01_それは神の住居(後編)
残された神は満足げに微笑んでいた。
愛おしむようにゲートを見つめているその背後から、老年の男ヒューゴが姿を現した。
神が寝台から出た直後から、彼は付かず離れず神の後を付いてきていた。
勿論、少年のことも認知していた。
「珍しいですね。あの植物園の果実を与えるなど」
少年に渡した黄色の実。
あれは西の国でも山岳地帯の一部にしか育たない果実であり、あの植物園で生態観察と育成をしていたものだ。
いや、あの植物園の中にある植物はどれも地上では珍しいとされるものばかりで、あれが特別珍しいというものではない。
けれど、植物園への立ち入りは神の居住の中にいる者でもほとんどが許可されておらず、植物を与えられることも無い。
それを侵入してきた少年に神自らが与えたのだ。珍しいと思わざる得なかった。
ヒューゴへと振り返った神は、まだ嬉しそうに笑みを浮かべていた。
「気に入ったから」
歩き始めた神の後ろを付いて行きながら、ヒューゴは思案する。
「ということはあの少年、魂が綺麗だったのですね?」
神は魂の形や色が見える。
そして気に入ったものを近くに置くことがある。
しかし、神ははっきりと首を横に振った。
「いいや。普通の魂だったよ」
「ならば何故」
「んー、まず会いに行ったのは、ゲートの規律に引っ掛からなかった」
ゲートの規律、それはこの神の居住に入る際に通るゲートに付与されている力のことだ。
神への願い無くゲートに入るとそのまま拘束されるようになっている。
謁見以外の時間で、ゲートの規律に引っ掛からずに入ってきた生き物は最近では珍しい。
神は久しぶりの珍客に会いに行っただけだというのだ。
「二つ目は、少年は僕を神だと思わなかった」
殆どの者が神を見た瞬間に気が付くというのに、少年は最後まで気づくことがなかった。
鈍感なのか、気づかないように無意識にしていたのかは定かではないが、神にとってはそれが良かったらしい。
「三つ目は、少年の妹」
「妹、ですか?」
神はにやりと笑った。
慈しむような、悍ましいような、そんな笑み。ヒューゴはごくりと唾を飲み込んだ。
「あれは面白い色をしていた。どう育つのか、見てみたくて」
あぁ成程と。漸くヒューゴは得心した。
気に入ったのは、少年ではなく、少年の妹だということを。
そして同時に思い出す。
神の約束の話を。
遥か昔、生き物を作り出した時、神は二つの約束事を決めたという。
『一つ目の約束は"選択する"こと。二つ目の約束は"必ず死ぬ"こと』
どう生きるのか、それは神の決定ではなく、自分自身で選択すること。
右に行くか左に行くか、進むのか止まるのか、やるのかやらないのか。すべては自分で選択し、生きること。
そして、必ずこの世を去ること。
その二つ、神がこの世界の生き物に与えたものは、たったそれだけだった。
この神は生き物がどう選択して生き、死ぬのか、それを見たい。
だからこそ、面白い色をした少年の妹がどう育つのか楽しみになったのだろう。
「私が渡した薬がなければ二つ目の約束が果たされてしまう。丁度良く、少年の願いでもあったしね」
神は楽し気に笑った。
長年見てきたヒューゴは良く知っている。
神は気まぐれに生き物達に手を貸すことを。
……そう、必ず貸すわけではないのだ。
あの少年は運が良かっただけ。
いや、そういう選択をした。ということなのだろう。
不意に足を止めた神に合わせ、ヒューゴも足を止める。
「ヒューゴ」
「はい」
振り返った神は、大層美しく微笑んでいた。
「妹は、いつかここに来る。あの子は新しい道しるべになるだろう」
思わず目を見開いたヒューゴを後目に、神は鼻歌を歌いながら歩き出した。
ヒューゴは背筋に冷たい汗が流れているような心臓が熱くなるような不可思議な感覚に戸惑いながらも、神の後を付いて行った。
***
少年は妹に煎じた湯を飲ませた。
神の住居に住む者から渡された植物を煎じた湯を。
そして数日後、少女は歩き回れる程に元気になっていた。
母も妹もここ最近は全く見なかった笑顔が家の中に溢れていた。
少年も笑顔だった。
これで三人でまた元気に過ごせる。
それが嬉しかった。
……けれど。
近くに住む住人達は別の病にかかっているものも多い。
ここは下町の中でもスラムに近い。病原菌を持っている者も多いのだ。
もっと稼いで、もう少し治安の良い場所に引っ越せればいいのだけれど。
少年は新聞配達のバイトをしながら、そんなことを考えるようになった。
「へぇ、西の国の薬草ってのは凄いんだなぁ」
不意に聞こえた言葉に少年は顔を上げた。
バイト先の所長の声だった。
新聞を広げており、近くにいた職員が何の話ですか?と苦笑交じりに声をかける。
「ほら見てみろ。西の国の薬草がこんな高値で取引されているらしいぞ」
職員も新聞を覗き込み、記事を読むと深々と感嘆の声を上げた。
じっとその様子を見つめていた少年に気が付いた所長が、お前も見てみろと声をかけてきた。
少年はまだ文字の読み書きを勉強している最中であり、それを知っている所長は新聞の内容を簡単に説明してくれた。
西の国にある薬草が、この国の流行り病に効くことが分かったという。
しかし、その薬草の増産はまだまだ難しく、薬草には相当な高値がついているという記事だった。
「これがその薬草らしい。黄色の果実だってよ」
