04_ガラクタの心(XV)
茜は目を開けた。
小さな机の上に置かれたマットの上に横たわっている茜は、目の前に落ちてきている月明かりをぼんやりと見上げた。
とても長く眠っていた様な気がする。
体が重い。
動けない程じゃないけど、これじゃ走れないな……。
いや、それよりも、俺は今まで何をしてた?
そこまで思考した時、不意にノアの顔が浮かび、茜は目を見開いた。
ノアは、どこだ?
慌てて辺りを確認すると、ノアがベッドに寝かされているのが見えた。
細長い管がノアに繋がっているのが見え、茜は体に力を入れて立ち上がった。
力の入らない身体を無理に動かし、よろよろと歩いて床へ降りる。
着地もままならずに身体を打ち付けてしまったが、それでも茜は歩き出した。
ノアが眠るベッドの下に来ると、茜はぐっと足に力を込めて跳んだ。
しかし、平時よりもかなり筋肉が衰えているのは明白で、跳ぶ力がまるで足りていない。
後ろ足が落ちかけながらもベッドの上によじ登ると、茜はノアの顔を覗き込んだ。
青白く生気のない肌、腕に巻かれた包帯が布団の隙間から見えていた。
森で暮らしている時にも何度か見かけたことがある。
深部のあの地区でも見た。
死んでいく前の衰弱している姿がどうにも被る。
その思考を振り払う様にぶんぶんと頭を振り、茜は衰弱しているノアの顔にそっと自分の顔を擦り付けた。
呼吸はしている。
まだ暖かい。
鼓動も聞こえる。
生きている。
ノアは、生きている。
そっと目を瞑った茜の耳に、扉を開く音が響いた。
はっと目を開き、音のした方を向く。
重い体をどうにか起こし、ノアを庇う様にしてベッドの上に立った。
目の前にいるはずの何かに、茜はじっと目を凝らす。
月明かりの届かない扉の前に小柄な人影が立っているのだけは分かるが、動く気配がまるでない。
けれど、その瞳が確かに自分を見ていると茜にも分かった。
森の中にいた獰猛な肉食獣の殺意とも、同族達から向けられた監視とも、町の人間の好意的な視線とも違う。
奇妙な感覚に茜はぐっと奥歯を噛みしめ、視線を逸らさぬようにした。
動かぬまま、どのくらいそうしていたか。
扉の前にいた人影は漸く歩き出した。
月明かりの中に入るとその容姿がはっきりと分かる。
金にも銀にも見える瞳。白い髪。額から生える枝の様な角。
森の様な海の様な風の様な、穏やかな匂い。
明らかに人でも獣でもない存在に、茜はびくりと身体を震わせた。
けれど逃げも隠れもしない。
自分がここから退けば、誰がノアを守るのだ。
ぐる、と小さな唸り声を上げた瞬間、目の前の存在はくすりと笑みを溢した。
「ノアを守りたいのかい?」
その言葉に、茜ははっと息を飲む。
目の前の存在はノアのことを知っている。
「……あんたは、誰だ」
「誰?そうだな……。ノアに頼まれて、君を助けた存在、かな」
茜は瞬きを一度した。
自分を助けた?
