むしかない。
当てもなく、ブラントは歩き出した。
獣からどうにか逃げ隠れながら、ブラントは森をさ迷った。
帰りたいと思う気持ちが時折溢れて泣いてしまうこともあったけれど、それでも、前に進んだ。