記事に載っていた写真の果実に、少年は見覚えがあった。
あの時もらった果実だ。
あれが数個あるだけで、引っ越すことが出来るだけの資金になることが新聞には書かれていた。
引っ越すことが出来れば、家族はもっと幸せになれる。
少年は考えた。
妹を助けたいとあの日侵入した神の住居。
ゲートの位置からあの植物園への道のりは覚えている。
あの時案内してくれた少年は、簡単にあの果実をもいで、俺にくれた。
追加で何個かもいでも、問題ないんじゃないか。
一度行った場所だ。
行って戻ってくるのは難しいことじゃない。
神の住居はあと数日でまた旅立ってしまう。
少年は悩み、悩み、悩み、そして、決めた。
深夜、母も妹も寝静まった頃、少年は家を出た。
向かう先は神の居住のゲート。
あの日通ったあのゲートへと。
今日も勿論見張りはいた。けれど、警備体制は何も変わっていない。
これなら、あの日と同じように死角からゲートへと入り込むことはできる。
笑みを浮かべて、少年はゲートへと飛び込んだ。
刹那。
少年は牢の中にいた。
冷たい鉄格子と石の壁が少年の四方を囲んでいた。
「え?」
思わず漏れた声は小さく反響して、再び静寂へと戻った。
事態が呑み込めず、辺りを見渡すが、薄暗い牢の中では何も分からない。
少し遠くで、衣擦れの音が聞こえ、少年は身構えた。
歩いてきたのは、少年よりも5倍ほどの身長を持つ、黒いローブを纏った細身の巨人だった。
その手に持ったランタンの灯りが少年の顔を照らした。
「こんな子供が入ってくるとは」
憐れむように瞳を細めた巨人に、少年は口を開いた。
「……ここは、何ですか?」
巨人は少し思案して、口を開いた。
「神の居住さ。ゲートに入っただろう」
確かに、ゲートに入った。
けれど、それは以前と同じで、何も変わっていない。どういう、ことだ。
なんで違う場所に出た?
いや、それより、ここから出してもらわないと。
何か、何か、何か。何か、ここから、出れる方法を。
不意に、脳裏に掠めた言葉に、少年は巨人を見やった。
「ここに住んでる少年に、お礼が言いたくて来たんです」
あの日ここを案内してくれた少年は『また来い』と言った。それは間違いない。
たとえ規則を破ろうと、お礼を言いたくて、なんて善意を牢屋に入れたままにはしないだろう。
「……そうか」
あっさりと頷いた巨人が踵を返そうとしたのを見て、少年は待ってくれと声を荒げた。
「角の生えた少年です!彼に確認して下さい!来てくれと、言われたんです!!」
「角?」
止まった足にほっと息を吐く。
あの日案内してくれた少年は自分は上の方に属していると言った。きっとこの巨人も無下にできないんだ。
「枝のような角の生えた少年です!先日彼に助けられて、それでまた来てくれと、そう言われたんです」
巨人は深々と思案し、分かったと頷くと牢に背を向けて歩いていった。
静寂が戻った牢屋の中で、少年は奥歯を噛みしめて鉄格子を掴んだ。
「大丈夫。きっと、大丈夫。
家に、帰る。
帰れる。
大丈夫。
だって、まだ、何もしてない」
大丈夫、大丈夫、と何度も呟く言葉が牢の中に木霊していた。
*
神殿の椅子に座っていた神は今日の最後の謁見者を見送り、一つ息を吐いた。
外はまだ月が輝いていて、夜明けには程遠い。
植物園でも見に行くかと腰を上げて廊下へと出た。
「神様」
背後からかけられた声に、神は驚きに目を見開いた。
久しく聞いていない声だったからだ。
振り返れば、牢屋番をしている巨人がそこに立っていた。
彼は長年この居住の牢屋番をしている。
神との接触は普通の住民より少ない。巨人がそうありたいと願ったからだ。
そんな巨人が珍しく自分の元を訪れたのだから、何事かと神は高揚した顔で彼を迎えた。
「どうしたんだい?何か願い事が?」
「いいえ。本日牢屋に入った者のことで確認が」
この巨人から願いや祈りを聞いたことは一度もない。
一つくらい聞いてみたいと神は思っているのだが、今日もそれではないらしい。
「そう……。それで確認って?」
「神様が来いと言ったから来たと宣うものがおりまして。念のために」
「……その生き物は、今、牢に入っているんだよね?」
「はい」
神が一つ瞬きをすれば、金にも銀にも見えるその瞳の奥に淡い光が揺らめき、牢の中を映し出された。
少年がぶつぶつと何かを呟いている様が神の脳裏に映し出され、神は短く息を吐いた。
「……いつも通りで構わないよ」
「よろしいので?」
「約束は違えている」
神の呆れた様な声に一つ頷いた巨人は一礼して踵を返した。
その背に、神は溌溂と声をかける。
「出したかったら出していいよ。私は君を罰しはしない」
「必要ありません」
巨人はそのまま立ち去り、神は名残惜しそうにその方向を見つめていた。
相変わらず屈強な魂だ。
くすりと笑い、神も踵を返す。
牢にいる少年との約束は、『妹を連れてくること』だ。
その約束は果たされていないため、優先する必要はない。
神の居住へ繋がるゲートは神に会うために潜らなければ、牢屋へと飛ばされるようになっている。
少年は別の要件でここに来た。
それは間違いようのない事実。
牢に入った者の待遇は必ず生き物の手で行わなわれる。
神への用事ではないのだから、それは当然だ。
ただの不法侵入か、それとも……。
そこまで考えて、神はふっと息を吐きだした。
そこから先は生き物同士で解決してもらおう。