05_正義の在処(Ⅵ)
最室は前面が鉄扉の二枚張りで、小さな覗き窓が一つと、食事を入れるための空洞が一つ付いている。
その前でサンダリオが足を止めると、覗き窓か、深い青の瞳が覗いた。
「サンダリオ」
細められた瞳に呆れてため息を吐き、サンダリオは眉間に皺を寄せた。
「さんをつけろ」
「サンダリオさん」
「よろしい。……昨日、やらかしたらしいな?」
あー、とフィデルは視線を逸らした。
全身が見えなくなって感情が読み取りづらい。
やりづらいと感じながらも、サンダリオは言葉を続ける。
「看守に手を出せば処罰が下ることは分かっていただろう」
「まぁ、ね……」
「……何があった?」
はっとフィデルはサンダリオを見た。
サンダリオの黒い瞳が真っすぐにフィデルを捉えている。
そこに侮蔑や軽蔑の色は見えない。
「何かあったのだろう?だから手を出したんじゃないのか?」
片眉を上げたサンダリオは、ただ疑問を口にしているだけのようだ。
けれど、その問いは、フィデルにとって、驚きと喜びを与えるものだ。
何故なら、他の看守は誰もフィデルにそんな問いかけをしなかったのだから。
フィデルは思いがけず和らいだ顔を隠すように鉄扉に頭をつけた。
いつもとは違う様子に、具合でも悪いのかと口にしたサンダリオに、フィデルは首を横に振って見せたが、鉄扉に阻まれてサンダリオには見えない。
「おい?」
「あー、ううん。何でもない。
ていうか、俺に聞くんだね、他の看守に情報もらったんじゃないの?」
「お前の行動は聞いた。だが、お前がどうしてそうなったのかは、お前にしか分からないだろう」
「……ふふふ。そっか、そっか」
表情を和らげて、くすくすと笑うフィデルを、サンダリオは怪訝な瞳で見つめていたが、その間も答えを待っているようだった。
フィデルは改めてサンダリオを見た。
黒い瞳に淡く滲む赤が見える。
「毒が、入ってた」
フィデルを見据えていた瞳が、ゆっくりと見開かれる。
毒?
「食事に、毒が入ってて、だからひっくり返した。
持ってきたあの看守にも毒の臭いがついてた。
毒を入れたのがあいつかどうか確かめるために近寄って捕まえたけど、警棒でぶっ叩かれた」
「それで?」
「もう一回来たから、もう一回捕まえた。
でも、なんか臭いが薄くなってて、いまいち分かんなかった。もう一人来た看守に鼻ぶん殴られるし、こんな狭い部屋に入れられるし……」
深々とため息を吐いたフィデルは、くるりと部屋を見渡した。
狭く、ベッドだけが置かれた部屋。
外が雨のせいで明り取りの窓からは光が入らないため、室内は暗闇に近い。
雨音が遠くから聞こえる以外はほぼ無音で、気味が悪い。
フィデルは再度サンダリオに視線を戻した。
顎に手を当てたまま考え込んでいる様子に、本当に自分の話を聞いてくれたのだと、フィデルは密かに微笑んだ。
対して、サンダリオの頭の中は疑念と疑惑が飛び交っていた。
フィデルの話が本当ならば、誰かが毒を盛った。
それができるのは食事に携わった人間だけだ。
食事担当の囚人、監督した看守、食事を持ってきたヨハン。
けれど、他の囚人達に被害は出ていない。
そうなると、フィデルだけに盛られた可能性が高い。
囚人が盛るとは考えづらいが、看守がそれを行うとも考えづらい。
何故なら、目の前にいるフィデルは死刑囚だからだ。
遠くなく死ぬ人間に、わざわざ毒を盛るだろうか?
いや、そもそも。
「なぜ、何故毒が盛られていると分かった?」
「俺、臭いには敏感な方なんだよ」
すんと鼻を鳴らしたフィデルは、はっと目を開いたが、そのまま言葉を続けた。
「前に食った時に死にかけた臭いが、あの中に入ってた……」
「物が何か分かるか?」
フィデルは首を横に振った。
その時も変な臭いがすると思いつつ食べて苦しんだ事しか分からないと。
眉間に皺を寄せて考えるサンダリオに、フィデルは、なぁ、と声を掛けた。
視線を上げたサンダリオに、フィデルはいつも通りの好奇心を含んだ瞳でサンダリオを見ていた。
「森の山小屋に行ったんだろう?どうだった?」
サンダリオは微かに目を見開いた。
なぜ、知っている?
誰にも言っていないのに。
内心は焦りも警戒もしたが、口にも表情にも出さずに、じっとフィデルを見るに留めた。
どうだった?と再度急かしてくるフィデルにサンダリオは重く口を開いた。
「……どうして、そう思う?」
「え?だって、匂いがしたから。
あの森の草と、動物の血と、食糧庫の死臭の匂いがした。だから行ったんだなって」
昨日帰宅してから風呂にも入ったというのに。
どうやら、匂いに敏感というのは本当のようだ。
サンダリオはぐっと奥歯を噛んだ。
まさかこんなことでバレるとはつゆほども思わなかった。
さて、どう答えたものか。
「……お前はなぜ人を食った?」
「質問に質問で返すのか?ずるいなぁ」
にぃと笑みを深めたフィデルに、サンダリオは澄ましたまま口を開く。
「先ほどの質問に、答えは未だ無い」
「ふーん?じゃぁ俺が答えたら、今のところの答えをくれるか?」
「……良いだろう」
一つ頷いたサンダリオに、フィデルは朗らかに微笑んだ。
ただし、その瞳しかサンダリオには見えないため、細められた瞳がたくらみに成功した悪い顔にしか見えなかったが。
「俺が人を食うのは、美味いと思ったからだよ」
「美味い?」
「そう。今までは普通の家畜の肉で満足だったんだけどさ。
人の肉って癖があるけど美味いって思った。
だから狩りの範疇に入れた」
楽し気に微笑んだフィデルに、サンダリオは眉間の皺を増やした。
まさか、そんな単純な答えが返ってくるとは思っていなかったのだ。
正直、もっと深い理由を考察していたサンダリオにとって、これは頭を抱えざるを得ない内容だった。
「この国の法律では良くないことだったみたいだけど、まぁ仕方ないさ」
軽い声を出したフィデルに視線を再度向けると、和やかにこちらを見ているフィデルと目が合った。
本当に、それが悪いとは思っていないのだろう。
それが分かるほど、フィデルは穏やかだった。
「それで?サンダリオは?」
“森の山小屋に行った、今のところの答え”は?
そう問われたのが分かり、サンダリオは少し考えた後、小さく口を開いた。
「……分からない。
お前が何のために居を構えたのか、誰かを待っていたのか、そんなことを考えていたが、お前の今の言葉で、意味がなくなった様な気がしている」
それは正直なサンダリオの心だった。
事前にもらっていたフィデルの人物像と実際に接してみた感覚は明らかに違う。
興味を持ったのはそんなところからだが、ずっと何かを見落としている様な気がしていた。
あの山小屋で、その疑惑が強まったところだったというのに、それも何の意味もなかったのだろう。
ため息を吐いたサンダリオに、フィデルはくつりと笑い声を滲ませた。
「待ってたんじゃない。さがしてたんだ」
獰猛な青い瞳がサンダリオを見つめていた。