何の事か分からず、じっと目の前の存在を見上げた。
「まだ記憶が混濁しているみたいだね。
ほら、良く思い出して」
そっと手を向けられた瞬間、茜の脳裏にあの日の光景が蘇った。
ノアが刺され、魔術で意識を刈り取られた。
茜はノアを守るためにショウの前に立ちふさがり、そして、応戦も空しく、意識を飛ばした。
「そう。君は彼らに連れられて売り物にされそうになっていたけれど、ノアが救い出した。
けれど薬やら魔術やら随分酷い扱いを受けて瀕死の状態だった。
ノアは、私に願った。
茜を助けて、って」
一連の流れを言葉として聞いたはずなのに、茜の脳裏にその光景が浮かんでは消えた。
まるでその場にいたかの様な感覚に、茜は一歩後ずさる。
目の前の存在が何なのか、漸く分かった。
「神、様?」
「うん。おはよう、茜」
おはよう、と軽く言われ、茜も思わず同じように復唱して返した。
その間も、神はずっと微笑んでいる。
その笑みはどこかノアを彷彿とさせ、茜は少し怯んでしまう。
神だと分かっていても、いや、分かっているから、ノアに近づいてほしくない。
神は、命を奪うこともあると聞いたことがある。
ノアの命を守るために牙を向く時が来たら、その笑みのままだと、どうにもやりづらい。
そこまで思考した瞬間、神は酷く楽し気に笑い出した。
その笑いはノアからは出たことが無いもので、茜は小さく息を吐いて神を見上げた。
一頻り笑い終えた神は、ベッド脇に置かれた椅子に座った。
「私に牙を剥こうなんて、中々面白いね。
やっぱり君は少し特別だ。
ノアの心の欠片が随分馴染んでいるし、自分の重傷を押してでも君を助けに行ったし。
あ、ノアの命に別状は無いよ。無理をした反動で倒れただけだ」
「……心の欠片?」
何の話だと眉を潜めた茜に、神は微笑みを浮かべた。
また、ノアの微笑みと被る。
「ノアの心は完全じゃないんだよ。
ばらばら。今はまだ、ガラクタばかりだから」
怪訝な表情のままの茜に、神は一つずつ説明していこうと、指を一振りした。
空中に映像が流れ始める。
それは、幼い頃のノアの姿。
表情の無い、無機質な、ぼんやりとした様子の少年の姿。
「心を感じることも、それを理解することも、表現することも、ノアは出来なかった。
感情を示さないノアを親が毛嫌いして、孤児院に捨て置いてね。
ノアはそのまま孤児院に引き取られた」
映像の中のノアは親に何度も叱られていた。
何度も、何度も、殴られて、怒鳴られて。
けれど表情を変えることもなく、ただ親を見上げていた。
孤児院に連れて行かれてからもそれは変わらない。
孤児院の中の子供達に蔑まれても、表情一つ変えず、ノアはただ淡々と生きていた。
「10歳になっても、ノアは変わらなかった。
言われたことは理解できても、そこに感情は伴わない。
周りの子供達が笑っても怒っても、その意味も理由も、感じる気持ちも何一つ理解できなかった。
心が無いと、周りの人間に何度も言われて、ノアはそうなのだと次第に理解するようになった。
“自分に感情が無いのは、どこかに落としてしまったのだ”ってね。
まるでパズルの様に、ばらばらになって零れて落ちてしまったと、そう思ったんだ」
映像の中のノアはいつも一人で、空を見上げていた。
食事も、風呂も、与えられた仕事も出来るのに、やることが無くなると、空を見上げてじっとしていた。
まるで人形の様に。
そして、映像の中の空に、神の居住が現れた。
ノアの周りの子供達がそれを見て声を上げる。
『神様に願えば、叶えてくれる』
ノアはその子供の言葉に、すっと立ち上がった。
神は話を続ける。
「ノアは、私の元に来た。
願いを持って。
“落としてしまった感情を拾いに行くには、どうしたら良いのか、教えてほしい”
そう私に願った」
映像の中の神は微笑んで、それを了承した。
「ノアが心を拾えるようにその心に印を付けてやった。
ノアが見れば、それが自分のものだと分かるようにして、世界中を旅する様に告げた」
ノアの旅の目的は、心を集めること。
「今回集めてきた赤のブローチも、ノアの心の欠片だよ」
シェーラから譲り受けたあの曰くつきの宝石。
人を狂わす効果があると言っていたが、心の欠片であるなら、それは納得だと、茜は思った。
心は強い力を持つ。
それはどんな生き物にも通じるものだ。
「……全部そんな曰くつきの宝石なのか?」
「いや、ノアの心は宝石とは限らない。
ものに付随しているだけだから。
草木や土、衣類、器具、様々なものに心の欠片はくっついている。
今回がたまたま宝石だっただけだよ」
茜は神が語る話を飲み込みながら、不意に首を傾げた。
なんで、ノアの心が世界中に飛び散っているのだろう?
零れ落ちただけならば、近くで拾えるはずなのに。
はっと顔を上げれば、神はまた楽し気に笑みを浮かべていた。
「良いところに気が付くね。
うん、そう。ノアの心は元々世界中に散らばってなんかいない。
ノアの心は元々、ノアの中にあった」