05_正義の在処(Ⅸ)
仕事が終わり、サンダリオは自宅に戻ってきた。
狭い室内。
ベッドと机と椅子とクローゼットが置かれているだけの生活感の薄い部屋。それが、サンダリオの家だ。
刑務所から割と近い位置にある貸家の一室は、家賃も安く、衣食住にこだわりが無いサンダリオにはちょうど良い部屋だった。
椅子に座り、そっとポケットを漁る。
どこかに捨てるのも、誰かに渡すのも躊躇われた小さな菓子をテーブルの上に転がすと、サンダリオは深くため息を吐いた。
ただのチョコレート。
町で見かけるそれは何の変哲もない食べ物に見える。
けれど。
『毒が入っている。食べない方が良い』
フィデルのあの言葉は真に迫っていた。
そう感じてしまった。
サンダリオは、天井を仰いで深くため息を吐いた。
フィデルの言葉が本当なら、ヨハンがサンダリオに毒を盛ったことになる。
確かに毒を入れるならば誰なのか、サンダリオは秘密裏に調査していた。
けれど正直、あの二人が毒を盛ることは無いだろうと、そんな風に安易に考えていたのだ。
サンダリオが今の刑務所に配属されてから3年、同時期に異動してきたヨハンとゴーダとはそれなりに長い付き合いだ。
人となりは良く分かっている。
他の看守達よりも遥かに。
だから、尚更信じられない。
そっとサンダリオは机の上を見た。
変わらず置かれている個包装された小さな菓子。
チョコレート、最近流行りだした新しい菓子。
実のところ、サンダリオはこの菓子を食べたことがない。
元々甘いものが得意ではないため、今まで食べる機会も無かったからだ。
だから、仮にもし、このチョコレートに本当に毒が入っていたとしても、味で精査はできない。
どんな味がしても、それがチョコレートという菓子の味だと思わざる得ないから。
けれど。
サンダリオはチョコレートの包みを摘まみ上げた。
もし毒が入っていたとしても……入っている量は致死量ではないだろう。
何故なら、ヨハンが俺を殺す理由が、何一つ見当たらないのだから。
サンダリオは、徐にチョコレートの個包装を開けた。
そして、チョコレートを口へ持っていき、半分、噛んだ。
じわりと絡みつくような甘さが口の中に広がる。
微かな酸味と苦味。
そしてすぐにそれは消えてなくなった。
残り香の様な甘ったるい味が口の中をずっと駆け巡っている。
「……俺も酔狂だな」
自身で毒の有無を確かめるなど、普通はしない。
好奇心旺盛だったという父親の血の影響だろうか。
残りのチョコレートを机の上に置き、サンダリオは背もたれに体重をかけると目を閉じて身体の様子を探る。
腹の中が熱い様な気もするが、体調に異変は無い。
やはりフィデルの狂言か。
囚人の言葉を鵜呑みにしようとしたとは、俺もまだまだだな。
肩透かしを食らったような気持ちで、サンダリオは鼻で笑って目を開けた。
目の前が歪んで見えた。
何だ、と思う間もなく、ぐらりと回る視界に姿勢を保っていられず、椅子から転げ落ちた。
身体が痺れて、いうことを効かない。
胃酸がせり上がってきているのが分かり、咄嗟に口元に手を当てようとしたが、腕が動かない。
かろうじて口から出てくることは無かったが、胃酸が食道を行ったり来たりしている様な気がする。
考えようとするが、ずきずきと響く頭痛に邪魔をされ、うまく思考がまとまらない。
冷や汗が額を流れて、ぽたぽたと床に落ちた。
……これは、まずい。
そう思った時には既に遅く、サンダリオは意識を失っていた。
***
幼い頃は、森の中に住んでいた。
町から少し離れた小さな家……父が残した家に母と二人で住んでいた。
多少不便があっても、母は父が残した家を手放すつもりはないようだった。
俺も森での暮らしに不満は無かったし、時折やって来る動物達と遊ぶのも好きだった。
幸せだったと思う。
普通に生きて、笑って、時に喧嘩して、当たり前に家があって迎え入れてくれる、そんな場所を持っていたことは、俺の人生の中で、とても幸福だった思う。
目の前に佇む母は笑っていた。
穏やかで優しい笑みを称えて。
『サンダリオ。いつか、助けが必要な時は……』
はっと目を開けた。
一瞬自分がいる場所がどこか分からなかったが、机の足が見えて自分の家だと気が付く。
どうやら、床に横になったまま意識を失ったらしい。
ごろりと仰向けになり、深く息を吐く。
あれは、走馬灯だろうか?
いや、俺は死んでいないから、それは違うか。
無理やり身体を起こせば、頭がガンガンと痛む。
吐き気と共に感じる確かな不調を我慢しながら、サンダリオはどうにか立ち上がると、ベッドに倒れ込んだ。
窓の外はまだ暗く、一つ二つ星が見えた。
倒れてからそう時間は経っていないらしい。
空を仰ぎながら、ぼんやりと考える。
本当に毒が盛られていた。
その事実に、ぐっと眉間にしわが寄る。
念のために食べる量を半分にしたからこれで済んだが、全部食べていたらどうなっていたのだろう。
吐き気も頭の痛みも気持ち悪さも、間違いなく自身に起こったものだ。
死が近くにいる。
そんな気がした。
しかし、これで確信した。
フィデルは……あの日、確かに毒を盛られ、それを察知したのだ。
それが事実だ。
サンダリオは目元に腕を置き、視界を塞いだ。
目の前に暗闇が広がり、浮遊しているような感覚が自身を包んだ。
「クソかよ……」
三年も一緒に働いてきた仲間にこうも簡単に毒を盛るのか。
持ちつ持たれつ働いてきたというのに。
……いや、しかし、何のために?
結局のところ、それが分からない。
ひとまず明日は休もう。
この体調では仕事もできないし、ヨハンとどう顔を会わすべきかも分からない。
頭を悩ませることばかりだ。
……どうするべきか。
不意に夢に出てきた母の言葉が頭を掠めた。
『助けが必要な時は、“緑の本”を開けてみなさい』
「……緑の本?」
一体、それはいつの記憶だったろうか。